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条件に合う花嫁を探してほしいと言われましたが、最後に残ったのは私でした   作者: 岸根しき


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第6話 侯爵様がやってきた


 侯爵様がラングフォード領を訪れた朝。


 私は屋敷の玄関ではなく、東の畑へ続く用水路にいた。


 朝食を終え、客間の花を替えていたところへ、水門を支える板が外れたと知らせが届いたのだ。


 裾を持ち上げて駆けつけると、上流側の畑を持つ農夫と、下流側の農夫が、ぬかるんだ土の上で言い合っていた。


「今日は、こちらへ水を流す約束だったでしょう」


 上流側の農夫が言う。


「下は昨日、種を蒔いたばかりなんだ。今日中に水が来なければ、蒔き直しになる」


 下流側の農夫も引かない。


 外れた板は、水路の脇へ斜めに引っかかっている。


 流れを完全に止めれば、どちらの畑にも水が届かない。


 私は二人の話を順番に聞き、板の割れ目と水量を確かめた。


「日が落ちるまでは、下の畑へ流しましょう。上の畑には昨日まで水が入っておりますから、今夜から明日の夕方までは、そちらへ回します」


 上流側の農夫が口を開きかけたので、私は先に続けた。


「明日の朝、新しい板へ替えます。屋敷からも人を出しますので、お二人の家からも一人ずつ手を貸してください。同じ水門を使っているのですから、修理も一緒になさってください」


 二人は顔を見合わせた。


 先に折れたのは、上流側の農夫だった。


「分かりました。息子を出します」

「こちらは私が出ます」

「では、明日の朝に」


 話がまとまり、二人が水の流れを変え始めたところで、畦道の向こうから馬車の音が聞こえた。


(……しまった)


 本日の大事な客人を、すっかり忘れていた。


 馬車は屋敷の前へ向かわず、畑へ続く道の手前で止まった。


 降りてきた侯爵様は、ギデオンから古い革靴を受け取ると、仕立てのよい靴から履き替えた。


 そのまま、泥に気をつけながらこちらへ歩いてくる。


「お迎えにも出ず、申し訳ございません」

「何があった?」


 侯爵様は挨拶より先に、壊れた水門へ目を向けた。


「板が外れました。今日は縄で押さえ、明日の朝に取り替えます」

「昨年も同じ場所が壊れたのか?」

「はい」


 侯爵様は水門のそばへしゃがみ、板の端を確かめた。


「古い荷車の鉄輪を溶かし、板の端を補強できるかもしれない。ローデン領にも、似た水門がある」

「新しく鉄を買わずに済むのですか?」

「ああ。鍛冶屋への手間賃だけで済むはずだ」


 侯爵様は、設備が古いとも、修理費が足りないとも言わなかった。


 私たちの懐事情を笑うのではなく、今あるものの範囲で使える方法を考えている。


 気づけば私も隣へしゃがみ込み、鉄輪を当てる位置まで尋ねていた。


 水門を離れ、屋敷へ戻る途中、道の向こうから小さな女の子が走ってきた。


「アデル様!」

「リナ。そんなに走ったら転ぶわよ」


 両手に抱えているのは、布で包まれた石板だった。


「昨日の文字、全部書けたの。あとで見てください」

「ええ。お昼を過ぎたら、屋敷へ持っていらっしゃい」

「はい!」


 リナは侯爵様へ気づくと、慌てて足を止めた。


 泥のついた靴をそろえ、覚えたばかりらしい礼をする。


「ご、ごきげんよう」

「ごきげんよう」


 侯爵様が同じように挨拶を返すと、リナの上がっていた肩が下がった。


 そのまま走り去った先では、杖をついたマーサさんが家の前に立っていた。


「アデル様、お母様にお礼を。診療所からいただいた薬で、じいさんがよく眠れたよ」

「母に伝えておきます。明日、診療所の先生にも様子を見ていただけるよう頼んでおきますね」

「ありがとう」


 そんなふうに何度か足を止めているうちに、侯爵様が尋ねた。


「領民の名と事情を、すべて覚えているのか?」

「人数の少ない領地ですから」

「先ほどのリナは?」

「母が運営を手伝っている診療所へ、家族で薬草を届けてくれています。文字を覚えて、いつか薬の名前を読めるようになりたいそうです」

「マーサの夫は?」

「冬に胸を悪くしました。畑へは戻れませんが、今は農具の柄を直す仕事をしていただいております」


 侯爵様は、私が答えるたびに小さくうなずいた。


 かわいそうだとも、大変だとも言わず、そこで暮らす人の生活として聞いている。


 だから私は歩幅を緩めることなく、リナの家族のことも、マーサさんの夫の仕事も話せた。


 屋敷へ着くと、母とニコラスが玄関先で待っていた。


 母のそばには、水桶と布が用意されている。


「お帰りなさいませ。侯爵様も、こちらで泥を落としてからお入りください」


 伯爵未亡人としては、もう少し別の迎え方があると思う。


 けれど侯爵様は気を悪くすることもなく、母の言葉に従って靴の泥を落とした。


「お母様。侯爵様に最初に申し上げる言葉が、それでよろしいのですか?」

「そのままお入りになったら、廊下を拭くのはあなたでしょう?」


(それは困る)


 侯爵様の唇の端が上がった。


「ごもっともです」


 ニコラスは、侯爵様の前へ進み出た。


「本日は遠いところをお越しいただき、誠にありがとうございます。ラングフォード伯爵、ニコラス・ラングフォードでございます」


 弟はまだ十八歳だ。


 けれど父が亡くなってからの二年間、伯爵家の当主として領地を預かってきた。


 侯爵様を前にして、肩には普段より少し力が入っているものの、姿勢も言葉も崩してはいない。


「エリアス・ローデンだ。本日は、訪問を受け入れてくれたことに感謝する」

「姉よりお話は伺っております。何もない領地ではございますが、どうぞごゆっくりお過ごしください」

「何もないとは思わない。来る途中で、すでに興味深いものを見せてもらった」


 侯爵様が水門の補強について話すと、ニコラスの肩が一段下がった。


「ご助言をありがとうございます。さっそく領内の鍛冶屋と相談し、我が領地でも検討いたします」

「必要なら、こちらで使っている図面を送ろう」

「ぜひ、お願いいたします」


 ニコラスの声はまだ硬い。


 けれど領地の話を聞きたい気持ちまでは、隠しきれていなかった。


 昼食には、鶏の香草焼きと根菜のスープ、焼きたてのパン、それから母が朝から用意していたリンゴの焼き菓子を並べた。


 侯爵家の食卓と比べれば質素だろう。


 けれど我が家では、祝いの日に近い献立である。


 侯爵様は料理を珍しがることも、必要以上に褒めることもなく、スープをきれいに飲み終えた。


「もう一杯、いかがですか?」


 母が尋ねると、侯爵様は素直に器を差し出した。


「いただきます」


 母は空になった器を両手で受け取り、口元をほころばせた。


(侯爵様がスープをお代わりしただけで、なぜお母様が作物の品評会に勝ったような顔をしているのかしら)


 侯爵様は二杯目のスープを受け取ると、香草焼きにも手を伸ばした。


「こちらも、もう一切れいただいてよいだろうか」

「もちろんでございます」


 母は胸を張って二切れ目を皿へ載せた。


 向かいに座っていたニコラスも、ようやく背もたれへ体を預けた。


「我が領地で育てた鶏と野菜でございます。お口に合いましたら何よりです」

「よい味だ。香草も領内のものか?」

「はい。診療所の裏で母が育てております」

「食用と薬用を分けているのか?」


 侯爵様の問いに、母が答える。


「一部は兼ねております。余ったものは乾燥させ、冬に備えます」


 そこから話は、診療所の薬草畑と、冬を越すための備蓄へ移った。


 侯爵様は母の話を途中で遮らず、分からないことだけを尋ねる。


 次に、ニコラスへ顔を向けた。


「今年、領地で最も優先していることは何だ?」


 突然当主として意見を求められ、ニコラスが姿勢を正した。


「共同の穀物庫を修繕することです。今年は雨が多く、床を直さなければ、収穫した麦が傷みます」

「橋や道よりも?」

「はい。橋はまだ通れます。ですが、麦が湿れば、冬を越せない家が出ます」


 ニコラスは慎重に答えながらも、自分の判断を曖昧にはしなかった。


 侯爵様は、十八歳の若い当主だからと軽く扱わず、理由を最後まで聞いた。


「よい判断だと思う」

「ありがとうございます」


 ニコラスの返事には、もう最初の硬さがなかった。


 侯爵様が十八歳の弟を、きちんと当主として扱ってくれたからだ。


 私はテーブルの下で、膝に置いた手を緩めた。


 食後、私は侯爵様を小さな執務室へ案内した。


 もちろん、家の収支帳簿を見せるつもりはない。


 税の総額、商人との仕入れ値、各家の納付状況まで記されたものは、侯爵様であっても、他家の人間に開く書類ではなかった。


(貧しい家だからこそ、懐の中身をすべて見せるわけにはいかないもの)


 代わりに机へ広げたのは、領地図と、今年予定している修繕の一覧だった。


 橋、水路、診療所の屋根、共同の穀物庫。


 直したい場所へ印をつけ、優先する順番だけを書いた紙である。


「こちらの橋は、今年の予定から外したのか?」


 侯爵様が、領地図の西側を指した。


「通れないわけではありませんので、来年へ延ばしました。今年は穀物庫の床と、診療所の屋根を先に直します」

「こちらの道も、雨が降れば使いにくそうだ」

「分かっております。ただ、一度にすべては直せません」


 侯爵様は領地図と一覧を見比べた。


「直す場所ではなく、後回しにする場所を決めるための表なのだな」

「はい。限られたお金と人手で、どれを先に残すか決めております」

「迷わないのか?」

「迷います。ですから、家族で話し合います」


 私とニコラスだけでは決まらないときは、母にも意見を聞く。


 それでも決まらなければ、実際に橋や道を使う領民に尋ねる。


「当主一人で決めるのではないのか」

「最終的に決めるのはニコラスです。ただ、領地のことを一番よく知っているのが、いつも当主とは限りませんので」


 侯爵様はニコラスを見る。


 弟は膝の上で拳を握りながらも、うなずいた。


「姉は商人と修繕費を、母は診療所と生活支援を見ております。二人の意見を聞かずに決めれば、必ずどこかを見落とします」

「なるほど」


 侯爵様の指が、領地図へ戻った。


「小さいが、よく考えて回している領地だ」

「侯爵様の領地とは、比べものになりません」

「比べる必要があるのか?」

「ございませんけれど」

「なら、あなた方が守ってきたものを、そのまま誇ればいい」


 領地図の端はすでにそろっている。


 それでも私は、ずれもない紙を指先で二度そろえた。


(ずるい方だわ)


 侯爵様は女性を褒めるのが苦手だったはずなのに。


 どうして、私が隠しておきたいところだけ、こんなに簡単に見つけてしまうのだろう。


「姉上、お茶をこちらへ運んでもよろしいですか?」


 扉からニコラスが顔を出した。


「先ほどの話を、もう少し聞きたい。こちらでも構わないだろうか」


 侯爵様が尋ねると、弟はすぐに一礼した。


「もちろんでございます」


 結局、午後のお茶も執務室で取ることになった。


 領地図の端へ茶器を置き、来年試したい麦の品種や、王都へ作物を運ぶ道について話す。


 侯爵様が提案し、ニコラスがラングフォード領では難しい理由を説明する。


 私が費用と人手を考え、母が診療所の都合を加える。


 誰かの意見に、ただうなずくのではない。


 難しいことは難しいと言い、その代わりに別の方法を探す。


 侯爵様は、女の私が領地の費用について話しても、細かすぎると笑わなかった。


 ニコラスが年下でも、当主としての意見を最後まで聞いた。


 私が反対すれば、機嫌を悪くするのではなく、理由を尋ねた。


 話題が途切れるたび、私は領地図の次の印を指していた。


 話しているのは修繕と作物のことばかりで、華やかな音楽も、美しい庭園もない。


 それでも侯爵様は面倒がらず、正しい答えを押しつけることもなく、次の方法を一緒に考えてくれる。


「侯爵様は、我が領地で小麦の作付けを増やすべきだとお考えですか?」


 ニコラスが尋ねる。


「今の土なら、すべてを小麦へ変えるのは危険だ。だが、南の畑だけなら試す価値はある」

「南は、春に水が足りません」


 私が言うと、侯爵様が領地図へ顔を近づけた。


「では、秋蒔きにするか」

「それなら、収穫時期が豆と重なりません」

「人手も分けられるな」


 話がまた続いていく。


 空になった茶器は一度下げられ、二度目のお茶が運ばれた。


 母が「今度は冷める前にお飲みくださいね」と笑う。


 侯爵邸では、いつも書類を挟み、正しい答えを探すような顔をしている。


 我が家の小さな机へ腕を置き、ニコラスと領地図を覗き込む侯爵様は、肩の力が抜けて見えた。


 窓から差していた光が、少しずつ橙色へ変わっていった。


「侯爵様」


 扉のそばから、ギデオンが声をかけた。


 四人とも口を閉じる。


「そろそろお発ちになりませんと、日が暮れる前に街道へ出られません」


 侯爵様が窓の外を見た。


 私もつられて振り返ると、畑の向こうへ日が傾いていた。


「もう、そのような時間か」


 侯爵様の指は、まだ南の畑を示したままだった。


 私も次の案を聞きかけて、代わりに領地図を畳んだ。


 侯爵様を玄関まで見送る。


 古い革靴から元の靴へ履き替え、仕立てのよい外套を羽織れば、いつもの侯爵様に戻る。


 けれど深緑の上着の袖口には、拭ききれなかった泥が残っていた。


「本日は、お見苦しいところばかりお見せいたしました」

「そうは思わない」

「水門が壊れ、客人を迎えに出る者もおらず、昼食のあとまで領地の話ばかりでしたが」

「よい一日だった」


 馬車へ向きかけた侯爵様が、もう一度こちらを見た。




「楽しかった」




 息を吸い損ね、返事が半拍遅れた。


「……それでしたら、よかったです」


 侯爵様は馬車へ乗る前に、屋敷と、その向こうに続く畑を振り返った。


「次は、水門が壊れていない日に来たい」

「何も起きない日は、もっと退屈ですよ」

「そうは思わない」


 侯爵様は、今度は迷わず答えた。


 馬車が道の向こうへ見えなくなるまで見送り、私はようやく玄関へ戻った。


 次に来る日は、何も壊れていないとよい。


 そして、その「次」があることを、私はもう当たり前のように考えていた。





お読みいただき、ありがとうございます!

だんだん二人の距離が近づいてきましたね。


次回、条件にぴったり合う夫候補が現れて…?

全9話 毎日21時10分更新です。よろしくお願いします。


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