第7話 条件の外にいる人
翌週、私は新たに届いた夫候補の資料を読んでいた。
コンラート・エインズワース様。
地方に小さな領地を持つ子爵家の次男で、二十七歳になる。現在は王都の財務院に勤め、結婚後に妻が実家の領地を手伝うことにも理解がある。
借金はなく、仕事の評判もよい。家族関係に問題もなく、使用人に横柄な態度を取ったという話もない。
私が望んだ条件に、ほとんどすべて合っている。
会わない理由は、どこにもなかった。
それなのに。
(会ってみたいと、思えない)
候補者の名前から経歴へ、指を滑らせた。
穏やかで誠実。女性が仕事を続けることにも、ラングフォード領を手伝うことにも理解がある。
申し分のない男性だ。
けれど文字を追うたびに浮かぶのは、泥のついた革靴や、領地図の上に置かれた大きな手だった。
ニコラスの意見を年下だからと退けず、母には空の器を差し出し、小さな机を囲んで夕方まで話した侯爵様の横顔が、次々とよみがえる。
(……どうして、侯爵様ばかり思い出すの)
資料に書かれた男性の欠点を探しているのではない。
侯爵様と違うところばかりを、見つけようとしている。
その理由を、私はもう薄々分かっていた。
けれど、分かったと認めてしまえば、今までどおりに侯爵様の花嫁を探せる気がしない。
「何か問題が?」
紙の向こうから、侯爵様の声がした。
「……いいえ。条件には、とてもよく合っています」
「では、会うか?」
すぐに「はい」と答えるべきだった。
それが、この契約の目的なのだから。
けれど、口から出たのは別の言葉だった。
「少し、考えさせてください」
侯爵様は理由を尋ねなかった。
「分かった」
侯爵様は次の資料を手前へ滑らせた。
私は候補者の名前を指で隠した。
条件に合う男性を探していたはずなのに、いつの間にか、条件の外にいる一人の男性がすべての基準になっている。
◆
三日たっても、コンラート・エインズワース様の資料は、私の机の上に置かれたままだった。
条件に合っていることは、初めて読んだ日に分かっている。
問題は書類ではなく、それに向き合う私のほうだった。
(仕事のために、比較しているだけ)
一日目は、そう考えた。
(夫候補を選ぶには、基準となる方が必要なのよ)
二日目も、そう言い聞かせた。
三日目、資料を開く前から泥のついた革靴を思い出したところで、言い逃れをやめた。
(私は、侯爵様が好きなのね)
侯爵様と領地について話していると、時間を忘れた。
侯爵様が笑えば、もう少し話したくなった。
帰る時間が来れば、次に会える日を考えた。
ほかの男性の資料を読んでも、侯爵様ならどうするだろうと考えてしまう。
これを恋でないと言い張るには、三日では足りなかった。
けれど、分かったところで、どうにもならない。
侯爵様は、私を結婚相手として見ていない。
初対面の私に、自分の花嫁を探してほしいと依頼した。そのうえ、私には別の夫を紹介しようとしている。
これほど分かりやすい証拠もないだろう。
私は侯爵様の花嫁候補ではない。
(なら、諦めなければ)
コンラート様は、申し分のない方だ。
この方ときちんと向き合えば、侯爵様への気持ちも、いつかは薄れるかもしれない。
私は侯爵様に、面談を受けると返事をした。
そして同じ日、二十六歳のヘレナ・クロフォード伯爵令嬢を、新しい花嫁候補として紹介した。
裕福な伯爵家の長女で、領地の暮らしにも王都の社交にも明るい。両親から十分な教育を受け、侯爵夫人に求められる役目も理解している。
これまで候補に入っていなかったのは、本人が縁談を断っていたからだ。
二年前、父君が病に倒れたため、ヘレナ様は領地へ戻り、母君や弟君とともに家を支えていた。
父君が回復し、弟君も成人したことで、この春、ようやく王都へ戻ったと資料にある。そこで初めて、結婚についても前向きに考えたいと、ご本人から申し出があった。
書類の上だけなら、これまでで最も侯爵様の条件に合う女性だった。
実際にお会いしたヘレナ様は、濃い蜂蜜色の髪を上品にまとめ、深い青色のドレスを着ていた。
背筋はまっすぐ伸びているが、笑うと片方の頬にだけ小さなくぼみができる。
若い侍女がお茶を置く際、緊張から受け皿を小さく鳴らしてしまった。
けれどヘレナ様は受け皿の音には触れず、茶器を受け取った。
「ありがとう。とてもよい香りですね」
侍女の肩が下がり、今度は受け皿を鳴らさずに一礼した。
(相手の失敗を、人前で失敗にしない方なのね。こういうところまでは、書類に載っていない)
侯爵様とヘレナ様の会話が途切れることはなかった。
「侯爵様は、夫婦で意見が食い違ったとき、どのようになさいますか?」
ヘレナ様の問いに、侯爵様はすぐには答えなかった。
「まず、なぜそう考えたのかを聞く。私には見えていない事情があるかもしれない」
「それでも、意見がまとまらなければ?」
「急いで決める必要がないことなら、その日は決めない。どちらかが黙って従ったところで、話し合ったことにはならないだろう」
以前なら、侯爵様の口からは出なかった答えかもしれない。
ヘレナ様も感心したようにうなずいた。
「侯爵様は、初めからそのようにお考えだったのですか?」
「いや。最初に作った条件書には、妻に求めることばかり並べていた」
侯爵様の視線が、ふと部屋の隅にいる私へ向いた。
「夫である私が何を約束するのか、一つも書かれていないと、アデルに指摘された」
(……いつの間に、呼び捨てになっていたのかしら)
指摘する場面ではないので、胸の内だけで首をかしげておく。
それより。
(侯爵様……!)
お見合いの席で、仲介人の話を出さないでほしい。
そう伝えるため、私は侯爵様と目を合わせ、胸元で小さく手を振った。
けれど、すでに遅かった。
ヘレナ様の目が、侯爵様から私へ移る。
私の妙な合図まで、しっかり見られていた。
「それは、たいへん興味深いお話ですわ」
ヘレナ様は片頬に小さなくぼみを作って笑った。
「せっかくですから、アデル様のお考えも伺ってよろしいですか?」
隅に座っていた私が、突然会話の中へ入ることになった。
「私でよろしければ……意見が違うこと自体は、問題ではないと思います。どちらかが黙って従うことを、話がまとまったとは言えませんから」
「話し合えることが大切なのですね」
「はい。どちらも相手の考えを知ったうえで、決められるのでしたら」
ヘレナ様はうなずき、侯爵様へ顔を戻した。
「では、侯爵様とは、きちんとお話ができそうですわね」
「ああ」
侯爵様も迷わず答えた。
ヘレナ様は侯爵様の迫力にも気後れせず、自分の意見を言える。
侯爵様も、彼女の話を最後まで聞いている。
私が条件書から思い描いた夫婦に、二人はよく似合っていた。
(今度こそ、うまくいくかもしれない)
そう思った途端、膝の上で重ねていた指に力が入った。
面談の終わりに、ヘレナ様は二度目の面談を希望した。
侯爵様も、それを受けた。
「私も、もう少しあなたのお話を聞きたい」
「ありがとうございます」
二人の縁談は、次へ進んだ。
祝う言葉をいくつか考えたが、どれも口には出なかった。
帰りの馬車の中でも、私は窓の外ばかり見ていた。
◆
コンラート様との面談を受けると伝えたとき、侯爵様は当然のように日程表を引き寄せた。
「今回の同席は、結構です」
羽根ペンを取ろうとしていた侯爵様の手が止まった。
「なぜだ?」
「最初の面談で、私が相手のどこを見て判断するのかは、もうご覧になったでしょう。今回は、私一人でお話ししたいのです」
もっともらしい理由を口にしたが、本音は別にあった。
(侯爵様に見られていたら、コンラート様に集中できない)
今回は侯爵様ではなく、コンラート様の言葉を聞くつもりなのだ。
窓際に侯爵様が座っていたら、その決意は面談が始まる前に崩れてしまう。
「だが、彼を選んだのは私だ。確認したいことがあれば――」
「私が暮らす相手を、最後に決めるのは私なのでしょう?」
以前、侯爵様からいただいた言葉を、そのまま返した。
侯爵様の親指の下で、資料の角が折れた。
侯爵様はその折り目を伸ばした。
「……分かった」
侯爵様の親指は、伸ばしたばかりの資料の角をまだ押さえていた。
「面談が終わったら、報告してほしい」
「もちろんです」
◆
コンラート様との面談は、その三日後だった。
侯爵様の大柄な姿がないだけで、貸し館の応接室はいつもより広く見えた。
(これで、きちんとコンラート様だけを見られる)
そう思ったのに、席へ着く前、前回侯爵様が座っていた窓際の椅子へ、一度だけ目を向けてしまった。
コンラート様は、資料から受けた印象どおりの男性だった。
淡い金髪を耳にかからない長さに切り、穏やかな笑みを浮かべている。
私が領地で帳簿や商人との交渉を担当していると話しても、珍しいと驚くだけではなかった。
「作物の価格交渉まで、アデル様がなさるのですか?」
「はい。弟は農地や水路を、母は診療所の運営や生活支援を担当しておりますので」
「ご家族で、得意なことを分担していらっしゃるのですね」
私の仕事を、弟の代わりに仕方なくしているものとは扱わない。
こちらの話を遮らず、質問したあとは、私が答え終えるまで待ってくれる。
「結婚後も、必要なときにはラングフォード領を手伝いたいと考えております」
私が条件書に記した希望を伝えると、コンラート様はすぐにうなずいた。
「もちろんです。ご家族と領地を大切になさることは、事前に伺っております」
「王都からは、少し距離がございますが」
「私の仕事の都合で、毎回同行することは難しいかもしれません。それでも、あなたが戻ることを止める理由はございません」
コンラート様は窓の外へ一度目をやってから、付け加えた。
「一度は、私も領地を見せていただきたいです。アデル様が大切になさっている場所ですから」
望んでいた答えだった。
以前の私なら、これほど条件の合う方に会えたことを、心から喜んだだろう。
仕事を続けることも、実家へ戻ることも認めてくださる。ラングフォード領を知ろうとまで言ってくれた。
(本当に、よい方だわ)
何一つ、不満はなかった。
それなのに、肩の力は抜けなかった。
コンラート様が笑うたび、侯爵様のほとんど動かない口元を思い出す。
領地を見たいと言われれば、古い革靴へ履き替えた侯爵様が浮かぶ。
コンラート様の話を聞きながら、私は別の方ばかりを思い出していた。
(これは、失礼だわ)
この方は、誠実に私と向き合ってくださっている。
私も同じように向き合えないのなら、条件が合うという理由だけで、次へ進んではいけない。
面談の終わりに、コンラート様が尋ねた。
「また、お会いする機会をいただけますか?」
膝の上で握っていた手を開き、コンラート様を見た。
「申し訳ございません」
コンラート様の頬から笑みが消えた。
「何か、私に問題がございましたか?」
「いいえ。何もございません」
「では……」
「コンラート様は、本当にすばらしい方です」
だからこそ、曖昧な気持ちのまま次へ進むことはできなかった。
「私は今日、コンラート様のお話を伺いながら、別の方のことばかり考えておりました」
コンラート様は組んだ手に目を落とし、ひと呼吸置いた。
「その方を、お好きなのですか?」
否定しようと思えば、できたはずだ。
けれど言葉は出なかった。
私の沈黙が、そのまま答えになった。
「分かりました」
コンラート様は、責めることも、理由を問い詰めることもしなかった。
「二度目にお会いしてから知らされるより、今日お断りいただけてよかったです」
「申し訳ございません」
「謝らないでください。私も、条件だけではなく、自分を選んでくださる方と結婚したいですから」
最後まで、よい方だった。
だからこそ、この方との縁談を、侯爵様を忘れる手段にせずに済んでよかった。
(問題は、この結果を明日、侯爵様にどう報告するかだけれど)
お読みいただき、ありがとうございます!
アデルは、ようやく自分の気持ちを認めましたね。
けれど侯爵様には、アデルが選んだ花嫁候補との縁談が進んでいます。
全9話 毎日21時10分更新です。よろしくお願いします。




