10 65歳 絶対君主J.P.モルガンとの対決
モルガンからの宣戦布告に激怒したアンドリューは、即座に二大戦略を打ち出し、真っ向から報復に出た。
「私の鋼材を買わないというのなら、私が君たちの製品をより安く作り、市場そのものを奪い取ってやろう」
彼はモルガン傘下の企業が得意とするチューブやワイヤーの分野への進出を宣言し、直接対決を挑んだのである。さらに、モルガンと親密なペンシルベニア鉄道に対抗すべく、自前の鉄道網をさらに拡大し、彼らの運賃収入を根こそぎ奪うと脅しをかけた。
アンドリューが「加工分野への全面戦争」を宣言すると、ウォール街はパニックに陥った。世界一のコスト競争力を持つ怪物が製品市場に殴り込めば、モルガンが巨費を投じて築いた「秩序」は一瞬で瓦解し、投資家たちは壊滅的な打撃を被るからである。
モルガンは悟った。
「アンドリューという怪物を野放しにしては、アメリカの経済は彼一人にかき乱される。秩序を取り戻すには、彼を引退させ、会社を丸ごと買い取るしかない」
一方のアンドリューもまた、自分が業界全体から疎まれ、恐れられていることを百も承知であった。
この時、彼は六十五歳。右腕であったフリックを失い、最前線で戦い続けることに、かつてない疲労を感じ始めていた。
そんなアンドリューの脳裏に、血気盛んな三十三歳の頃に書いた自分宛てのメモが鮮明に蘇る。
『三十五歳で引退し、以後は読書と慈善に生きる』
予定からは三十年も遅れてしまったが、ついに「引き際」が来たのだと直感した。
だが、「疲れたから買ってくれ」などと泣き言を言えば、モルガンのような男は必ず足元を見、安く買い叩いてくるだろう。何より、それはアンドリューの誇りが許さなかった。
そこで、彼は腹心のチャールズ・シュワブに密かな策を授ける。
◇
一九〇〇年十二月、ニューヨークで開かれたある晩餐会。
アンドリューの意を受けたチャールズ・シュワブが、モルガンの隣の席に座った。シュワブは、アンドリューから託された「鋼鉄業界統合のビジョン」を、まるで自らの情熱であるかのように熱っぽく語り始めた。
「個々の会社が争う不毛な時代は終わりました。原料から製品までを一貫して統制する巨大な組織があれば、コストは劇的に下がり、アメリカは世界を支配できるはずです」
「もし、アンドリュー鋼鉄を核とした大統合が実現すれば、それは人類史上、空前絶後の企業になるでしょう」
モルガンはこの話に完全に魅了された。「秩序」と「効率」を何よりも愛するこの銀行家にとって、シュワブが語るビジョンこそが、自身が追い求めてきた「モルガニゼーション」の究極の完成形だと確信したのである。
晩餐会の数日後、モルガンはシュワブを自らの事務所に呼び出し、単刀直入に切り出した。
「アンドリューに、売る気があるか聞いてきてくれ」
ただし、この冷徹な銀行家には、一つだけ絶対に譲れない条件があった。
「買収後、アンドリューが経営に一切口出しせず、完全に引退すること」
モルガンは、あの気まぐれな独裁者と同じ船に乗ること――すなわち共同経営することだけは、何としても避けたかったのである。
シュワブからその意向を伝えられた時、アンドリューはスコットランド風のゴルフを楽しんでいた。彼はプレーの手を止めると、ポケットから取り出した小さなメモ用紙に、鉛筆でさらさらと一つの数字を書き込んだ。
「$480,000,000」
四億八千万ドル。それは当時のアメリカ国家予算に匹敵し、現在の価値に換算すれば数十兆円規模に相当する、空前絶後の天文学的な数字であった。
シュワブから届けられたそのメモを一瞥すると、モルガンは一切の交渉をせず、ただ一言だけ答えた。
「その価格で、買おう」
一九〇一年三月、モルガンは約束通りに巨額の資金を投じ、買収を完了させた。アンドリュー鋼鉄会社は他の競合企業と合併し、世界初の十億ドル企業「USスチール」へと姿を変えたのである。
手続きがすべて完了した後、アンドリューとモルガンは短く、しかし歴史的な握手を交わした。モルガンは静かに、こう告げた。
「アンドリューさん、おめでとう。これであなたは、世界一の富豪になった」
こうして、最強の駒であったフリックを排除し、ロックフェラーとの契約で原料供給を固め、モルガンに市場を叩きつけるという「完璧な詰将棋」を終えたアンドリューは、六十五歳にしてついに、鋼鉄の鎧を脱ぎ捨てて「自由な私人」となった。
◇
一九〇二年、ニューヨーク五番街九十一丁目に、壮麗なカーネギー邸が完成した。
すでに鋼鉄王の座を退き、人類史上最大の富を手にしたアンドリューだったが、その巨大な屋敷の中で最もこだわった場所の一つは、意外にも屋上のテラスに作られた「巨大な砂場」であった。
当時五歳になったばかりの愛娘マーガレットのために、彼は最高級の砂を屋上まで運び込ませたのである。
「パパ、見て!」
泥だらけになって笑う娘の横で、かつてロックフェラーを震え上がらせ、モルガンと対等に渡り合った老人は、膝をついて一緒に砂の城を築いた。
そこには、労働者との対立に苦しみ、冷徹な計算でライバルをなぎ倒してきた過去の面影は微塵もなかった。
一九世紀を鋼鉄で作り変えた男は、人生の黄昏時、五番街の風に吹かれながら、娘が掴む一握りの砂の中に、何物にも代えがたい「平和」を見出していたのである。
この五番街の屋敷で、アンドリューはルイーズに改めて宣言した。
「これから、私たちは世界で最も忙しい『配り屋』になるんだ」
ルイーズは、夫が深夜まで寄付先の選定に没頭し、まるで新しいビジネスを立ち上げたかのように目を輝かせているのを見て、ようやく彼が「鋼鉄の重圧」から解放されたことを確信したのであった。




