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焦燥ドリーマー(2)


 りんごの汁で、少しべとべとしている由多朗さんの手。

 アタシは由多朗さんの目的がわからず首を傾げていると、由多朗さんは呆れた様子でため息を吐いた。


「あのですねぇ……一応僕は漫画家ですよ? 奈津乃ちゃんにセンスがあるかどうかくらいは見抜けるはずです」


 あ、そういえばこの人漫画家だった。

 全然仕事している姿見てないから忘れてた。

 そう言うと由多朗さんは唇を尖らせ、「最近は読み切りを書きました」とそっぽを向いてしまった。


「なら、それやるよりも奈津乃が書いたキャラ表と小説あるから、こっち見たほうが早いよ」


 裕理は今度は座ったまま手を伸ばし、鞄を自分の方に引き寄せた。

 そして中から紙の束を取り出す。


「とりあえず奈津乃に返しておいてって渡されたんだ」


 そう言って裕理は由多朗さんにアタシの作ったキャラ表を渡す。

 心臓がばくばくして、喉が乾いてきた。

 目の前で人に文章を読まれる経験なんてないから、顔は平静を装っているけど、心臓は破裂しそうだった。

 アタシの手の上に、そっとハルちゃんの手が重ねられる。

 緊張を飲み込むような手の温かさに、アタシはふぅと息を吐く。

 少し気が楽になった。

 由多朗さんは表情を変えず、早いペースでページを捲る。

 ぱらりと一枚捲られるたびに、アタシの心臓は大きく跳ね上がる。


「……」


「……どう、だった?」


 由多朗さんは全て読み終え、紙束を整えるとアタシに渡してきた。

 それを受け取り、アタシは控えめに尋ねる。

 由多朗さんは眉間にしわを寄せ、難しい顔で、言った。


「予想外、でした」


「え?」


「思っていたよりキャラに魅力があります。小説のほうは……文才という面ではまだよくもなく悪くもありません。ただ、テーマがしっかりしていたので読みやすかったです。でも、これだけじゃストーリー構成の力があるかはわかりません」


 由多朗さんはアタシを真っ直ぐに見つめ、常に無表情な目元を緩めた。


「全くの無謀というわけではないようです。……やってみなさい、奈津乃ちゃん」


 アタシはしばらく呆然と由多朗さんを見つめていた。

 物語を作ることに関してはプロである由多朗さんからの言葉が、信じられなかった。

 不意に、重ねられていた手に強く握り締められる。

 アタシは、驚いてハルちゃんを見上げた。

 優しく細められた瞳に見つめられ、思わず俯く。

 何故だか妙に照れ臭かった。


「凄いよ、奈津乃。ゆた兄に誉められたんだよ」


「う、うん……」


 初めて両親に将来の夢を語る子供の気持ちは、こんな感じかしら。

 胸がドキドキして、気恥ずかしくて、でも本当は踏み出す一歩にワクワクしている。


「奈津乃ちゃん、僕の契約している出版社が九月末を締切に小説を募集しています」


「九月末……?」


「はい。大体二ヵ月ですね。そこに応募してみませんか?」


 二ヵ月、という期間にアタシは返事が出来なかった。

 ストーリーを考えて、キャラクターを生み出すことまで含めて二ヵ月で小説を書くということが、出来る気がしなかった。

 頷くことに躊躇しているアタシの態度に、由多朗さんは鼻で笑った。


「普段の強気はどこに消えたんですか? 自信がないにしても、萎れすぎですよ」


 馬鹿にしたような口調に、アタシはカチンときた。

 そんなアタシには気付かずに、由多朗さんは笑みを浮かべる。


「奈津乃ちゃんにはハードルが高過ぎましたか。僕も出来ないことを勧めはしません」


「……やるわ」


 そんなふうに言われて、引き下がれるわけないじゃない。

 わかってる、これが由多朗さんの挑発だってことくらい。

 承知の上で、やってやるわよ!

 由多朗さんは普段の表情に戻って、「わかりました」と頷くだけ。

 その態度が腹立たしい。

 一発殴ってやろうかしらと拳を握ると、由多朗さんはりんごを手に取りアタシに見せ付けるように向けた。


「思い立ったが吉日、というでしょう? やろうと思ったときにやらないと、後で後悔しますよ」


 そして、ぱくりとりんごを食べてしまう。

 由多朗さんの口の中に放られてようやく、それが最後の一匹だったと知った。


「あ、あー! 由多朗さんりんごほとんど一人で食べたでしょ!」


「いつのまに……」


 感心とも呆れとも取れるため息を吐いた裕理に、由多朗さんは人差し指を立てて当然のように頷いた。


「思い立ったが吉日です。食べたいと思ったから、うさぎさんたちを僕の口の中に招待したんです」


「いや、ゆた兄……それは使い方違うと思うよ」


 完全に呆れているハルちゃん。

 アタシも食べたかったのに……。

 肩を落としてうなだれていると、ハルちゃんが立ち上がった。


「まだりんご残ってるから切ってくるよ!」


 すかさず、裕理も立ち上がる。


「あ、俺がやるよ。お前らはゆっくりしてろよ」


 立ち上がると裕理はどんどん台所へと歩いていった。

 ハルちゃんが関わると、本当に素早いんだから。


「私がやるよ!」


 ハルちゃんも慌てて追い掛ける。

 アタシはハルちゃんの作ったうさちゃんのほうがいいなぁ。

 そう言うとハルちゃんは嬉しそうに振り返り、気合い十分で台所へと消えていった。

 台所からは、二人の口喧嘩が聞こえてきた。

 どうやら、ハルちゃんが危なっかしくて裕理が怒っているらしい。


「相変わらず、仲良しですね」


「そうね、本当に」


 たぶん、ハルちゃんにとって裕理以上の人間はいない。

 ハルちゃんは意識していないけど、アタシも裕理には勝てないと思う。

 誰も相手にならないくらい、裕理はずっとハルちゃんの隣にいて、見守ってきたはずだから。

 アタシは、怖い。

 裕理が捨て身でハルちゃんを奪いに来たら、きっとかなわない。

 そんな未来を想像すると、アタシはもう笑っていられない。


「少し詳しく教えておきますね。原稿用紙は八十から百二十枚です。字数は……ちょっとすぐには思い出せません」


 明日、春緒ちゃんの部屋に要項届けます。

 そう言って由多朗さんは視線を宙に向けた。


「他は……ジャンルはなんでも構いません。リアルでもファンタジーでも、現代でも架空でも」


「割と自由なの?」


「自由というか、欲しい内容が漫画寄りなんです。僕が勧めている賞はラノベに近いって思ってください」


 ラノベは、そこそこ読む。

 裕理の部屋にはたくさん揃っているから、割と頻繁に借りている。

 読書に関しては雑食だから、興味があればどんなジャンルにも手を出す。

 最近読んだラノベのヒロインはヤンデレと女王様タイプだ。


「普通の文学作品も出版していますが、たぶん奈津乃ちゃんにはこっちのほうがやりやすいと思います」


「アタシもファンタジーは好きよ」


「そうですか。さっきキャラ表を見たときにも思いましたが、キャラに魅力があります。それなら、ラノベ向きですよ」


 そして由多朗さんは急に声のトーンを落とし、真剣な表情で声を潜める。


「それと……今回の小説募集は漫画の原作者になれそうな人を探したいという編集の狙いもあります」


「原作者?」


「はい。うちの雑誌は最近絵の上手い新人が沢山入っているんですが、どうもストーリーが面白くないみたいなんです」


 由多朗さんは困ったように肩を竦め、目を伏せた。

 ……というか、こんな裏事情アタシに話していいのかしら?

 アタシは内心不安になりながらも、由多朗さんの言葉に相づちを打つ。


「それで、今回の小説募集で使えそうな子がいたら小説の大賞とは別で引っ張るつもりみたいなんですよ」


 そこで由多朗さんは顔を上げ、アタシを見つめ微笑んだ。


「だから僕は、君をこの賞に必ず応募させたかったんですよ」


 普段からよく浮かべる含みのある微笑ではなく、無邪気な子供のような微笑みに、ついアタシは心を動かされてしまった。

 アタシのためを思ってくれることは感謝したいけど、なんだか素直に感謝したら何か企んでいるんじゃないかと不安になる。

 これはアタシが歪んでいるのか、由多朗さんが性悪だからなのか。


「そんな話、アタシにしていいの? ずるくない?」


「チャンスが目の前にあって掴もうとするのは、ずるいことですか? もし奈津乃ちゃんが完成させた作品があるなら、それを僕の担当に読ませて評価してほしいって頼まれてもそれは当然だと思いますが」


 由多朗さんは時々、人とは感性がずれている。

 そして質が悪いことに、そのずれた感性はしっかりとした理屈に支えられているのだ。


「そもそも、漫画にしても小説にしてもイラストにしても、プロを目指す素人の作品は山のようにあるんですよ? まずは、偉い人の目に止めないといけません。僕は、その手段は何でもいいと思っています」


 確かに、由多朗さんの言う通り。

 作品なんて数えきれない程ある。

 一つの賞にしてみても、送られてくる作品は大量で、自分の作品なんて埋もれてしまうだろう。


「チャンスというものは思っている程多くはありません。だから、見つけたら即掴まないといけないんです」


 不意に、由多朗さんの手が伸びてきて、アタシの手を掴んだ。

 急速に距離を縮められ、由多朗さんの顔がアタシの目の前にあった。


「だから奈津乃ちゃんは、僕を掴んでいないとダメですよ?」


 人差し指を唇に当てて笑う。

 その笑顔は、妖艶な美女のよう。

 やっぱり、企んでるじゃない。

 アタシは思い切り手を払い、身体を退いた。

 引きつった笑みを浮かべ、精一杯の嫌味を放つ。


「由多朗さんに借りを作ると、後が怖いわ」


 すると今度は、こっちが拍子抜けするほど寂しげな笑みを見せた。


「心外ですね。惚れた女の子にいいとこ見せたい男心を疑われるなんて」


 本気で言っているようで、アタシはわけがわからなくなる。

 由多朗さんが、アタシみたいな小娘に本気になるとは思えない。

 何を考えているかわからない黒く深い瞳に射ぬかれ、アタシはつい目を逸らす。

 そして、決める。

 わからないなら、わからないままでいい。

 今やるべきなのは由多朗さんの真意を知ることじゃなくて、アタシが夢のために踏み出すこと。

 そのためのチャンスは、掴む。

 アタシに腕を掴まれ、由多朗さんは予想外だったのか目を丸くした。


「……ごめんなさい。由多朗さんの言う通り、チャンスは掴まないとダメね」


 アタシは由多朗さんの丸い瞳を覗き込み、にっこりと笑う。

 結局、アタシに実力がなければ意味はない。

 由多朗さんがいるから少しだけチャンスが得られるだけで、それを掴むには自分の力がいるんだもの。


「そうですよ。使えるものは全て使いなさい」


 目を細め、眩しそうにアタシを見つめる由多朗さんの瞳は、ハルちゃんよりも深く穏やかで、アタシは目を瞠る。

 これじゃあまるで、本当にアタシを好きみたいで、調子が狂う。


「僕が教えたお話、きちんと利用してくださいね」


「えぇ。本当にありがとう。頑張ってみるわね」


 早速、今日から話を考えないと。

 時間は多くないから、今日中に方向性だけでも決めたい。

 決意を胸に拳を握り締めていたら、大きなお皿にたくさんのうさちゃんを乗せてハルちゃんと裕理が戻ってきた。



 その日の夜から、アタシの挑戦は始まった。

 原作者探しもかねているのなら、そちらに狙いを絞ったほうがいいのかもしれない。

 アタシはさっそく由多朗さんからありったけの雑誌を借りて、読み耽った。

 全体的にファンタジー色が強く、戦いの中で芽生える恋心というものも多い。

 女性が好きそうな少年漫画といった印象を受けた。

 アタシは思いつくままに何人もキャラクターを考えてみる。

 特に主役とかは決めず、ひたすらに何人も。

 その中で、特に気に入ったキャラクターが三人いた。

 男二人の女一人。

 性悪な策略家と素直な熱血漢という対照的な男二人。

 そして、生真面目で強がりな女一人。

 三人組なら、何でも屋とかが面白いかも。

 それなら事件が起きて、三人で解決するという流れにすればいい。

 漫画としては、やりやすいと思う。

 少し安易な気もしたけれど、そこはキャラとストーリーで覆すしかない。

 どうせなら仮想世界にして、ファンタジー要素も混ぜてしまおう。

 アタシは一通りの方向性を決めると、それからは小説の世界に引き込まれるように、没頭していった。

 それからの毎日は、パソコンに向かって文章を打ち込み、時々ハルちゃんや裕理に見てもらって、感想をもらう。

 バイトの時間になれば出掛け、ハルちゃんのご飯を食べる。

 そして眠るまでパソコンと睨めっこし、睡魔に負けて倒れるように眠る。

 朝ご飯の当番はアタシだから、目を覚ますとすぐに台所へ向かい朝食の準備を始める。

 寝覚めの良さは、わりと自慢。

 毎日同じことを繰り返すように時間を過ごしていたけど、アタシにとっては充実した時間だった。

 物語が進んでいくことが、楽しい。

 キャラクターを動かし、世界をもっと広げたくなる。

 あまりにも夢中になりすぎて、一週間くらいして、夜パソコンと向かい合っていたアタシに、ハルちゃんが背中から抱きついてきた。


「ハルちゃん?」


「……最近、奈津乃がずっとパソコンばっかで淋しい」


 照れ屋なくせに、言葉は素直なハルちゃん。

 首に回された腕はアタシから離れないように、強くしがみついていた。

 確かに、最近はずっと小説ばかりでハルちゃんといちゃいちゃしてない。


「折角泊まってるのに、全然いちゃいちゃできなくてごめんね」


 キーボードを打つ手を止めて、そっとハルちゃんの腕に触れた。


「いちゃいちゃって……! 私は、そういうことがしたかったんじゃなくて……」


 画面に反射したハルちゃんの顔が真っ赤になり、俯いてしまう。

 未だに、ハルちゃんの照れるタイミングがよく掴めない。

 でも、照れてるハルちゃんはすごく可愛い。

 すごく、好き。

 アタシはハルちゃんの腕に軽くキスをする。

 心地よくクーラーが効いた部屋で、タンクトップから伸びる健康的な細腕。

 軽く触れるだけに留めて、形をなぞるようにアタシは指先を肘から脇へと滑らせる。

 くすぐったさに身を捩り、ハルちゃんが腕の力を緩める。

 猫のように身体をしならせ、アタシは器用に身体の向きを変えて、ハルちゃんと向かい合わせになった。

 真っ直ぐにアタシを見つめ返すその瞳は優しさに満ちていた。

 そっと、手を伸ばす。

 ハルちゃんの頬を、両手で包んだ。

 そして、そこにハルちゃんがいることを確かめるように、顔のパーツをなぞっていく。

 ハルちゃんは、そっと目を閉じた。

 親指で触れる目蓋は柔らかく、この指の先に眼球があると思うと不思議な気分だった。

 親指の力を少し強めて眼球を押すと、ハルちゃんの肩がびくりと震えた。

 怖いよね、目を触られたら。

 だけどハルちゃんは何も言わずにアタシに全てを預けてくれている。


「このままハルちゃんの目を潰して、誰も見れなくなればいいのに」


 そんな冗談を口にすれば、ハルちゃんは困ったように首を振る。


「それじゃあ奈津乃の顔も見えないよ。それは、嫌だな」


「……そっか」


 アタシは目蓋から頬をなぞり、唇に触れる。

 親指で唇を押すと、薄く開く口が色っぽい。

 まだハルちゃんは目を閉じたままだから、卑猥な戯れのようで息を呑む。


「ハルちゃんって、綺麗」


「そんなこと言ってくれるのは奈津乃だけだよ」


 アタシは両手をハルちゃんの身体に回し、抱きつきながら口付けを交わした。

 触れ合う唇が、そこにいると教えてくれる。

 互いの想いを伝え合うような言葉は、必要なかった。

 深く甘い口付けが、アタシにハルちゃんの想いを教えてくれる。


「奈津乃、応援してる」


 唇が離れたと同時に呟かれた言葉に、アタシは強く頷いてみせた。



 ハルちゃんが午前中バイトの日、アタシはハルちゃんの帰りを待ちながら、忙しなく台所を動き回る。

 下準備はしっかりしてるんだけど、アタシあんまり要領よくないみたいで、料理の最中は落ち着きがない。

 料理って煮ている間に別の料理作ったり、洗い物したりと同時進行で物事を進めていくじゃない。

 アタシ、そういうの苦手みたい。

 それ以外は結構要領いいんだけどな。


「あたためスタート、と」


 スタート、を押し指を弾ませ、アタシは軽い足取りで火にかけたお鍋を覗く。

 今日のお昼はざるうどん。

 ぐつぐつと沸騰した鍋の中に、うどんを投入。

 そろそろハルちゃんも帰ってくるはず。

 アタシは涼しげなガラスの容器を二つ棚から取り出して、めんつゆを手に取った。

 が、あっさり持ち上がる紙パック。

 軽く振ってみると、すぐにそれが空っぽだとわかった。


「裕理にわけてもーらおっ」


 こういうとき、お隣さんって便利ね。

 それを考えた途端に、腹立たしい程に裕理が羨ましくなる。

 うどんが湯であがるのを待ち、ざるに移し冷水にさらす。

 そこまで終わらせ、アタシは火の元の確認をして裕理の部屋にむかった。

 アタシはサンダルに足を入れ、弾むような小走りで裕理の部屋の前まで来ると、扉をノックする。


「ゆーりぃー? いるんでしょー?」


 二回のノック、返事はなし。

 アタシのこと無視するつもり?

 いい度胸じゃない。アタシは力を強めて何度かノックする。


「裕理ー、めんつゆ分けてー」


 手を止めて耳をドアに押し当てたけど、返事はなし。

 ……え、なにこれ。

 本気で居留守使う気?

 裕理、今日は朝から動画の生放送見るって言ってたじゃない。


「裕理、裕理ー?」


「……奈津乃? どした?」


「……! ハルちゃん」


 裕理の部屋をノックしてる間にハルちゃんが帰ってきちゃった。

 階段を登りきり、少し息を切らせたハルちゃんは、僅かに首を傾ける。


「めんつゆ切れてたから分けてもらおうと思ったんだけど」


 出てこなくて。

 そう続けるとハルちゃんは眉をしかめ、早足にこちらへやってくる。

 バイトの疲れも、暑さによる体力の消耗もものともせず、ハルちゃんは力強く扉を叩く。


「ユーリ! ユーリっ! いるのか?」


 やっぱり、返事はない。

 ハルちゃんは険しい顔でドアノブに触れる。

 がちゃり、と動いた。

 それからのハルちゃんの動きは、アタシが圧倒される程に速かった。


「ユーリ!」


 鍵が開いていると知った瞬間、ハルちゃんは必要以上にドアを開け靴を脱ぎ捨て走りだした。

 お気に入りのスニーカーが、バラバラに玄関に落ちる。

 いつも、きちんと揃えているのに。

 アタシが動けずに呆然としていると、悲鳴のような声が耳を切り裂いた。


「ユーリっ! ユーリ、起きて!」


 アタシは我に返り、靴を脱いで駆け足でハルちゃんが消えていった方へと向かう。

 そこでアタシは、再び固まってしまう。

 ユーリが倒れていた。

 でも、アタシの動きを奪ったのはそっちじゃない。

 ハルちゃん、が。

 倒れたユーリの身体を抱いて必死で名を呼ぶハルちゃんが、いた。

 青ざめた顔で、今にも泣きそうになりながら、ひたすらに裕理を呼ぶ。

 悲鳴にも似た叫び。


「ユーリ? やだ……なんで……」


 いまにも崩れてしまいそうなハルちゃん。

 こんなに動揺する姿、初めて見た。

 芯が強くて、しっかり者で、可愛いところもたくさんあって。

 だけど、こんなハルちゃんは知らない。

 こんな、女の子みたいなハルちゃんは、アタシ、知らない。

 ユーリの息は荒い。

 吐息の中に、音が交じりだす。


「は、るお?」


「ユーリ! 大丈夫? どうして……」


「なんか……くらくらする……」


 アタシは弾かれたように台所に向かうと、コップを手に取り水を注いだ。

 急いで戻るとハルちゃんの手にコップを押しつけて立ち上がった。

 アタシを見上げるハルちゃんの目は、不安に揺れて今にも涙が零れそうだった。

 ハルちゃんが動揺してる今、アタシが動かないと。


「もしかしたら、熱中症かも」


「え……」


「由多朗さん、免許持ってたわよね? 呼んでくる。車出してもらおう。ハルちゃんは、水飲ませておいて」


 早口でまくしたて、アタシは急いで由多朗さんの部屋へと駆けた。

 あんなハルちゃん見たことない。

 ……参ったなぁ。

 やっぱり、アタシは裕理にはかなわない。

 それを思い知って、目頭が熱くなる。

 でも今は、そんなことどうでもいい。

 ハルちゃんを泣かせたくない。

 ただ、それだけ。



 由多朗さんに事情を説明し車を出してもらった。

 診察してもらうとやっぱり熱中症で、一日入院ということだった。


「私、残るよ」


 そう言うと思った。

 意識を戻し、顔色がましになった裕理はいらないと言ったけど、ハルちゃんは頑なに残ると主張する。

 今になっては、ハルちゃんのほうが顔色が悪いくらいだった。

 裕理はちらりとアタシに目配せをする。

 なんとかしてくれ、という意図のなかに、申し訳ないという気持ちが交じっていたことに気付けないアタシじゃない。

 ハルちゃんが裕理を大切な気持ちはわかる。

 だけど、ハルちゃんはアタシの恋人なんだよ。

 他の奴のために必死になる姿なんて、見たくないよ。

 ハルちゃんの純粋さは、時にひどく残酷だ。

 ねぇ、ハルちゃん。

 ハルちゃんの一番大切って、誰?


「……ハルちゃんは裕理に付いててあげて。アタシと由多朗さんで今日の着替え取ってきてあげるから」


「お前っ……」


「ほーら、病人は安静に!」


 何かを言おうとした裕理の口を塞ぐように、布団を手に覆いかぶさった。


「……裕理のために気が動転したハルちゃんを見て、アタシが嫉妬しないとでも思ってんの?」


 ぐちゃぐちゃと煮えたぎった今のアタシがハルちゃんの傍にいるなんて、無理。

 耳元で囁くと、裕理は唇を噛んでアタシから目を逸らした。



 一旦裕理の部屋に戻り、着替えを取って、病院に帰る。

 そして今、アタシは由多朗さんの運転する車の助手席でぼんやりと流れる景色に目を向けていた、

 車内には、ゆったりとした洋楽が流れている。

 見た目は気にしないくせに、センスいいじゃない。


「……お疲れさまです」


「本当」


 今回ばかりは由多朗さんもアタシをからかうことができない。

 それ程までに、アタシは意気消沈していた。


「……小説の方はどうです?」


「うん、順調。キャラも設定も決まったから、もう結構書いたわ」


「楽しみですね。僕には見せてくれませんか?」


「完成するまでは駄目。由多朗さんアドバイスくれそうだもん」


 さすがに、そこまではフェアじゃない気がする。

 出来上がったら見てもらいたいけど、途中の今は自力で頑張りたい。


「いいですね。そういうところが素敵です」


「……ねぇ」


 アタシは、窓に頭をくっつける。

 小刻みな振動が脳を揺さぶり、地味に痛い。


「……アタシのこと好きって、本気?」


 由多朗さんがゆっくりとブレーキを踏み込む。

 目の前の赤信号が、ぎらぎらと光っていた。


「本気ですよ」


 エンジン音が響く車内、揺れる。


「このまま、さらってしまいましょうか?」


 アクセルが踏み込まれる、動きだす車、下から突き上げられるような衝撃。


「ばかみたい……」


 アタシは靴のままシートの上に足を乗せ、膝を抱えた。

 膝小僧の上に額を当てて、目を閉じる。

 誰にでもない。

 自分に呟く。


「最初からわかっていたのにね」


 ハルちゃんが裕理を大切に思っていることも、裕理がハルちゃんを好きなことも。

 そしてきっと、ハルちゃんも心のどこかで裕理を好き。

 そんなの、わかっていたのに。


「いつもかっこよくいようとするくせに、こんなときに女の子らしさ見せるなんて狡い」


 アタシには、格好付けるじゃない。

 男みたいに振る舞おうとするじゃない。

 なのにハルちゃんは、裕理の前では女の子になる。

 アタシじゃ、駄目?

 格好付けなくていいよ。

 もっと弱くてもいいよ。

 アタシの前で、「男の子みたいな春緒」にならなくていいんだよ。


「慰めろ、と言ってるんですか?」


「……」


 不機嫌な声に、アタシは強く額を膝小僧に押しつけた。

 優しい言葉を欲してる。

 アタシは、由多朗さんからの好意を利用し、自分を救おうとしている。

 本当にひどい性格してるわ。


「誰でもいいから……」


 喉から声を絞りだす。

 ひどい言葉を躊躇いもなく吐き出した。

 お願い、由多朗さん。

 あの独特の正論でアタシを叱って。

 ひどい奴だと、傷つけて。

 由多朗さんは魔法使いのようにアタシの考えを察してしまう。

 だからきっと、叱られたがっているのも気付いたはず。

 由多朗さんは黙ってハンドルを切る。

 緩やかな重力でこつんと頭がガラスにぶつかった。

 この間は、由多朗さんの優しさ。

 どんな言葉を掛ければいいのかアタシのために、考えてくれている。

 例え厳しい言葉が返ってきても、それがこの人なりの優しさ。

 それに気付けるほどに、アタシは由多朗さんに甘えていた。


「……慰めてあげません」


 明らかにむっとした声。

 アタシはゆっくりと顔を上げると、由多朗さんの横顔を盗み見る。

 基本的に無表情な由多朗さんの、はっきりと苛立ちがわかる表情に、アタシは胸が痛んだ。


「誰でもいいなら、僕は嫌です。……でも、僕に慰められたいと言ってくれるなら、全力で甘やかしてあげますよ」


 一瞬だけアタシに視線を投げ掛け、緩く微笑んだ。

 もっと素直に泣き付けと、挑発してる。

 そんなこと言われたら、アタシはこう言うしかないじゃない。


「……叱ってよ……」


 こんな心の内側を晒すような真似、したくないから強がってみたのに。

 全部ばれてしまう。


「情けないって……しゃんとしろって叱ってよ! ひどい女だって怒ってよ! アタシ、由多朗さんのこと利用してばっかりで、何にも返さない……」


 人の好意に甘えっぱなし。

 ハルちゃんも、裕理も、それに由多朗さんも。

 みんなみんな優しいから、アタシはそれを利用して。

 自分にとって心地いい空間を必死に守り続けた。

 みんなより、アタシ。

 アタシを優先してきた。


「ごめん、なさいっ……」


 アタシの周りのみんなへ。

 振り回して、利用して。

 最近、少しずつわかってきたの。

 アタシ、ハルちゃんを好きだって気持ちの中に別の感情が交じっていた。

 初めてのキスをするような慎重さで、由多朗さんは車を道路脇に止めた。

 ハンドルから離れた手が、真っ直ぐにアタシに伸びてきて、抱き締められた。

 きつく締め付けられる胸、泣きそうになる。


「……叱れませんよ」


 頭から降ってきた声。

 どうして貴方も泣きそうな声なの?

 背中に回された腕の力が強まる。

 息が詰まるのは、そのせいだと思い込みたい。


「アタシ……ハルちゃんに甘えてる……依存してる……」


「それはお互い様ではないんですか?」


「違うの!」


 アタシは声を張り上げて首を振る。

 恋心の中に交じった不純物は、麻薬のようにアタシを捕らえ、駄目だとわかっていてもアタシを甘えさせた。

 ハルちゃんも、アタシの甘えを許してくれた。

 無条件で与えられる愛情が嬉しかった。

 アタシのために作ってくれたご飯が嬉しかった。

 アタシの作ったご飯を食べて喜んでくれたことが嬉しかった。

 朝起きれば「おはよう」と言って、眠る前には「おやすみ」と言う。

 出掛ける時には「行ってきます」に「行ってらっしゃい」、帰ってきたら「ただいま」と「おかえり」。

 そんな当たり前が、嬉しかった。

 だってアタシには、初めてだったから。

 当たり前のことが、初めてだったから死ぬほど嬉しかったの。

 小さい頃に求めていたものを、ハルちゃんが全部くれた。

 子供の頃から止まっていた氷のようなアタシの心を、ハルちゃんが溶かしてくれた。

 まるで、そう、私がどれだけ欲しても手の届かなかった母親のように……。


「アタシはハルちゃんに母親を重ねてた……」


 重大な罪を告白する。

 それほどの気持ちでアタシは言葉を吐き出した。

 瞳から落ちる雫。

 涙がぽろぽろと落ちていく。

 ただ、落下する。


「好きだって言いながら、アタシは結局アタシのことしか考えてなかった。アタシはハルちゃんがアタシを甘やかしてくれるから好きだったのよ!」


 仲良くなりたいと思ったのも、もしかしたら無意識のうちにハルちゃんの母性を嗅ぎとっていたからかもしれない。

 優しさに飢えた哀れな獣。

 それが、アタシ。

 アタシにはハルちゃんが必要。

 だけどきっと、優しくさえしてくれればハルちゃんでなくてもいいのかもしれない。

 今、強くハルちゃんを求める気持ちも、離れてしまえば消えるかもしれない。

 やっぱり、アタシの愛情はおかしい。間違っている。

 揺れる脳内。

 頭の中で鐘を叩いているように、不愉快な痛みが襲う。


「奈津乃ちゃん」


「ハルちゃんには裕理がいないと駄目なのよ。アタシじゃない、裕理なの。裕理がいれば大丈夫なの!」


「奈津乃ちゃん!」


 強く肩を捕まれ、揺さ振られる。

 はっとして由多朗さんを見上げると、真っ黒な瞳がアタシを見据えていた。


「一緒に、逃げましょうか」


 幸せそうに笑う由多朗さんはまるで、無邪気な子供。

 どこへと問えば、どこかへ、と答えられた。

 だからアタシは、唇を噛み締めた。


「星が、見たい……」


 変わらないでという願いは、あっけなく崩れた。

 まだ夏の大三角が見えるなら、アタシはあの日に戻れるのかな。


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