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宝飾に刻まれた家紋は、印章と同じ効力がある。貴族の子供は当たり前の様にその事を学ばされ、取り扱いは慎重を期す。
だが過去に書物と口頭で学び、売買の経験は付き人任せ、家紋分与の機会を一度も目にした事がない。今まで、極端に城で護られてきたリリーは、貴族に生まれた者達が当たり前の様に分かるそれを、すっかり忘れていた。
「私、借金をしたのかしら? でもきっと、子猫なら、うちが支払えないわけないわよね?」
金を借りたのならば支払えばいい。だが家紋の分与は、その者を信頼し、深く繋がった誓約を意味する。
(これは大きな問題になる)
冷や汗に言葉を失ったセオルを見て、リリーはきょろりと周囲に目を逸らす。そして他の生徒に気を回したが、教師は生返事にそれを答えた。
事の重大さを知ってか知らずか、周囲を確認しながら移動するリリー。ほどなく黒色の制服の生徒、十枝の一人が駆け寄って、同じ驚愕に頭を抱え込んでいる。
それを見て頭が冷えてきたセオルは、リリーの言葉にふと周囲を見回した。
(そういえば、本当に今日は生徒が少ないな…)
言われてみれば音が無い。漂う不穏、奇妙なほどに、全体が静まり返っていた。
*
特別授業では王宮から学院に派兵される王族専任の護衛騎士まで、全ての人員が調整される。
護衛騎士たちの移動。手薄になった王族の警備。その最中に行われたのは、腐敗に関与する王族の捕縛と粛清だった。
第四王子主導の元に、この日、全ては速やかに行われた。
奴隷商人から得る多額の上納金を受け取る王族。その中で、それを利用し他国と禁制品を密輸していた王族貴族が摘発された。
中には、王太子、第三王子、第五王子、第六王子の家門も含まれていて、彼らはこれにより継承権を剥奪された。
また同時にナイトグランドでも、禁制品に関与した長男のグラエンスラーの派閥が摘発されたが、これに抵抗し一部は逃亡を図った。
その後の行方は知れず、王都は混乱を極めた。
**
王都内で第四王子が起こした腐敗粛清の情報が錯綜する。左右の者達も知らず、水面下で突然行われた粛清に、貴族たちは大混乱した。その最中。
「家紋の分与……」
問題を起こすなと念を押したはずなのに、想定外の大問題が突き付けられた。ダナー・ステイ一族のリリーを過保護に育て過ぎた者たちは、常識の欠如という盲点に、やり場のない憤りを飲み下す。
信頼を寄せ、その者との深い繋がりを誓約する家紋の分与。
命を捧げる騎士や一族に分け与えられる家紋の分与は、裏では商人との闇取引先にも用いられる。
口を割らない約束の対価に求められる家紋。これを手にしたグランディアは、今回の粛清の証拠として兄弟と、それを支える王族を軒並み失脚させた。
危険を孕むその家紋の分与を、渦中の人物に気軽に手渡した妹。
「ねぇ、にゃんっ、言ってみて、ねぇ、」
深刻な状況だが、当の本人は幼獣でこの場を誤魔化そうと必死になっている。
「…………」
いつもは真っ先にリリーの失敗を叱り、そして庇うメルヴィウスまでが何も言えずに無言のまま。
「お腹すいてる? ね、すいてるにゃーん、て、メルお兄様に言ってみてにゃ」
「…………」
その差を見て馬鹿馬鹿しくなり平静さを取り戻したグレインフェルドは、従者の耳打ちに眉間に皺をよせた。
「来たか」
踵を返しその場を後にする。だか背後から、すがる様にリリーが呼び掛けた。
「グレイお兄様! このこなんだけどっ、」
高額な幻獣、その管理の許可を求める妹。
「好きにしなさい」
「良かったわね、ね、メルお兄様?」
「……」
放心したままのメルヴィウスと十枝の者たち。それを放置し、急な報せにグレインフェルドはある客室に向かった。
**
開かれた特別客室は、訳ありの者しか通さない。椅子から立ち上がった長身の男は、長い黒髪を背で括り、それを肩から胸元に流していた。
「初めまして。グラエンスラー・オルガン・ナイトグランドと申します」
褐色の肌の顔の半分は傷当て布に覆われている。大きな摘発と内部抗争により傷を負った。
「禁制品密輸の罪で、首謀者とされる者だな。指名手配書は届いている。当方に、何の用だ」
「恥ずかしながら、この様な訪問で申し訳ありません。実は私が信頼を寄せる顧客様に、僅かながらでもご助力頂けないかと、お訪ねした次第です」
「当方とナイトグランドとは、個人的な取り引きは一切帳簿に記載が無い」
「こちらを」
半分に割られた蒼の玉。その内側にはダナーの紋章が刻まれている。
「リリエル大公令嬢様には、本日より、大変懇意にさせて頂いています」
もう半分は、然るべき場所に送ってある。自分に何かあれば、即リリーも巻き込むとの当たり前の脅しにも顔色を変えないグレインフェルドは、突然の抗争に傷だらけのグラエンスラーを一瞥した。
「弟にやられたのだな?」
「はい。我が弟は、人一倍独占欲が強く、兄の私も手を焼いております。今回も、取り引き配分に不満があったのか、この有り様です」
「……」
「弟はリリエル様にも、何か格別な想いを寄せているらしく、そのご忠告も兼ねて伺いました」
「……」
深く腰かけて足を組む。顎を軽く指で支えるグレインフェルドは、まだ何の反応も示さない。
「…この粛清で、弟は私を取り逃がし、第四王子の暗殺にも失敗したようです」
「!」
「弟はリリエル様の毒にしかなり得ません。…私はこの奇跡の出会いを、エルロギア神の導きと感謝致します。リリエル様の邪魔とならぬよう、あれを抑える為に尽力致します」
グラエンスラーは、変わらない慇懃な態度に笑顔を浮かべる。だが抑えきれない出血に、顔色は冷や汗に青ざめていく。その様子をしばらく見つめたグレインフェルドは、従者に言付け書類を用意させた。
「行き先は?」
「海路で南に。そこには私個人のギルドがありますので」
✳✳
「行かせたのか? 何でだ!」
リリーと不透明な誓約を行い、指名手配までされている。グラエンスラーを生かして帰す気のなかったメルヴィウスだが、グレインフェルドはその怒りを受け流した。
「見方を変えれば、我らはナイトグランドを掌握したと言ってもいい」
大ギルドの長男と誓約し、次男はリリーに執着している。それをグレインフェルドは、リリーの失敗ではなく手柄に収めると言う。
「…なんだかんだで、一番リリーに甘いのは、兄上なんだよな。怖いぜ」
言いながらも、どこか納得したような表情のメルヴィウス。それを見たグレインフェルドは、リリーの所在を聞いた。
「さっき許可してただろ。幻獣。あれ、森に帰すって裏に行った」
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幻獣は何を主食としているか分からない。ダナーでは狩りを禁じてはいるが、王都や他国で今も売買される。
凶暴な成獣は飼うことが出来ず毛皮として売られるが、希にみる小さな幼獣は観賞用として飼われ、何も食さず数日で動かなくなる事で知られていた。
数日で動かなくなる。それを購入することで茶会や会合で飾りとして見せびらかし、財力の強さを自慢する。その為だけの幼獣。
珍しい光を放ち、柔らかい毛並みに鼓動が脈打つ。幼い身体を温める様に優しく抱え、リリーは裏庭の奥へと進む。
生かすためには森に放す事が最善ではあるが、その後はどうなるか分からない。
金額の問題ではないが、帰す事が無駄になるのではと、リリーを見守る者達の中にはそう思う者もいた。
裏庭から更に奥へ、森の闇は深くなる。
「姫様」
月明かりが射し込む黒の森。青と黒の闇の中、よく見ると大きな影がある。
「幻獣、フィレスタです」
尖った耳にしなやかな肢体。旧教の神エルロギアに遣える第一の神獣と謳われた幻獣。
十枝の貴族たちも目視出来た事が無い。稀少な幻獣の美しさに魅入っていると、「さあ、行って」というリリーの言葉に我に返った。
「!!」
草むらに幼獣をそっと置いたリリーは、全身がビクリと固まった。
「どうしましたか? 姫様?」
ナーラが覗き込むと、「グーー」と鳴いた幼獣はフィレスタの元へ走り去る。
身を寄せてペロペロと互いを確認する姿に安堵するが、何故か「食べないでよ、」と一人で焦るリリーにメイヴァーは笑いかけた。
「大丈夫ですよ姫様。彼らは共食いをしません」
「…………良かったのよね?」
「はい」
去った幻獣を無事に見送る事が出来たが、その後にリリーの手に小さな歯形を見て、その場は騒然となった。
**
大規模な王族貴族の粛清により、数日間学院は休学となった。更に数日後、第四王子グランディアが王太子と決定した事が国内外に宣布された。
慌ただしく式典が執り行われ、季節は変わる。肌寒くなってきた頃に、ようやく学院は通常の姿を取り戻した。
**
「ナイトグランドのアーナスターは、なかなかしぶといね」
全ての罪を長男のグラエンスラーに被せる約束をしていたが、グランディアはそれをしなかった。次男のアーナスターの関与も匂わせて共に排除しようとしたが、証拠不十分として上手く躱される。
「暗殺者の口も封じられました」
ナイトグランドギルドへの査察中、グランディアを刺客が襲った。用意周到に現れた暗殺者に、それはグラエンスラーの仕業ではないと直感したが、護衛騎士のサイに阻まれ逃走した後、死体となって見つかった。
グランディアを利用して兄を追い落とし、そしてグランディアさえも葬ろうとした。
狡猾なアーナスターに対しグランディアは、彼が一番衝撃となるだろう行事を計画している。そしてこれは、初めてダナー大公家へ王太子としての力を使用する事にもなった。
求婚ではなく、後に王となる者の命令。
「次の学院での王太子就任の披露宴で、正式にダナー大公令嬢との婚約を発表するよ」
**
学院が再開して、久しぶりにリリーの顔を見に行こうと階段を降りる。
下の階層の踊り場が見えると、丁度そこにはリリーと女学生がいた。
(あれは、)
幼い頃からグランディアに好意を寄せる第三王女のエルストラ。兄の第三王子は王位継承権を剥奪され退学しだが、エルストラの母方の家門フィンセンテは爵位を下げられたものの、妹はそのまま学位を取得するために残っている。
リリーと向き合うエルストラの穏やかでは無い様子。女二人の深刻そうな会話に少し気が引け一度足を止めたグランディアだったが、自分の名が聞こえたので割り込もうと足を進めた。
それに、階段を背にするリリーに、詰め寄るエルストラが気になった。
「グランディア様がこの学院に通われるから、ここまで頑張ってこれた。…でも、私は、」
階下からも数人の姿が見える。騒ぎ立てる声に何事かと庶民の制服や神官たちもそれを見上げ、人々が集まってきた。
**
礼拝の講堂に向かう途中、リリーに声をかけてきたのは第三王女のエルストラ。
第三王女ではあるのだが、禁制の薬物の輸入に関わった第三王子の妹として、今は取り巻きも居らず、他の生徒に距離を置かれて一人で立っていた。
摘発された他の王族親族が学院を退学する中、エルストラだけは非難をされても、熱心に通い続けている。それをリリーは、なかなか出来る事ではないと感心に見ていた。
そのエルストラが、深刻な話があると話し掛けて来た。彼女が周囲の黒制服を気にするので、リリーは彼らに少し離れるように伝える。
「ですが姫様、」
「大丈夫よ。すぐそこだから。ではエルストラ様、お話とはなんでしょうか?」
「今度開かれるグランディア様の就任披露宴、そこで婚約発表が行われるそうなのです」
「まあ、そうなのですね」
知らなかった。そうリリーは驚いた顔をした。だがそれに、エルストラは白々しいと怒りをくすぶらせる。
「リリエル大公令嬢は、その事をどう思ってますの?」
「どうと言われても、良いことなのではないかしら?」
「グランディア様がこの学院に通われるから、ここまで頑張ってこれた。…でも、私は、披露宴で婚約発表なんて、耐えられない、」
『エルストラちゃん、大丈夫ですか?』
涙ぐみ思い詰めるエルストラに、階下から場違いな庶民の声かけ。だが近寄る深緑色の制服に、いつも気高く佇むリリーが動揺した様に見えた。
階段を上ってきたのは、この状況でもエルストラの傍に侍る庶民の取り巻きだった。
『エルストラちゃんを虐めないで! リリーに何を言われたのですか?』
『何の事かしら? 私は何も言ってないでしょう? 私はエルストラ様のお話を、聞いてただけよ、』
ーー「??」
二人の会話に、その場の者たちは何語かと身を固める。何かを言い争うのは分かったが、言葉の意味が全く分からない。
「エルストラ、何をしているんだ」
「!!」
上階からのグランディアの声かけ。余所見をするリリー。そのリリーに立ち向かう取り巻き。
計算した事ではない。だが怒りの対象のすぐ後ろには、階下へ続く長い階段が見える。
エルストラは、目の前の黒色の制服に手を伸ばし、両手で強く押し出した。




