エピック173【不変と変化など】
ジョンアイデルは遠く城壁の向こうの街並みを眺めながら、低く落ち着いた声で語り始めた。
「この国も、俺が皇帝として歩んできた道も、時代と共に様々な変化を重ねてきた。制度は整い、暮らしは豊かになり、人々の考え方も新しく生まれ変わってきた。だがな、どんなに形が変わっても、根本から消えることのないものがある」彼は視線を傍らのクレティアたちに戻し、はっきりと続ける。
「それは『悪意』だ。大きな陰謀から、小さな妬みや欲に駆られた行いまで、程度に差はあっても、心の闇から生まれる悪意はいつの世にも絶えることがない。不老不死という新たな秩序のもとでも、これだけは変わらない現実だ」重みのある言葉の後、彼は少し口調を和らげ、確かな手応えを込めて付け加えた。
「だが、変わらないのは悪意だけではない。それに対抗する『法の守り手』たちが、今も確かに機能し続けていることもまた、この国の揺るぎない真実だ。悪意があるからこそ法は生き、守り手がいるからこそ、人々は安心して変化を受け入れ、前に進んでいける」クレティアが静かに頷き、その言葉を受け継ぐように応える。
「変わり続ける時代の波の中で、悪意と法の均衡が保たれている限り、この国の根幹は崩れません。変化を恐れず、変わらない本質を見据える——それが我々の役割というわけですね」ジョンアイデルは深く頷き、再び街の彼方へと視線を向けた。
「ああ。変わるべきものは柔軟に変え、守るべきものは決して緩めない。悪意の存在を否定せず、だからこそ法と秩序を信じる。それがこの国の歩み方だ」クリプトン世界を覆う界域の最上部、清らかな光と静けさに満ちた神界。雲のような床に浮かぶ玉座の間で、神々たちが集まり、下界の動向を見守っていた。最初に重く落ち着いた声を響かせたのは、英知と洞察を司るグノーシス神だ。遠く下界を見渡すように視線を向け、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ジョンアイデルのやつ……短期間であそこまで国の基礎を築き上げ、次々と新しい仕組みを導入し、着実に発展へと導いているとはな。ヒトの枠を超えて神の手腕と意志、まさに目を見張るほどの速さだ」だがその声には賞賛だけでなく、わずかな警戒の色も混じっていた。彼は周囲の神々を見回し、続けて核心を口にする。
「だがな、これをよく思わない輩がこの界域の内外に少なからず存在する。永遠の命を民に与え、法と秩序を根本から塗り替え、他大陸へも手を伸ばそうとしている――これまでの常識や力関係を大きく揺るがす動きだからこそ、不満や不安、さらには敵意を抱く者が出てくるのも自然なことだ」隣に佇む別の神が眉をひそめ、問いかけるように応じる。
「つまり、彼の歩みが順調であるほど、新たな摩擦と試練が生まれるということか?」グノーシス神は静かに頷き、深い眼差しを下界へと戻した。
「ああ。変化は常に賛同と反発の両方を引き寄せる。ジョンアイデルがこの先、自らの道を守り続けられるかどうか――これからが真の試練の始まりと言えるだろう」神界の空気に、これから起こり得る波乱を予感させる静かな緊張が漂い始めていた。神界の光に包まれた玉座の間で、グノーシス神は迷いのない口調で言い切った。
「まあ、その敵対するやつらは、同じくこの神界に座すロゴス神が力と理で抑え込めば済む話だ。古い権益を失う者や、秩序の変化を恐れる連中の反抗など、所詮は既存の枠の中に収まる反発に過ぎん」だが言葉の調子を変え、瞳に鋭い光を宿して核心に迫る。
「だが、真の問題はそこではない。新たな形を取って現れる悪意だよ」彼は指先で宙に薄い紋様を描くように動かし、続けた。
「ジョンアイデルが不老を定め、法の網を張り巡らせた今、かつてのような野蛮な悪事はやりにくくなった。だからこそ悪意は姿を変える――制度の隙間を突き、永遠の時間を利用し、『正義』や『理想』の仮面を被りながら、より巧妙で根深いものへと変質する」隣の神が問いを挟む。
「変わらないと言っていた悪意が、さらに新しく生まれるというのか?」
「そうだ」グノーシス神は頷き、重みを込めて締めくくる。「環境と秩序が変われば、悪意も適応する。抑える対象が固定されているうちは楽だが、形を変え、潜む場所を変え、次々と現れる悪意――これが、これからの時代が直面する真の試練になるだろう」かつて犯罪と混沌の巣窟と呼ばれたクリミナル・デビルの本拠地――今は廃墟同然に崩れ、闇が沈む空間だ。壁には亀裂が走り、かつての装置は錆びつき、わずかな漏れ光が埃だらけの床を照らす。そんな中、複数の人影が慎重に足を踏み入れ、辺りを警戒しながら進んでいた。一人が低い声で問いかける。
「……本当にココに、平行世界へ通じる鍵があるのか? こんな朽ち果てた場所に、そんな代物が残っているとは思えないが」先頭に立つ男は懐から古い地図片を取り出し、壁の痕跡と照らし合わせながら答える。
「情報が正しければな。クリミナル・デビルが最期の頃、ここを『次元の境界点』として秘密の保管庫に改造したという話だ。外部からは見つからないよう、力ごと封じてあるらしい」別の一人が辺りの空気の重さに眉をひそめる。
「だがこの場所、ただの廃墟には見えない……何か得体の知れない結界のようなものが張られている。不用意に手を出せば、次元の流れそのものに巻き込まれる恐れもあるぞ」闇の中、彼らの前に隠された扉の輪郭がぼんやりと浮かび始めた。平行世界への鍵をめぐる新たな動きが、静かに始まろうとしていた。次の瞬間、足元の床がかすかに震え、地下深くから淡く青白い光がにじみ出てきた。崩れた石の隙間や壁の亀裂を伝って、柔らかくも鋭い輝きが徐々に広がり、廃墟の闇をゆっくりと押し上げていく。一行の中心にいた男が目を細め、その光をじっと見つめながら、低く笑みを含んだ声を漏らした。
「この光は……次元の力の反応に間違いない。やはり読みは当たっていたというわけだ」光は次第に強まり、空気にわずかな波紋のような歪みを生み出す。まるで別の世界との境界が薄れ始めるかのような感覚が、肌を刺すように伝わってくる。隣の仲間が警戒を強め、武器に手をかけながら囁く。
「これが平行世界へ通じる道の兆しか……だが、この力の波、想像以上に不安定だ。何が飛び出してくるか分からんぞ」
「それでも進むしかない」男は光の中心へと足を踏み出し、瞳に決意の色を宿す。
「この鍵を手に入れることで、我々の計画は一気に現実へ近づく――さあ、核心へ向かうぞ」淡い次元の光に包まれながら、彼らは地下深く隠された秘密の領域へと足を踏み入れていった。一行が光の源へたどり着いた瞬間、空気がピンと張り詰め、周囲の機械類が低くうなるような振動を始めた。次いで、どこからともなく響いてきたのは、機械質で冷たく、男性とも女性ともつかない平坦な声だった。空間全体に反響し、まるで次元そのものが語りかけてくるかのようだ。
「誰かいるのか!? 我は平行世界の者――この境界域に封じられし存在なり」予期せぬ声に、彼らは即座に身構え、辺りを鋭く見回す。先頭の男は息を詰め、驚きと確信の入り混じった表情で呟いた。
「この声の主は……まさか、次元の扉と共に封印されていた守護者か、あるいは平行世界そのものと結びついた意識体なのか?」青白い光がさらに激しく脈打ち、壁に刻まれた古い紋様が次々と発光する。声は再び、重く圧力のある調子で続いた。
「この鍵に手を伸ばす者よ。汝らの目的は何だ? 境界を越えることは、両世界の均衡を崩す危うき業であるぞ」一行には緊張が走る。求めていた「平行世界の鍵」の真の姿が、この声の主と共に目の前に現れようとしていた。先頭の男が青白い光の中心に並ぶ大型培養カプセルへと近づき、表面に浮かぶ古いデータパネルを指でなぞって調べ始めた。ガラス越しに満たされた保存液の中、静かに浮かぶその姿を目にした瞬間、彼の指がピタリと止まり、低い驚きの息が漏れる。
「これは……まさかな」カプセル内に閉じ込められていたのは、かつて悪名高きアスモディンが生み出したとされる禁忌の実験体だった。不自然に長い四肢、皮膚に浮かぶ次元干渉の紋様、人間とも魔物ともつかない輪郭――そして、眠っているはずの瞳の奥が、わずかに淡い紫の光を灯している。後ろから追いついた仲間がカプセルの刻印を読み取り、声を震わせる。
「間違いない……旧クリミナル・デビルの極秘ファイルに記録があった『次元適合実験体』だ。平行世界の境界エネルギーに耐えられるよう、アスモディン自身の魔素と機械神経を融合させた失敗作……いや、封印された完成試作体と呼ばれていた代物だ」機械質の声が再び空間に響き、カプセルが低くうなり始める。
「そうだ……この体こそが、平行世界の鍵を起動するための“器”。アスモディンが我をこの次元に繋ぎ止めるために残した、最後の楔である」一行の緊張は頂点に達した。求めていた鍵と共に、かつて封印された危険な実験体までもが、目覚めの時を待っていたのだ。リーダー格の男はカプセルに浮かぶ実験体を指差し、迷いのない、張りのある声でハキハキと言い放った。
「よし、目的の“器”は手に入れた。これで我々の計画は一歩も二歩も前へ進む」青白い光が彼の横顔を照らし、瞳には勝利の色がにじむ。後ろの部下たちが緊張を解き、安堵と期待のざわめきを上げる中、機械質の声が再び冷たく割り込む。
「その体は完全に制御できる代物ではないぞ。アスモディン自身が“均衡を崩す楔”と呼んだ代償を、お前たちは知っているのか?」リーダーは肩を竦め、挑むように口角を上げた。
「危険は織り込み済みだ。それでこそ、この世界の枠組みを書き換える力になる。さあ、起動準備に取りかかれ――鍵はすでにここにある」重厚な扉に守られた皇配室の奥深く。暗がりの中、玉座に似た台に身を預けていたアスモディンが、わずかに目を開いた。空気に漂う次元の歪み、遠くから響く微かな共鳴波――それらが鋭い感覚の芯を突き抜ける。指先がかすかに魔素の渦を描き、空間に浮かんだ過去の術式がざわめき始める。彼は唇をわずかに動かし、低く冷ややかな声を漏らした。
「……あの実験体が、動かされた」自らが禁忌と定め、封印したはずの『次元適合器』が、誰かの手によって起動へ向かっているのだ。部屋の壁に刻まれた紋様が不安定に明滅し、遠い場所で境界線が軋む音が響く。アスモディンは瞳に怒りと警戒の色を宿し、立ち上がる。
「愚かなことを……あれは“鍵”ではなく、世界を裂く“穴”だというのに。誰が、何のために手を出した?」皇配室の空気が一瞬で凍りつき、次元を揺るがす気配が静かに立ち上がった。皇配室の奥、次元の狭間そのものに座すかのような気配がゆっくりと形を取る。無数の虹色の光の塊が浮かび、時空を見通す瞳が静かに状況を読み解く。
「実行犯は7人のようだね」ヨグ=ソトースは淀みのない、事実だけを切り取るようなはっきりとした口調で告げる。まるで過去も現在も未来も同時に見渡しているかのように、情報に曖昧さがない。
「しかもそれだけじゃない。アスモディンが秘匿していた因子融合装置の完全設計図、さらには保管庫に残されていた予備の実験体まで、まとめて回収しているみたいだ」空気がわずかに波打ち、次元の境界線が軋む微かな音が室内に響く。彼は続けて冷静に状況の重さを言い添える。
「単なる鍵だけで済む話じゃない。装置と複数の器が揃えば、境界の安定など一瞬で崩れる。奴らの目的は“開ける”だけじゃなく、“こちら側へ引き込む”ことかもしれないよ」虹色に輝く球体の集合体がざわめき、ヨグ=ソトースの無数の視点が一斉に定まらなくなる。彼は初めて戸惑いを含んだ様子で目――光の核――を大きく見開き、低く唸るように口にした。
「なんだ?未来を見ようとしたら……ノイズが」時空の流れがかき消されるような雑音が、彼の認識の全域に広がっている。本来なら過去・現在・未来が一つに繋がって見通せるはずの視界が、不規則な干渉波で白く濁り、先の出来事が一切掴めなくなっていた 。
「まるで因果線そのものが断ち切られ、歪められ、別の層へ隠されているようだ」光の輪が激しく点滅し、皇配室の次元紋様まで同調して不規則に明滅する。彼は確信を持って続ける。
「あの実験体と装置が揃ったせいだ。アスモディンが禁忌とした理由、それは『予測不能な因果攪乱因子』だったというのか……奴らが動き出した途端、未来が読めなくなるとはな」皇配室から執務室へと場面が移る。机に広げられた文書と世界地図を眺めながら、ジョンアイデルは指で地図上の一つの印をなぞり、少し意外そうな口調で呟いた。
「国際連合組織“エルカーノス”か……聞けば、加盟国同士の紛争調停や国際法の監視、有事の際には共同で行動する高裁的な自衛隊みたいな存在らしいねぇ~」傍らのクレティアが資料を手に頷き、補足する。
「ええ。エウラシオン大陸を中心に複数の国が参加し、国境を越えた事件や国益に関わる問題に対し、中立的な立場から裁定と行動を行う機関です。法的拘束力を持つ一方、強制的な介入は加盟国の合意が必要という枠組みになっています」ジョンアイデルは肩をすくめ、興味深そうに続ける。
「つまり、国同士の力関係だけで物事が決まらないように作られた“調整役”ってわけだ。我々が新制度を広め、他大陸とも関係を築こうとしている今、この組織との付き合い方も考えておかないとね」その言葉の裏には、次元の鍵をめぐる動きが国際的な波乱に発展する可能性を、すでに意識し始めている様子がうかがえた。




