2話
意識が、戻った。
ような気がする。けれど体が動かない。
まず、狭い。とにかく狭い。寝返りどころか、手足を伸ばすことすらできない。
膝を抱えるようにして、ぎゅうぎゅうに丸まっている。
次に、暗い。いや、暗いというより、目が開かない。開けようとしても、まぶたが言うことを聞かない。
重いとか、そういう次元じゃない。そもそも「開ける」という動作がこの体ではまだできないらしい。
そして、なんだろうこの感覚。
水の中にいるような。
ぷかぷかと、あたたかい液体に浮かんでいる。耳に届く音も、すべてくぐもっていて遠い。
羊水、という単語が頭をよぎって慌てて打ち消す。やめろ。考えるな。
中身四十三歳のおっさんが今どういう状況に置かれているのか、これ以上はっきり意識するな。心が持たない。
——その時だった。
ぐん、と。
足を引っ張られた。
いや、引っ張られたというより吸い込まれていく。足のほうからどこかへ。ものすごい力で。
怖い。
めちゃくちゃ怖い。
待て。なんだこれ。どこに連れていかれる。え、もしかして、また死ぬのか? 転生したそばから? おじ、いや神様、話が違うじゃないか。第二の人生はどうした——
ずるり、と足先が涼しい場所に出た。
冷たい空気が足にあたる。続いて、ふくらはぎ。膝。腰。あたたかい水の中から少しずつ外へ。
上半身まで涼しくなって、それから。
ずるん。
顔まで涼しくなった。
そうか。
これは、生まれたということか。
あたたかくて狭い場所から外の世界へ。
新しい人生がたった今、始まった瞬間だった。
……ずいぶん怖い始まり方だったけど。
目はまだ開かない。けれど、音は聞こえる。さっきまでのくぐもった感じが消えてやけに鮮明に。
誰かが喜んでいる声。
たくさんの嬉しそうな声。
そして、もうひとつ。
「オギャアアアア」
……ん?
オギャア?
なんだ今の。やけに近くで聞こえたな。すぐ耳元というか——
いや、待て。
これ、俺の声か?
まさか。そんな。中身四十三歳の俺が今、「オギャア」と泣いたのか。
泣くつもりなんて微塵もないのに、口が、喉が、勝手に。やめろ。聞くな。
誰か俺を黙らせてくれ。中年の自我を持ったまま「オギャアオギャア」と泣くこの羞恥、誰にも理解されまい。
しかし口は止まらない。体も動かない。手足はぷるぷる震えるばかりで、自分のものという感じが一切しない。
生まれた、とは思った。けれど、まさかここまでとは。
てっきり、気づいたらいい感じの少年とか、あわよくば青年スタートだと思っていたのに。
よりにもよってゼロからか。泣くことしかできない。指一本まともに動かせない。正真正銘の赤ん坊。
完全に一からのスタートだ。
聞こえてくる声の感じからして、まわりにいるのはどうやら両親らしい。
ちなみに、言葉はなぜか分かる。
生まれたばかりで知らない世界のはずなのに、二人の話す言葉がちゃんと意味として頭に入ってくる。
たぶん、これも神様の仕業だろう。「右も左も分からない世界に放り出されて、言葉も通じませんでした」ではさすがにかわいそうだと思ったのか。
それともただの気まぐれか。あのおじさんのことだ、後者な気もする。
なんにせよ、ありがたい。
これだけは素直に感謝しておこう。
「生まれた……生まれたぞ!」
「男の子よ、あなた、男の子!」
男も女も声を詰まらせて泣いている。俺のことでこんなに喜んでくれている。
なんというか。
申し訳ない。
あのー、すみません。そんなに喜んでもらっているところ、大変言いにくいんですが。
この赤ちゃん、中身冴えない四十三歳のおっさんなんです。彼女いない歴イコール年齢、童貞のまま階段で死んだしがないサラリーマンなんです。
それを知ったらお二人どんな顔をするだろう。
知らぬが仏、とは、まさにこのことだ。
頼むから、一生知らないでいてくれ。
そう心の中で祈り続けて数日が過ぎた。
赤ちゃんの生活というのは想像を絶する不自由さだった。
寝る。泣く。寝る。泣く。これの繰り返し。やりたいことなんて何ひとつできない。
目が見えるようになってきたのがせめてもの救いだ。ぼんやりとだが、自分を覗き込む両親の顔が分かるようになってきた。
母は、優しそうな人だった。少し垂れた目元が笑うとさらに下がる。
父は、対照的にいかつい顔立ちで、けれど俺を見るときだけその顔がだらしなく崩れる。
二人ともよく日に焼けていて腕がたくましい。
いい人たちだ。それだけは数日で分かった。
問題は食事である。
赤ちゃんの食事といえばひとつしかない。
…………母乳だ。
いざその時間になると、俺の理性は激しい葛藤に襲われる。
中身四十三歳の、しかも女っ気ゼロで死んだ男が、これを、その、いただくわけである。
前世だって、赤ん坊の頃には飲んでいたはずだ。だがそんな記憶あるわけがない。
記憶のない乳児期と、自我もばっちり記憶もばっちりな今とでは話がまるで違う。
罪悪感がすごい。
すごいのだが。
これがまた……うまい。
いや、本当に、なんというか、これは、しょうがない。本能だ。体が勝手に求める。
赤ちゃんの体というのは、栄養を欲してやまない。理性で抑えられるものではないのだ。
これは俺の意思ではない。生命の維持活動である。そう、生命維持。仕方のないこと。何も悪くない。
そう自分に言い聞かせた結果。
俺はめちゃくちゃ飲んだ。
一心不乱に、チュッチュ、チュッチュと。
前世で得られなかった何もかもを、今ここで取り返すかのように。
けれど、赤ん坊の胃袋には限界がある。やがて満腹になって、口が止まる。
……のだが。
ここで、問題が起きた。
飲み終わっても、俺がなかなか離れないのである。
いや、離れたくないわけじゃ……いや、正直に言えば、ある。あるのだが、それ以上に、満腹になってうとうとした体が勝手にしがみついて離れてくれないのだ。
本能というのはおそろしい。
「あらあら。この子ったら、飲み終わってもずっとくっついて」
母は嬉しそうに、けれどちょっと困ったように笑う。離そうとしても駄々をこねて泣く。仕方なく、また抱き直す。その繰り返し。おかげで母は家事もままならない様子だった。
だが、よく飲む=健康、甘えん坊=可愛いということらしく、母の顔は終始ほころんでいる。
喜びと、困惑と、それから隠しきれない愛おしさと。
可愛い、と思われているらしい。中身四十三歳が。複雑だ。
そして、もうひとり。
この状況を、複雑な顔で見ている男がいた。
父である。
父は、母に抱かれっぱなしの俺を、なんとも言えない表情でじっと見ている。
むっつりと黙り込んで、時々小さくため息をつく。
……まさか。
いや、まさかな。でも、その目。その明らかに面白くなさそうな目。
お父さん。あなたもしかして。
自分の妻を独占している息子に。
嫉妬してます……?
「……男の子か」
父が、ぽつりと言った。低い声で。
「男の子だもんなあ……」
してる。完全にしてる。生まれたばかりの我が子に本気で張り合っている。
母乳を巡って、息子と父が無言の火花を散らしている。
いや、お父さん。落ち着いてくれ。俺だって好きで独占しているわけじゃ……いや、好きで飲んではいるが、これは生命維持で……ああもう、説明できたらどんなにいいか。この口は「オギャア」しか言えないのだ。
こうして、俺の第二の人生は、母乳を巡る親子の静かな攻防とともに幕を開けたのだった。
——ところで。
ひとつ、気になることがある。
神様は、言っていた。最強の魔法をくれてやる、と。勇者よりも、魔王よりも強い、規格外の力を授けた、と。
なら、その力は今どこにあるんだろう。
体の中に何か特別なものを感じるかというと——正直、よく分からない。
今のところ、俺にできるのは泣くことと、飲むことと、寝ることだけだ。
最強の魔法とやらの片鱗すら、感じない。
まあ、いい。
きっと、まだ赤ん坊だから発現していないだけだろう。大きくなれば、いずれ目覚めるに違いない。
最強なのだから。神様が、そう言ったのだから。
その時を、楽しみにしておこう。
そう思いながら、俺は今日も、チュッチュと、母乳を飲んでいる。




