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No.64 恩人と違和感

「恩人、かな」


梨亜の目がわずかに開かれる。


「恩人?」


「うん。私がこの学校に入るきっかけを作ってくれた人」


鈴菜は淡々と言った。


特別な感情を込めたつもりはない。


けれど、その言葉だけは軽くならなかった。


「昔から魔法師だったけど、どうするか分からなかった時、声をかけてくれた。僕の学校に来ればいいって」


「それで、スズはここに?」


「そう」


鈴菜はパンを一口かじる。


「だから、恩人ではある」


「ではある?」


梨亜がその言い方を拾った。


鈴菜は何も答えず、ただ前を見た。


中庭には、昼休みを過ごす生徒たちの声が響いている。


魔術の話。


課題の話。


部活動の話。


どこにでもあるような学生の会話。


その中に、三澤校長の名前だけが妙に鮮明に残っていた。


梨亜は少しだけ首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。


昼休みが終わり、午後の授業も終える頃には、鈴菜の眠気もすっかり消えていた。


放課後の校舎は、朝とは違う賑わいを見せている。


部活動へ向かう生徒。


実技棟へ急ぐ生徒。


廊下の端で魔術式について言い合う生徒。


その中を、鈴菜と梨亜は並んで歩いていた。


「今日はちゃんと最後まで起きていたわね」


「当たり前」


「午前中は心の目で授業を受けていたのに?」


「梨亜、細かい」


「細かくないわ。大事なことよ」


そんなやり取りをしながら廊下の角を曲がった時だった。


前方の廊下が、少しだけざわついていることに気づいた。


数人の生徒が、同じ方向へ視線を向けている。


その先にいたのは、柔らかな笑みを浮かべた一人の男性だった。


三澤校長。


年齢を感じさせない落ち着いた雰囲気をまとい、数人の生徒たちに囲まれている。


「校長先生!」


一人の女子生徒がぱっと表情を明るくして、駆け寄った。


それにつられるように、近くにいた生徒たちも足を止める。


「この前の実技試験、見てくださってありがとうございました!」


「いや、よく頑張っていたよ。特に最後の制御は良かった。焦らなければ、もっと安定するかな」


「本当ですか?」


「ああ。君は魔力の流れを掴むのが早い。あとは、自分の力を疑いすぎないことだね」


三澤校長は穏やかに言った。


その声は大きくないのに、不思議と周囲に届く。


威圧感はない。


けれど、自然と人の視線を集める力があった。


「校長、俺も質問していいですか?」


「もちろん。廊下で立ち話になってしまうが、それでよければ」


「ありがとうございます!」


生徒たちは嬉しそうに笑う。


誰かが困っていれば足を止め、誰かが質問すれば丁寧に答える。


その姿は、確かに理想的な校長に見えた。


近寄りがたさはなく、かといって軽くもない。


生徒に慕われ、先生たちからも信頼されている。


そんな人物なのだと、ひと目で分かる光景だった。


梨亜も、その様子を見つめながら感心したように呟く。


「素敵な方ね」


鈴菜は隣で黙っている。


「三澤家の方というだけでも十分有名なのに、あれだけ生徒に慕われているなんて。噂以上だわ」


「そうだね」


「それに、話し方も穏やかで、相手をちゃんと見ている感じがするわ。校長という立場に驕っていないのね」


「うん」


鈴菜の返事は短い。


梨亜はそこで、ようやく違和感に気づいた。


「スズ」


「ん?」


「恩人なのでしょう?」


「うん」


「なのに、どうしてそんな顔をしているの?」


鈴菜は三澤校長を見つめたまま、わずかに目を細めた。


廊下の向こうでは、三澤校長が生徒の相談に微笑みながら応じている。


その笑顔に、嘘は見えない。


少なくとも、周囲の生徒たちは心から安心しているようだった。


それでも。


鈴菜の胸の奥に、引っかかるものがある。


理由は説明できない。


証拠もない。


恩を受けたことは事実だ。


助けられたことも事実だ。


この学校へ導いてくれたことにも、感謝している。


けれど、それとは別に。


鈴菜の直感が、静かに警鐘を鳴らしていた。


「あの人は」


鈴菜は小さく呟く。


梨亜だけに聞こえるくらいの声だった。


そこで、鈴菜の目がすっと細くなる。


口元が横に引かれ、かすかに「い」の形に歪んだ。


まるで、苦い薬を無理やり飲み込んだ直後のような顔だった。


「……胡散臭い」


梨亜は一瞬、目を瞬かせた。


それから、鈴菜の顔を見て、堪えきれなかったように小さく笑う。


「ふふっ」


「どうかした?」


「いえ。そんな顔をして言うものだから」


「どんな顔」


「とても苦そうな顔よ。お薬でも飲んだのかと思ったわ」


「飲んでないよ」


「でしょうね」


梨亜は口元に手を添えたまま、まだ少し笑っていた。


鈴菜は不服そうに眉を寄せる。


「恩人に向ける表情ではなかったわね」


「恩人と胡散臭いは両立する」


「しないと思うわ」


「するよ」


鈴菜は淡々と言い切った。


梨亜はまた、くすりと笑う。


「じゃあ、スズの中では三澤校長は“胡散臭い恩人”なのね」


「うん」


「不名誉な肩書きね」


「本人には言わない」


「当然よ」


二人がそんなやり取りをしている間にも、三澤校長は生徒たちと穏やかに話していた。


誰からも慕われる、理想的な校長。


その光景だけを見れば、鈴菜の言葉の方がよほど失礼に聞こえる。


梨亜は廊下の向こうへ視線を向ける。


「私には素敵な方に見えるわ」


「それが胡散臭い」


「そこが?」


「うん、そこが」


即答だった。


梨亜は呆れたように肩をすくめる。


けれど、その表情はどこか楽しそうだった。


「スズって、警戒心が強いのね」


「みんなも梨亜も警戒心が無さすぎる」


「私は普通よ」


「三澤校長に関しては、みんな普通じゃない」


「そこまで言う?」


鈴菜は当然のように頷く。


梨亜は苦笑した。


「でも、顔には出しすぎない方がいいわよ」


「出てた?」


「かなり」


鈴菜は少しだけ黙った。


そして、もう一度だけ三澤校長を見る。


「……善処する」


「それは、できない人の返事だわ」


梨亜の呆れた声に、鈴菜は何も答えなかった。

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