第31話
あれ以来お母さんは戻ってこない。
昨日の夜、お父さんがおばあちゃんに、正式に離婚したと報告していた。こそこそ話をしているつもりかも知れないけど、二人とも普段から声が大きいので、障子の向こう側の話しているのをつい聞いてしまった。
私だって本当はもう無理なんだろうなということはわかっている。それでもまだ希望は失わなかった。近所の人はもうみんな知っているのかもしれないけど、学校では誰にも気づかれないように、まるで今でもお母さんがフツウに家にいるように振る舞っていた。
学校の帰りには必ず前の家に寄って、お母さんが戻って来ていないかを確認した。
今ではそれは日課。部屋に形跡がないか、郵便受けにメッセージが残されていないか。
私たちが住んでいた家は、入るとけむったいような変な匂いがするようになった。畳や残されたいくつかの家具はべたついて、澱んだ空気が動けずに漂っている。もうここには誰も住んでいないということを証明されているみたいだった。
ただ、あの金ぴかでロココ調の食器棚だけは、いつ見てもあのときのまま何も変わらない。やはりこの家には馴染まないな、と改めて思った。
嫌なことがたくさん詰まった場所だったけど、楽しいことも少しはあった。
眞心がまだ赤ちゃんのとき、眠りながら笑っているのを見て幸せで幸せで羽が生えてふわふわとどこまでも飛んでいけそうな気がした。
その様子を一緒に見ていた、ちい兄ちゃんとさくらちゃんが面白がって、もっと笑わせようと無理矢理こちょこちょをするのを見て腹が立った。何がそんなに面白いのか。幸せそうに眠っている眞心の邪魔をするやつは私が絶対に許さない。
家の中はいつもミルクの匂いがしていて、私はその匂いが大好きだった。何があっても平気なような、無敵な匂い。
お父さんと喧嘩をして、家を出て行くときいつもは眞心を連れていくお母さんが、なぜ今回は連れていかなかったのかはわからないけれど、私は命拾いをした。
心配ばかりさせる妹だけど、私には眞心が必要だ。眞心がいなければ今頃どうなっていたかわからない。
それは妹だから。
私が育てないといけないという使命があって、人間には生きていくためのそういう生き甲斐のようなものが必要なのだ。それに関してはお母さんにお礼を言うべきかも知れない。
だけどそうすると、お母さんには生き甲斐はあるのかな。私たちがお母さんを失ったように、お母さんも私たちを失ったのだから。まだ小さな眞心を失ったのだから。
あのとき。
切符が飛んで行ってしまったあの日、まだお母さんのお腹の中にいた眞心。もしあの日、眞心が生まれていて一緒にいてくれていたらと、時々思う。
眞心はミルクとお日さまの匂いをさせて、みんなを幸せにしてくれるから。




