3話
生まれて二週間が経った。
赤ん坊の生活にも少しずつ慣れてきた。慣れてきた、というか慣れるしかなかった。
寝て、飲んで、泣いて、また寝る。やれることがそれしかないのだから。
目もだいぶ見えるようになってきた。ぼんやりとしていた両親の顔も、今では輪郭がはっきり分かる。
優しい母。いかつい顔の、けれど俺を見るときだけだらしなく崩れる父。
いい両親だ。第二の人生、家族には恵まれたらしい。
この二週間ずっと寝てばかりだったが、暇な赤ん坊にできることといえば、まわりの声に耳を澄ませることくらいだ。
おかげで、少しずつ自分の置かれた状況が分かってきた。
まず、名前だ。
俺の名前は、どうやら「リード」というらしい。
母が、俺を抱きながら何度も呼んでくれる。
「リード。あなたの名前は、リードよ」
リード。アーデン・リード。それが俺の新しい名前。
悪くない響きだ。前世の名前はもう、思い出すのも億劫なくらい平凡だったから。
リード。うん。なんだか、ちょっとした冒険者みたいでいいじゃないか。
中身はしがないサラリーマンだが名前くらいは立派でいたい。
そして家族の名前も分かってきた。
父はボルド。アーデン・ボルド。いかつい顔の力持ちの父。
母は、フィーナ。アーデン・フィーナ。優しい目をしたいつも笑っている母。
アーデン・ボルドとアーデン・フィーナ。その息子でアーデン・リード。
それが今の俺の家族のかたちだ。
前世では家族との縁なんてとっくに冷えきっていた。
盆も正月もろくに帰らなかった。それが今はこうして、毎日名前を呼んでもらえる。たったそれだけのことがなんだかくすぐったい。
……まあ、当の本人は中身おっさんなんだけど。それを思うとやっぱり、ちょっとだけ申し訳ない。
もうひとつ分かってきたことがある。
うちの家業だ。
毎日、両親の会話を聞いているとなんとなく察しがついてくる。
「今年の小麦は、出来がいいな」
「ええ。雨も、ちょうどよく降ってくれたから」
「あの畑も、そろそろ手を入れないとな」
「鶏たちも、よく卵を産んでくれてるわ」
……小麦。畑。鶏。卵。
これはもう、間違いない。
うちは農家だ。
はっきりそうと聞いたわけじゃない。けれど、毎日の会話の端々からそれは確実だった。
父は朝早く畑に出て汗だくになって帰ってくる。
母は家の仕事をしながら鶏の世話をしているらしい。
土の匂いと家畜の匂いがいつも家のどこかに漂っている。
なるほど。だから、二人ともあんなに日に焼けていて腕がたくましいのか。納得だ。
農家の息子か。
前世では、ずっと都会のアパートでコンクリートに囲まれて暮らしていた。
土なんてろくに触ったこともない。それが今度は農家の子。太陽の下で土にまみれて育つ人生。
悪くない。むしろいいかもしれない。健康的だ。
とはいえ、赤ん坊の体というのはこちらの都合などお構いなしだった。
一番こたえるのが夜である。
夜泣きというやつだ。
最初は自分でもわけが分からなかった。お腹が空いたわけでもおむつが気持ち悪いわけでもないのに、ふいに涙が出て声が出る。
なんで泣くんだと。けれど、何度か繰り返すうちに気づいてしまった。
俺は思い出していたのだ。前世の家族のことを。
前世の両親は俺が一歳になる前に離婚した。俺は父親に引き取られた。
けれど、その父親がまともに育児をする人間ではなかった。見かねた父方の祖父母が俺を引き取って育ててくれることになった。
ほどなくして、父親は再婚した。新しい家庭を持ち新しい家族ができた。俺との縁はそれから少しずつ薄れていった。
一度だけ父親が、俺を引き取りに来たことがあったらしい。再婚して家庭も落ち着いた頃に。
けれど祖父母は首を縦に振らなかった。これまでの父親の振る舞いを見てきて信用ならなかったのだ。
また同じようにこの子に寂しい思いをさせるんじゃないかと。だから引き渡さなかった。
自分たちで育てると。
年金暮らしの老夫婦が、育ち盛りの孫を育てる。簡単なことではなかったはずだ。
けれど二人は文句ひとつ言わず俺を育ててくれた。
ひもじい思いをさせまいとして。血のつながりはあっても義務なんてなかったはずなのに。
祖父は、俺が高校を卒業するのを見届けてくれた。「これで、やっと肩の荷が下りたわい」——そう言って安心したように笑った半年後に眠るように亡くなった。
最後まで俺の卒業を待っていてくれたのだ。
祖母は、その後もひとりで俺を見守ってくれていた。けれど、その祖母も三年前に逝った。
なのに俺は。
あの人たちに何ひとつ、返せなかった。
就職して、仕事に追われて、盆も正月も帰らなくなって。祖母が生きているうちに、ろくに顔を見せにも行かなかった。
あんなに苦労して育ててくれたのに、孝行のひとつもしないまま。冴えないサラリーマンとしてただ日々をやり過ごして、最後は階段から落ちてぽっくり死んだ。
——今になって分かる。
こうして、ボルドとフィーナに抱かれて、あたたかい腕の中で、毎日名前を呼んでもらって。家族の温もりというものを生まれて初めてまともに感じている。
そうして初めて思い知る。前世で俺を育ててくれたあの人たちの愛情が、どれほど尊いものだったかを。
ありがとうも、ごめんなさいも、言えなかった。
その後悔が夜になるとどっと押し寄せてくる。そして、この赤ん坊の体は感情を隠すということを知らない。
胸がいっぱいになると、そのまま涙になってあふれ出してしまう。
「ふぎゃあ……ふぎゃあ……」
やめろ。泣くな。今、何時だと思っているんだ。父さんは明日も朝から畑だぞ。
母さんだって疲れているんだぞ。——頭でいくら念じても止まらない。理性と本能が完全に切り離されている。
中身おっさんの後悔は、ただ無力に自分の泣き声に変わっていく。
夜中に眠い目をこすりながらフィーナが抱き上げてくれる。
とんとん、と背中を叩いて子守唄を歌ってくれる。
けれど、今夜はなかなか泣き止めない。前世の家族の顔が次々と浮かんでは消えて、そのたびにまた涙があふれる。
「あらあら……今日は、ずいぶん泣くのね」
フィーナが困ったように、けれど優しくあやし続けてくれる。ボルドも起きてきて、二人がかりで代わる代わる抱いてくれる。
「どこか、具合でも悪いのか……?」
「熱は、ないみたいだけど……」
心配そうな二人の声。
違うんだ。違うんです。どこも悪くない。ただ——あなたたちが優しすぎるから。その優しさが前世のあの人たちと重なってしまうから。
すみません。本当に、すみません。
こんな夜更けに大の大人を二人がかりで。そして、前世でも今世でも俺はただ家族に与えられてばかりだ。
そうしてようやく泣き止んだ頃にはもう空が明るくなり始めてたりする。二人の顔にはくっきりと隈ができている。
……今度こそ。
今度の人生でこそこの人たちにちゃんと恩を返したい。
眠りに落ちる直前、俺はいつもそう思うのだった。
そして、
夜泣きとはまた別の問題が我が家にはあった。
父、ボルドである。
父は、俺のことが可愛くて可愛くて仕方がないらしい。畑仕事から帰ってくると真っ先に俺のところへ飛んでくる。そして、有無を言わさず抱き上げる。
……ちなみにこの父。生まれた当初は俺が母乳を独占しているのが面白くないのか、どこか複雑そうな顔をしていた。我が子に本気で張り合っているようなところがあったのだ。
けれど、さすがにそれは大人げないと思い直したのか、最近はすっかりただのデレデレな父親に落ち着いた、と思っていた…
思っていたのだが、最近は母乳の時間になるとまたあの顔が出てくるようになった。
俺が母に抱かれてチュッチュし始めると、父の顔つきがふっと変わる。
むっつりと黙り込んで、なんとも言えない目でこちらをじっと見る。
あの嫉妬はまだ、完全には消えていないらしい。
お父さん。落ち着いてくれ。これは生命維持だ。他意はない。
……まあ、それはさておき。
その気持ちはありがたい。ありがたいのだが、もうひとつ問題がある。
「ちょっと、あなた!」
母の鋭い声が飛ぶ。
「土だらけの格好で、リードを抱かないでって、何度言ったら分かるの!」
そう。父は畑帰りの泥だらけの服のまま、俺を抱き上げるのだ。
汗と、土と、家畜の匂い。それを生まれたての赤ん坊にこすりつけるようにして。
「いや、つい、顔を見たら、我慢できなくてな……」
「我慢して! 手を洗って、着替えてから! ほら、リードが土まみれじゃない!」
「すまん……」
いかつい顔の大男が妻に叱られてしゅんと肩を落とす。その大きな手で名残惜しそうにそっと俺を母に返す。
……お父さん。
気持ちは嬉しいですよ。本当に。
でも、母さんの言う通りだ
。あなた、もう少し、こう、段取りというものを。畑から帰ったら、まず手を洗う。それから抱く。順番が逆なんだ。毎回毎回同じことで怒られて。学習しないのか、この人は。
まあ——
それくらい、俺の顔を早く見たいということなんだろう。
そう思うと、土の匂いも悪くない気がしてくるから不思議だ。
とはいえ。
穏やかな日々と言うには、我が家は少々にぎやかすぎた。
夜泣きで母を困らせ、土まみれで父が怒られ。それでも、まあこれくらいは平和なものだ。家族みんな元気で笑っていて。第二の人生、滑り出しは悪くない。
そう、悪くないはずだった。
ひとつだけ、どうしても穏やかになれない時間がある。
……姉だ。
どうやら俺には、三つ上の姉がいるらしい。名前はノエラ。アーデン・ノエラ。
三歳の女の子。
活発で、好奇心旺盛で、家族みんなに愛されているそんな姉。
弟ができたのが、それはもう嬉しいらしい。毎日俺の顔を覗き込んではきゃっきゃと笑っている。
可愛い姉だ。本来なら微笑ましい話である。
本来なら。
問題は、その姉の「遊び」だった。
ある日のこと。
いつものように俺がうとうとしていると、ふわり、と。
顔に何かが触れた。
……ん?
なんだこれ。やわらかい。ふわふわしている。そしてものすごく。
……くすぐったい。
めちゃくちゃくすぐったい。
鼻先を、頬を、あごの下を、何かがふわふわと撫でていく。
そのたびに、ぞわぞわとしたたまらない感覚が走る。やめろ。やめてくれ。なんだこれは。
必死に目を凝らすと、視界の端に、それはあった。
羽だ。
鳥の羽か何かの羽根。うちは鶏を飼っているからその羽だろうか。それを小さな手がつまんでいる。そしてその持ち主が——
「ふふっ、ふふふっ」
姉、ノエラだった。
満面の笑みで俺の顔を羽でこちょこちょしているのだ。
やめろ。やめてくれ。頼むから。
しかし、訴える言葉が出ない。この口から出るのは「あー」とか「うー」とか、そういう音だけ。「やめてください」の一言がどうしても言えない。
中身は四十三歳。立派な大人。なのに、三歳児の遊びになすすべもなくやられている。
ならば、と。
俺は、最後の手段に出た。
手だ。手で払いのける。
……のだが、これがまた難しい。赤ん坊の腕というのは、自分の意思で動かすのが想像を絶するほど大変なのだ。
上げようと念じてから、実際に腕が上がるまでに、とんでもないタイムラグがある。ぷるぷると震えながら渾身の力でゆっくり、ゆっくりと腕を持ち上げる。
四十三年生きてきてこれほど全力で腕を上げたことがあっただろうか。
ようやく羽に手が届く。ふにっ、と弱々しく払いのける。
よし。どかした。
勝った。俺は勝ったのだ——
「あははっ! もういっかい!」
……は?
またか。また来るのか。
ノエラは俺が必死に手で払うその様子がたまらなく面白いらしい。けらけらと笑いながら何度も、何度も、羽を顔に近づけてくる。
くすぐったい。腕を上げる。払う。また来る。こしょばい。腕を上げる。払う。また来る。
無限ループだった。
しかも向こうは三歳児の体力。こちらは生後二週間のすぐ疲れる赤ん坊。
圧倒的に分が悪い。腕を一回上げるだけでもうへとへとなのだ。なのに姉は元気いっぱい。エンドレスである。
くそ。くそう。中身四十三歳の俺が。三歳の小娘に。こんなにも手玉に取られるとは。
最強の魔法とやらはいったいいつ目覚めるんだ。今すぐ目覚めてこの羽をどうにかしてくれ。
勇者よりも魔王よりも強いんだろう。なら、まず手始めにこの羽に勝たせてくれ。
だが——
不思議と嫌な気はしなかった。
いや、羽は嫌だ。羽は心の底から嫌だ。あのくすぐったさだけは何度やられても慣れない。
けれど、こうして毎日俺と遊ぼうとしてくれるその気持ちは。きゃっきゃと無邪気に笑うその声は。なんだか悪くなかった。前世ではこんなふうに自分に懐いてくる存在なんてひとりもいなかったから。
弟ができて嬉しくてしょうがないのだろう。だから構いたくてしょうがないのだろう。その不器用な愛情表現が、たまたま羽だっただけで。
……まあ。
羽は勘弁してほしいけど。
「こら、ノエラ。また弟をいじめてるの?」
母、フィーナのたしなめる声。
すると姉は、ぴゃっと羽を背中に隠して、しらばっくれる。
だが、その手にはしっかり羽が握られているし、口元はにやにやしている。
三歳児なりの必死の隠蔽工作。バレバレである。
「いじめてないもん。リードと、あそんでるだけだもん」
「もう。リードはまだ赤ちゃんなんだから、優しくしてあげなさい」
「やさしくしてるよ!」
してない。羽は優しくない。声を大にして言いたい。だが言えない。
母に抱き上げられながら俺はぼんやりと天井を見上げた。
名前をもらった。リードという名を。
農家の子に生まれた。土と、麦と、鶏のいる家に。
活発すぎる姉がいる。羽を持って。
第二の人生。家族には本当に恵まれたらしい。
……羽さえなければ完璧なんだけどな。
そう思いながら俺は今日も、姉の次なる一手に密かに身構えるのだった。




