第5話 薄紫の花
二週間後。
アイリス嬢とローランド男爵から、それぞれ手紙が届いた。
アイリス嬢は、侯爵様との縁談を辞退したいと書いていた。
ローランド男爵は、私への非礼を詫びたうえで、アイリス嬢と結婚を前提に交際したいと申し出ている。
侯爵様の執務室で二通を読み終え、私は便箋を卓へ戻した。
「侯爵様の花嫁候補と、私の夫候補が、同時にいなくなりました」
「二人が互いを選んだのなら、仕方がない」
「仕方がない、で済ませてよいのでしょうか」
「あなたの噂は、三件中三件になった」
「喜ぶところが違います」
私はこめかみを指で押さえた。
ところが、肩の奥からは力が抜けている。
ローランド男爵は、本当によい方だった。
それなのに心が動かなかった理由を、いずれ考えなければならなかった。
◆
その後も、花嫁探しと夫探しは続いた。
侯爵様は、相手が迷えばすぐに身を引くことをやめた。
何が不安なのか。本当はどのような暮らしを望んでいるのか。
以前より、相手の言葉を待つようになった。
ただし、質問の仕方まで急に上手くなったわけではない。
刺繍を好む令嬢との面談では、いつ刺繍を始めたのか、誰に教わったのか、何を縫うのが好きなのか、完成までどれほどかかるのかと、途切れなく尋ねてしまった。
同席していた私は、五つ目の質問で数えるのをやめた。
面談後、侯爵様は報告書を私の前へ置いた。
「相手の好きなことに関心を示したつもりだ」
「侯爵夫人の面談です。刺繍職人を雇うための聞き取りではございません」
「関心を持つことと、聞き取りは違うのか」
「違います。一つ尋ねたら、まず答えを聞いてください。そこからお話を広げればよいのです」
「なるほど」
侯爵様は、また報告書の余白に書き込んだ。
(本当に、何でも記録なさるのね)
そうして面談を重ねるうちに、候補者と話している時間より、終わったあとに侯爵様と意見を交わす時間のほうが長くなっていった。
面談のない日にも、私は侯爵邸を訪ねた。
表向きは、相変わらずエレノア嬢のお茶の相手である。
はたから見れば、十二歳の令嬢と二十三歳の私は、年の離れた親友に見えているかもしれない。
実際、エレノア嬢も、私の前では少しずつ十二歳らしい顔を見せるようになった。
「アデル様。一つ、お願いがございます」
ある日、侯爵様が書類を取りに席を外したとき、エレノア嬢が刺繍枠を膝へ置いた。
「何でしょう?」
「お姉さまとお呼びしてもよろしいですか?」
「私を?」
「はい。わたくしには姉がおりませんし、アデル様には、いつもよくしていただいておりますから」
「もちろんです。私も、エレノア様を妹のように思っております」
返事をすると、胸の内がくすぐったくなった。
エレノア嬢は刺繍枠を抱えたまま笑った。
そこへ侯爵様が戻ってくる。
「何の話をしていた?」
「これからは、アデルお姉さまとお呼びすることになりました」
侯爵様の足が止まった。
「……そうか」
なぜか眉間へ皺が寄っている。
(妹君を取られたようで、寂しいのかしら)
エレノア嬢は、兄の顔を見て、満足そうに刺繍へ戻った。
その日、私が着ていたのは青いドレスだった。
侯爵邸を訪ねる際に何度も袖を通しているが、以前は袖口へ薄紫のすみれを刺していた。
今は糸をほどき、小さな白い花へ縫い直してある。
候補者の資料を読んでいた侯爵様の目が、私の袖口で止まった。
「その袖は、前と違うな」
「よくお気づきになりましたね」
「以前は、薄紫の花だった」
候補者の服装については、ほとんど何も言えない方なのに、私の袖は覚えていた。
私は腕を少し持ち上げ、刺繍を見せた。
「同じドレスです。以前の糸を外し、季節に合わせて縫い直しました」
「同じものなのか?」
「新しいドレスを何着も用意する余裕はございませんので。襟や袖を替えれば、毎回同じものには見えないでしょう?」
「気づかなかった」
「でしたら、うまくいっております」
侯爵様は、白い花の刺繍を指先で示した。
「古いものを、ただ古いまま我慢しているのではなく、今の自分に合うよう手を入れているのだな」
「ただの節約です」
「私の条件書も同じだった」
侯爵様は、何度も書き直された花嫁の条件書を指先で押さえた。
「使えないものとして捨てるのではなく、足りないところを見つけ、使える形へ直した。候補者と話すときも、あなたは相手のできないことだけで判断しない」
「それは、仕事ですから」
「仕事であっても、誰にでもできることではない」
侯爵様の目が、まっすぐ私へ向く。
「持っているものをよく見て、足りない部分を工夫で補える。それは、あなたの長所だと思う」
私は返事をする代わりに、卓上の角砂糖を一つ取った。
紅茶の中へ落とす。
それから、もう一つ。
二つ目が沈んだところで、普段は砂糖を入れないことを思い出した。
(……二つも入れてしまった)
取り出すことはできない。
私は何事もなかったように匙で紅茶を混ぜた。
「今日は甘くするのか?」
「書類が多い日ですので」
侯爵様は卓上の三枚だけの資料を見たあと、何も言わず自分の茶器へ手を伸ばした。
口にした紅茶は、予想どおり甘かった。
(侯爵様に長所を教えるのは簡単だったのに、自分の長所を言われると、どうしてよいか分からないものなのね)
私はもう一口飲み、今日は書類が多い日だということにした。
◆
「ラングフォード領を見せてほしい」
侯爵様からそう言われたのは、その日の帰り際だった。
私は、受け取った候補者の資料を鞄へしまう手を止めた。
「我が家の領地をですか?」
「ああ」
「何か調査に必要な資料がございましたか?」
「書類ではなく、実際の暮らしを見たい」
侯爵様は、私の夫候補についてまとめた帳面を開いた。
「あなたに合う男性を選ぶなら、あなたが何をして、どのように暮らしているのか知っておく必要がある」
「仕事内容と、領地の概要はお渡ししております」
「条件に合うことと、同じ暮らしを望んでいることは違うのだろう?」
自分が侯爵様に言った言葉だった。
(自分の言葉で返されると弱い)
「ですが、侯爵様がお越しになるほどのものはございません。小さな領地ですし、見学して楽しい場所でも――」
「楽しい場所かどうかを確かめたいのではない」
侯爵様は、私の言葉を最後まで聞いてから続けた。
「あなたが大切にしているものを、私が知らないまま夫候補を選ぶべきではないと思った」
そこまで言われては、断る理由が見つからなかった。
「分かりました。ただし、本当に何もございませんよ」
「承知した」
「侯爵家のお客様をお迎えするような食事も、ご用意できません」
「普段のものを出してくれ」
「道も、ところどころぬかるんでおります」
「替えの靴を持っていく」
準備がよすぎる。
(初めから、断られても来るつもりだったのでは?)
そう思ったが、口には出さなかった。
お読みいただき、ありがとうございます!
お互いに別の結婚相手を探しているはずなのに、少しずつ相手を見る目が変わり始めています。
次回、侯爵様がラングフォード領を訪れます。
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