1話
階段を踏み外した。
それだけははっきり覚えている。
四十三年生きてきて最後の記憶が「階段を踏み外した」だ。情けない。
もう少し、こう、人生の総決算にふさわしい最期はなかったのか。
せめて誰かをかばってとか。事故から子どもを助けてとか。
ないのだ。一人暮らしのアパートの自分の部屋の階段でただ足を滑らせた。
打ちどころが悪かったんだろう。痛みを感じる間もなかった。
彼女いない歴四十三年…。
つまり生まれてからずっとだ。恋人もできず、結婚もせず、当然ながら童貞のまま俺は死んだ。
卒業できなかったなと思う。学校の話じゃない。
……まあ、いい。終わったことだ。もう何も考えなくていい。そう思った瞬間だった。
「ふふっ」
女の子の声がした。
かわいい。めちゃくちゃかわいい。鈴を転がすような耳が幸せになる声。
待て。声が聞こえる。
ということは、ここはどこだ。少なくとも病院ではない。
それだけは確実だ。だってあれは、どう考えても助からない転び方だった。
階段の角に頭から…いやな音がした。あれで生きてるほうがおかしい。意識が戻る前提の死に方じゃなかった。
なのに声が聞こえる。
まさか。
もしかしてここは天国なのか? 天国には女の子がいるのか?
四十三年、女っ気ゼロで生きてきて死んだ俺に最後の最後でご褒美が?
神様、あなたは見ていてくれたんですね。最後の最後で俺に救いを―
「やっと起きたかい、坊や」
目を開ける。目の前に、おじさんがいた。
白い髭。でっぷりした腹。やたら立派なローブ。どこからどう見てもおじさんだ。
「坊や?」
待て。今この人、俺を坊やって呼んだか。
俺は四十三だぞ。立派な、というか立派ではないがれっきとした中年だぞ。
坊やって呼ばれる歳じゃない。最後にそう呼ばれたの、たぶん幼稚園とかだぞ。
いや、それより。さっきの声は。あのかわいい声の主は。
「どうしたんだい、そんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」
その、かわいい声で、おじさんがしゃべった。
は?
もう一度言う。は?
あのかわいい声、こいつかよ。鈴を転がすような美声が、髭面の腹の出たおじさんの口から流れ出ている。
脳がバグる。映像と音声が致命的にズレている。吹き替えの事故だ。
「やめてくれ」
「うん?」
「その声をやめてくれ。あんたの見た目とその声、合ってなさすぎて頭がおかしくなる。耳と目がケンカしてる」
「失礼な坊やだねえ。これでも生前は美少女として通っていたんだよ」
「いつの話だよ。何万年前だよ」
「ひどいなぁ。こう見えても毎朝ちゃんと髭は剃ってるんだからね?」
「ケアの問題じゃねえよ! 素材が変わり果ててんだよ!」
「ふふっ、まあそんなところだ」
流すなよ。あとかわいい声で笑うな。
「ところでお前、私が誰だか分かるかい」
「いや全然。強いて言うなら、声と見た目がちぐはぐな不審者」
「神だよ」
「は?」
「神様。ゴッド。この世界やら向こうの世界やら、まとめて面倒みてる、えらいやつ」
神。
神様。
目の前の、髭面の、腹の出た、かわいい声のおじさんが。
「うそだろ」
「ほんとさ」
「神様ってもっとこう……荘厳なオーラとか、後光とか、そういうのないの」
「あー、後光ね。出すのめんどくさくてさ。最近サボってるんだよ」
「神がサボるな」
ダメだ。目の前のおじさんが本当に神だったとしても、なぜか何ひとつありがたみがない。
手を合わせる気が一ミリも起きない。これに賽銭を投げていた人類は何だったんだ。
「まあ信じる信じないはお前の自由だがね。事実として、お前はもう死んでいる」
なんとなく知ってるわ。
知ってるんだよ。階段で派手に転んで死んだ瞬間のことは、俺が一番よく分かってるんだよ。
なんだその、いかにも今いいこと言いましたみたいな顔は。名言みたいに言うな。死亡通知をドヤ顔で出すな。
「そう深刻にならないでおくれ。よくあることさ」
「よくあってたまるか」
「いやあ、よくあるんだなあ、これが」
軽い。神が軽い。命の重みが伝票一枚くらいになってる。
「しかし参ったねえ。お前みたいなのが来ると、こっちも困るんだよ」
「困るって言うな。人を厄介事みたいに」
「いやだってお前、見事なまでに何も成してこなかっただろう。良い行いもない。だが悪い行いもない。これっぽっちもだ」
「悪く言ってんのか褒めてんのかどっちだよ」
「困ってるんだよ。善行が多けりゃ天国、悪行が多けりゃ地獄、こっちはそうやって振り分けてるわけ。なのにお前ときたら、どっちもまるっきりのゼロ。プラスマイナスどころか、最初から何も乗ってない。秤に乗せても、ぴくりとも動かん」
「…………」
「なあ坊や。一個くらい、なかったのかい。悪さのひとつでもさ」
「ないよ」
「ないの? 信号無視とか、コンビニで多くもらった釣り銭ネコババしたとか」
「しないよそんなこと」
「つまんないねえ」
「神が言うな」
神様は、心底つまらなそうに、ため息をついた。かわいい声で。
「いいかい坊や。悪人は嫌いだが、何もない人間はもっと困る。裁きようがないんだから。お前、生きてる間に一回くらい、地獄に落ちる覚悟で何かやっときゃ、私ももっと楽しめたのに」
「死んでから説教されるとは思わなかったよ。しかも品行方正だったことを怒られてる」
「まあそういうわけでね。お前みたいなのは、こっちで決められない。だから——」
神様は、もったいぶるように、指を二本立てた。
「この場合はその人自身に選ばせることにしてる」
「選ぶ? 何を」
「一つ。このまま星になって消える。安らかにね。二つ。新しい人生を、別の世界で歩む」
「……別の世界」
「そう」
「待ってくれ。別の世界って、なんだ。日本とは違う場所ってことか」
「もっと違うよ。剣とか、魔法とか、ドラゴンとか。そういうのがある世界さ」
剣。魔法。ドラゴン。
その単語の並びに俺の脳がかちりと反応した。知っている。この感じ知っているぞ。
「……それってつまり、アレか。死んだ人間が、別の世界で第二の人生を送る、いわゆる——」
「いわゆる?」
「転生、ってやつか?」
「おっ、話が早いねえ」
神様が、かわいい声で手を叩いた。
マジか。マジでアレなのか。アニメで、漫画で、ネット小説で、それこそ掃いて捨てるほど見てきた、あの転生。
まさか自分の身に起きるとは。創作の中だけの話だと思っていた。
いや、待て。落ち着け。話がうますぎる。冴えないまま死んだ中年に、第二の人生だと?
こういうのは大抵、裏がある。とんでもない条件とか、罠とか。
「……なんか裏があるんじゃないだろうな」
「裏? ないない。強いて言えば、お前が消えると処理が一件片付いて私が楽になる、くらいさ」
「神の都合かよ」
まあ、それくらいなら。むしろ清々しいくらい正直だ。
「歩みます。新しい人生」
「ずいぶん即決だねえ」
「やり残したことがあるんで」
「ほう。さしずめ、女のひとつも知らずに死んだのが心残り、とか?」
なぜ分かった。
いや、なぜそこをピンポイントで突いてくる。神だからか。神だから、俺の四十三年分の空白を全部お見通しなのか。
やめてくれ。プライバシーがない。死後の世界にプライバシーの概念はないのか。
「図星かい」
「……黙秘します」
「ふふっ、いいねえ。そういう坊やは嫌いじゃないよ」
かわいい声で、おじさんがニヤニヤしている。完全に俺で遊んでいる。神のおもちゃだ、俺は。
「そんな健気なお前に、餞別をやろう」
「餞別?」
「最強の魔法だ。勇者よりも、魔王よりも強い。歴代どの存在も持ち得なかった、規格外の力さ」
……は?
なぜ。なぜこんな冴えない、女も知らずに階段で死んだおじさん(四十三歳)に、そんな力を。
「なんで俺にそんなもん」
「いやあ」
神様は、こらえきれないという風に、肩を揺すって笑った。かわいい声で。
「あんまりにも、お前の人生が、ぷっ……あんまりにも哀れでねえ。あはは。せめてもの、ね? せめてものお詫びというか、はなむけというか。あはははっ」
「笑ってるじゃねえか」
「ごめんごめん。だってお前、ほんとに、何ひとつ、なかったんだもの。きれいなくらい空っぽでねえ。逆に感心したよ」
「同情なら同情で、もうちょっと同情らしくやってくれ。笑いながら渡される最強、複雑すぎるだろ」
「まあまあ。最強は最強だ。ありがたく受け取りな」
……まあいい。
理由はどうあれ、最強だ。最強の魔法。
笑われようがバカにされようが、力さえ手に入れば勝ちだ。
前世であれだけ報われなかった俺が、ついに報われる番。
今度の人生は違う。モテる。無双する。そして童貞を卒業する。完璧だ。
神に笑われた屈辱も、無双すれば忘れる。
「では、いってらっしゃい。達者でな、坊や」
「はやいな。もうちょっと休憩とかないのかよ」
「ないない。私の時間が削られるから絶対いや…だか…お…」
おじさん。いや、神の声がだんだん遠くなっていく。
そして視界が白く溶けていく。
意識が遠のく中、俺は勝利を確信していた。最強の力を引っさげて第二の人生で全てをやり直すのだと。
——だが。
俺は知らなかった。
このとき神様が、最強の魔法を授ける、その手続きのほんの一文字を書き間違えていたことを。
「あー……数字ひとつズレてるけど。まあ、いっか。バレやしないだろ。あはは」
かわいい声で、神様がそうつぶやいたことを。
俺は何も知らないまま、第二の人生の幕開けが近づいていた。




