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警鐘エスケープ

 ユーリが倒れていた。

 それだけで私の頭は真っ白になった。

 もしも、もしもそのままユーリが死んでしまったら。

 想像しただけで、足が震える。

 ユーリがいない人生なんて考えられない。考えたくもない。

 私にとってのユーリという存在は、自分で思っていたよりずっと大きな存在だったらしい。

 そのことに、二十年生きてきて初めて気付かされた。

 ……気付いて、しまった。


「そろそろ面会時間終わりだから、帰りなよ」


「……うん」


 素直に頷いたものの、立ち上がることができない。

 目を離すことが怖いんだ。

 ベッドの淵に腰掛けていたユーリは、手を伸ばし私の頭を撫でる。


「軽い熱中症だって。死ぬ程じゃないし」


「……わかってるよ」


 軽く笑うユーリを見ているうちに自分でもわからない苛立ちに支配され、私は乱暴にユーリの手を払う。

 人の気も知らないで、呑気に笑いやがって。


「心配掛けるなよ……」


 俯きぽつりと呟くと、ユーリの笑い声が止まる。

 静まった部屋には、隣のお爺さんが見ているニュースから流れた明日の天気だけが響く。

 今日の夜から曇りだした空は、明日には雨を降らすらしい。

 何も言わないまま、時間が過ぎる。

 部屋を出るタイミングを逃してしまい、俯いたまま視線を動かす。

 清潔感に溢れた白が全てを覆いつくす病室は、そのまま飲み込まれて消えてしまうのではないかと怖くなる。


「……なぁ、春緒」


 広い部屋に拡散する寂しげな呟き。

 自分の名前なのに、他人の名前のように聞こえた。

 俯いていた視界に入り込むように、ユーリは私を覗き込んできた。

 目が合った瞬間に、息が詰まる。

 涙を堪えながら、一生懸命に隠そうとする笑い方だったから。

 人に優しくて自分を犠牲にしてしまうユーリらしくて、一番見たくない笑顔だった。


「俺……お前にはいつも笑っていてほしい」


「ユーリ……」


「だけどさ、そろそろ限界」


 苦笑を零し、ユーリは私の手を取る。

 宝物を扱うような丁寧な手つきで、私の右手を両手で包んだ。

 触れた手から伝わるユーリの愛情。

 今までずっと家族愛と似たものだと思っていた。

 そう、それはただ似ているだけで別物だった。

 別物だと気付けるほどに、私は愛というものを知ってしまった。


「お前の幸せ、奪いたい」


 言葉の割に、穏やかな声。

 やっぱり泣きそうな顔をしていたけど、その表情は何処か晴れ晴れとしていた。


「好きだよ、春緒。長い片思いも、もう終わりにしたい」


 それは、ユーリが私よりも自分を優先した、初めての瞬間だった。



 病院から部屋までどうやって帰ってきたか、覚えてなかった。

 頭の中には、ユーリの声だけが繰り返されていた。

 ユーリは私が、好き。

 それもずっと、長い間。

 高校の時もすでに好きだったのかな。

 そう思うと、胸が痛んだ。

 あの時、ユーリはどんな気持ちで私を助けてくれたんだろう。


「馬鹿だよ……」


 自分の気持ちを殺して、ずっとずっと私の傍にいてくれた。

 今も、私は奈津乃が好きなのに、変わらずに接してくれていた。

 どうして今まで気付けなかったんだろう。

 ユーリの優しさを、当たり前のものと思ってしまっていたんだ。

 私たちは、兄弟のようなものだったから、気付かないふりをしていたんだろう。


「……一番馬鹿なのは私だ」


 ドアノブに手を掛けたが、動かない。

 鍵が掛かっている。

 珍しい。

 奈津乃は私が出かけるときは鍵を開けたままにしているから。

 チャイムを鳴らしたけど、出てくる気配はない。

 そもそも、人の気がない。

 私の背筋に悪寒が走った。

 まさか、奈津乃まで何かあったんじゃ……。

 私は携帯を取出し、素早く奈津乃の番号を押した。

 電話帳から探すより、こっちのほうが早い。

 無機質な呼び出し音が耳元で響く。

 誰もいない廊下に一人佇むと、世界で独りぼっちになってしまったかのように錯覚してしまう。

 みんなが、消えていく。

 嫌だよ、行かないで。

 結局私は独りで生きていけるほど強い人間じゃなかった。

 誰にも迷惑を掛けずに生きていきたいと思っていた。

 独りでも生きていける強さが欲しかった。

 大学生になり、一人暮らしをし、手に入れたと思っていたのに。

 炊事洗濯が出来るようになっても、それだけのこと。

 心が幼いままだから、自分だけでは生きていけない。

 呼び出し音が途切れた瞬間、私は叫んでいた。


「奈津乃!」


『……ハルちゃん』


 沈んだ声が返ってきて、私は怖くなった。


「奈津乃、どうしたの? 大丈夫? 何かあった?」


『え、あ、うん。別に何かあったから帰ってないわけじゃないの』


 その言葉に安堵の息を吐き、同時に疑問が膨らんでいく。

 なら、何故奈津乃はいない?


『ねぇ、ハルちゃん。ハルちゃんの一番大事って誰?』


 奈津乃の言葉に、心臓が掴まれたような気がした。

 いつもならすぐに「奈津乃だよ」と答えられるのに、今日はどうしてもユーリの顔がちらついてしまう。

 私にとって一番は、誰?

 それは、私自身が一番知りたいことだった。

 即答できない私を責めるようなため息が聞こえ、私は顔を上げた。


『アタシ、今由多朗さんといるの』


 一瞬、本当に心臓が止まった。

 何で、ゆた兄と……?

 指先が震えた。

 取り落としそうになった携帯に空いていた手を重ね、押さえ付ける。


「何で、奈津乃……」


 奈津乃が離れていく。

 それが怖くて仕方がなくて、私は泣きそうな声で奈津乃を呼んだ。


『ハルちゃん、もう一度よく考えて』


 奈津乃は一呼吸の間を置き、ゆっくりと言葉を吐き出した。

 優しく吐き出された、何よりも残酷な言葉を。


『ハルちゃんの大切は、何?』


「奈津乃だよ……決まってるだろ!」


『なら』


 電話の向こうで奈津乃はくすりと笑った。


『裕理を捨てて、アタシを選べるでしょ?』


「そ……れは……」


 出来ない。

 喉まで出てきた言葉を無理矢理飲み込む。

 今までずっと傍で支えてくれた裕理を、突き放すなんて出来ない。

 その考えの愚かしさに、情けなくなる。

 都合が良すぎるんだ。

 大切なもの、全てが欲しいなんて。

 時には選択をしなければならないこともあるのに。

 臆病な私は、選べない。


『ごめんね、ハルちゃん。困らせちゃったね。……ホントはね、こんなこと聞いちゃダメってわかってたの』


 駄目だね、アタシ。

 そう呟く奈津乃の声は、ひどく寂しげでどこかすっきりとしているようだった。


『アタシたちって、お互いに群れから外れたライオンみたいだったよね』


 孤高の王。

 救難信号の出し方を知っていたのに、出すことを恐れた。

 自分の弱さを曝け出すことが怖かった、弱虫な強がり。

 確かに、私たちは似ていた。

 奈津乃が傷を抱えていたことはすぐにわかったから。

 慰め合うように触れ合って、補い合うように恋をした。

 そして、掛け替えのない存在になった。


「帰ってくるよね?」


 薄々と感付いている答え。

 外れることを祈り尋ねた。

 神様、お願い。

 私から奈津乃を奪わないで。

 恐がらないで痛みに触れた彼女を、取らないで。

 願いは虚しく、砕け散る。


『……たぶん、戻れない』


 何故、と問い詰める言葉は声にならなかった。


『アタシたち、きっとこのままだと共倒れしちゃう』


 だからね、と奈津乃は微笑んだ。

 電話越しでもわかる。

 奈津乃の話し方の癖は、耳に張りついているから。


『お願い、ハルちゃん。大切な人が誰か、もう間違えないで』


 私を見つめ、世界で一番美しいものでも眺めるように笑う彼女が目に浮かぶ。

 いつだって奈津乃の一番綺麗な笑顔は、私のために花を咲かせていた。


『大好きだったよ』


 夜空を覆う曇天から落ちる水滴の音の中を、通話の切れたことを伝える不愉快な音が貫いていた。




 唐突な別れから一週間。

 夏も中盤だった。

 あれが、別れだったのかすらよくわからない。

 奈津乃のことだから、不意にひょっこりと帰ってくるようにも思えた。

 自分の部屋のベッドに寝転び、天井を睨む。

 共倒れしちゃう。

 奈津乃の声が頭に響いた。

 私をは、奈津乃となら倒れてもいいのに。

 来客を告げるチャイムが鳴った。

 今の私には、最も幸福を呼び込む音だった。


「奈津乃!」


 飛び上がり私はろくに確認もせずに扉を開ける。

 あまりの勢いに後ろに飛び退いたその姿に、私はため息を吐いてしまう。


「露骨に残念な顔するなよ」


「残念に決まってるだろ……」


「あと、確認なしにドア開けんな。不用心」


 裕理は苦笑し、両手を上げた。

 奈津乃が消えてから毎日、裕理は私を心配して様子を見に来てくれる。

 笑顔を引っ込め真顔になると、裕理は眉をしかめた。


「奈津乃から連絡は?」


「ない。……ゆた兄といるって話だから、生活的な心配はしてないけど」


 いつの間にか部屋を引き払っていたらしく、ゆた兄もずっと姿を見せない。

 私は、二人きりというのが心配で仕方がなかった。


「……奈津乃の奴、何考えてんだか」


 吐き捨てるように呟く裕理。

 奈津乃は姿を消してすぐ、裕理に一通のメールを送っている。


『ハルちゃんをよろしくね』


 たった一文。

 それ以外には何もないと裕理は言う。

 私の心配をしてくれるなら離れるな、と怒鳴ってやりたい。

 でも今目の前に奈津乃が現れたら、きっと抱き締めてしまう。

 ユーリは思案するように空を仰ぎ、人差し指を立てた。


「俺の予想だけど、奈津乃、今小説に力入れてるんじゃないか?」


 ユーリの言葉に、私は顔を上げた。

 希望に縋るように、続きを待つ。


「奈津乃ってどこか行くなら一人で行くと思うんだ。あえてゆた兄といるっていうなら、たぶん小説関連じゃないか?」


 そうであればいい、と強く思った。

 そして、ちゃんと帰ってきてくれたら。

 希望ばかりが膨らんで、とにかく都合良く考えないと私が立っていられなかった。

 ぼんやりと奈津乃を想っていた私の肩に、大きな手が乗せられた。


「気分転換に散歩でも行こうぜ。春緒、最近ずっと家の中にいるじゃん」


 私を気遣いぎこちなく笑うユーリに頷いた。

 奈津乃のことがあってうやむやになってしまったけど、ユーリは私を好きだと言った。

 まだ私は返事を出来ていない。

 そもそも、どう返事するのかわからない。

 それでも、ユーリは変わらず私を気遣ってくれる。

 ただ、大好きだった笑顔は作り物に変わった。

 無理矢理に笑うユーリは痛々しいほどに優しい人だ。



 私たちは二人、あてもなく近所をふらふらと歩き回る。

 決して多くはない口数で、他愛ない話を繰り返す。

 様々な核心には触れない、意味のない、中身のない言葉ばかりが飛びかう。

 それじゃあ、駄目なのに。


「……ユーリ」


 いつのまにか、駅までやってきていた私たち。

 駅前は待ち合わせの人で満ちている。

 誰かを待ち、ある人はうれしそうに、ある人は腹立たし気に。

 誰もが誰かを待ち望んでいる。

 なら、私は……。

 足を止めた私を振り返り、ユーリは首を傾げ戻ってくる。


「どうした?」


「……私」


 何を言おうとしたんだろう。

 ユーリの気持ちには応えられないと?

 だって私がユーリに想う気持ちは恋じゃない。

 恋じゃない、そう。

 恋よりもずっと深く重い。


「私、わかんないよ」


「春緒……?」


「ユーリの気持ち、わかんない。私が好きなの? なら、どうして私たちが高校のとき、あんな協力的な態度だったんだよ?」


 ユーリは困ったような顔をして私を見つめていた。

 その中に微かな喜びが浮かんでいたことを、私は見逃さなかった。


「止めてほしかった?」


「違っ……そういうことじゃなくて」


 ユーリは穏やかな笑みを浮かべたまま、私から視線を外さずに言う。

 全てを包む海のように深い瞳に、目を逸らしたのは私だった。


「春緒は必ず俺のところに帰ってくるって信じてたから」


「は……?」


「誰を好きになっても、誰とキスをしても、必ず最後は俺のところに戻ってくる。……そうだよね?」


 ユーリが一歩近づく。

 それはまるで知らない男の人のようで、私は思わず一歩退いてしまう。

 伺うように視線だけでユーリを見上げると、ユーリは苦笑していた。


「だってさ、高校生のカップルなんだからたぶんどこかで別れるだろ? そうしたら、春緒は俺のところに帰ってくる。だから別に邪魔する必要はなかったんだ」


 ただ、と声を潜めユーリは眉をしかめた。


「菅ヶ原があんな奴だったのは誤算。俺は春緒が笑っていてくれたらよかったから、あんな風にされたならこっちだって許せない」


 眉間に刻んだしわを緩めると、ユーリはゆっくりと私の頬を撫でた。

 優しく、くすぐったいその手つきについ身体を捩る。

 ユーリは目を細めて、眩しそうな瞳を私に向けた。


「春緒が誰を好きかなんて、どうでもいいんだよ。俺は春緒を好き。それでいい」


 頬を撫でた指先が、髪をすくう。

 丁寧に私の髪を指先で弄び、子供のように笑ってみせる。


「俺は春緒の返事はいらない」


 髪に触れていたユーリの手が離れ、消えたぬくもりに名残を惜しむ暇も与えられず私はユーリに抱き締められていた。

 昔は同じ身長だったのに、いつのまにかこうして捕まれば逃げられなくなった。

 それが、成長なのだろうか。


「ユーリ……」


「ただ、傍にいさせてくれればいい。そうしたら俺はずっと春緒を守るよ」


 どうして、と問い掛ける言葉を飲み込んだ。

 そんなこと聞いたらいけない。

 ユーリは自分の想いを犠牲にしてまで、私の幸せを願ってくれている。

 それを証明するかのように、ユーリの腕の力が強まった。


「私は……奈津乃が……」


「わかってるよ。でもいい。今みたいに奈津乃がいないとき、隣にいてやれるのは俺だろ? そういうポジションでいい」


「本当に……それで満足なのか……?」


 もし頷くなら、私は一生ユーリを苦しめ続ける。

 だって私は、ユーリの言う通り、ユーリから離れられない。

 どこへ行っても、何と出会っても、私の隣には必ずユーリがいる。

 そのことが、どれだけ私を救うだろうか。

 そして同じだけ、ユーリの心を傷付けていく。

 ユーリの吐息が髪をくすぐる。

 熱を帯びたため息に、胸が痛む。


「……一番に望むのは、お前の隣」


「そんなの……」


「信じられない?」


 私は抱き締められたまま頷いた。

 だって、私は知ってるんだ。

 昔、ユーリが私をどう想っていたか。


「ユーリは私なんて女として見てなかっただろ」


「見てたよ、ずっと」


「嘘だ」


「嘘じゃない」


「嘘だろ!」


 私は声を荒げ、ユーリの胸を突っぱねた。

 身体を離しユーリを見上げると、怪訝そうに眉をしかめていた。

 私はやや俯いて、声を絞りだす。


「だってお前、言っただろ?」


「何を?」


「『春緒のことは女として見てない』って」


 ユーリは目を丸くし、すぐに眉間にしわを寄せ顎を撫でながら視線を彷徨わせる。

 その仕草で、心当たりがないことは明らかだった。


「いつ?」


「……小学生の……五、六年の頃」


 小学生の頃、私は確かにユーリが好きだった。

 それが恋愛か友情かは幼い想い過ぎて覚えていないけれど、ずっと一緒だったユーリを好きでないはずがなかった。

 ユーリはしばらく目を伏せていたが、急に顔をあげた。


「思い出した」


「ほら、やっぱり……」


「違うよ、春緒」


 ユーリの手が、声を荒げた私の手首を掴んだ。

 穏やかに、諭すような口調で、ユーリは軽く私を睨む。


「違う、あれは違うんだ」


「何が……」


「……俺のこと好きだって言ってくれた子に、春緒が好きなのかって聞かれたんだよ」


 ユーリはぐしゃりと顔を歪め、倒れるように頭を私の肩へと乗せた。


「……わかるだろ? そこで、そうだよ、なんて答えたら春緒に嫌がらせするかもしれないじゃん」


 女の子同士の怖さくらい、わかってたさ、とユーリは呟いた。

 私は思考が停止する。

 だって、私はあの時ショックだったんだ。

 同級生から告げられたユーリの気持ち。

 本気だと信じて、哀しくなった。

 元々男勝りの自覚があったから、やっぱり私は可愛い女の子にはなれないなと思い知らされた。

 なのに、それも私のためだったなんて。


「ごめん、春緒。俺、お前を幸せにしてやりたいって思ってるのに、全部裏目だ」


 ユーリの肩が、震える。

 私はゆっくりと、肩に触れた。

 一瞬びくりと跳ねたが、すぐに落ち着いて震えも小さくなった。

 なんでユーリが泣くんだよ。

 そんな言葉も声にならない。

 私の頬も、濡れていた。


「俺、春緒が……好きだよ。春緒が幸せなら……この気持ちは、叶わなくても、よかった。だからずっと、ずっと……」


 気持ちを殺して私の隣にいた二十年間に、私は何が出来る?

 私のために泣くこの大切な幼なじみのために、私は何をすればいい?


「ユーリは……消えないでくれ……」


「うん……」


「これからも、たくさん迷惑を掛けるだろうけどっ……」


「うん……」


 私たちには、独りで生きていける強さはない。

 だから、どうか。


「私のせいで……今まで苦しめてごめん……」


 大切は、誰?

 奈津乃の声が頭に響いた。

 大切なものは一つじゃないんだ。

 優劣なんて付けられない。

 みんな同じに大好きだ。

 でも、ごめんね、奈津乃。

 わかったよ、私の一番はユーリだった。

 好きとか嫌いとか。

 恋とか愛とか。

 男とか女とか、そんなもの全部抜きにして。

 ずっと傍にいた、傍にいるのが当たり前だった。

 今更、ユーリがいない人生なんて考えられない。

 会者定離という言葉があるけど、私とユーリの間にそれはないんだ。

 必ず別れるなんて、そんなこと有り得ない。

 同じ心臓を持って生きているような。

 同じ時計で時間を刻むような。

 ユーリは初めから、私の特別だった。

 沢山の回り道を繰り返し、ようやく私たちは互いの心臓に触れ合った。


「ありがとう……ユーリ……」


 私は丸くなったユーリの背中に手を回し、精一杯その身体を抱き締めた。

 奈津乃との出会いが、私の世界を変えた。

 奈津乃はずっと私の中の女に対するコンプレックスを取り払おうとしてくれた。

 他人を信じられなくなって、狭くなった視界を広げてくれた。

 他人を好きになる気持ちを、愛しいと思う気持ちを教えてくれた。

 今、ユーリに対して抱く愛しさも、教えてくれたのは他でもない彼女だ。

 強がる私に、手を差し伸べた。

 弱さを見せてもいいと言ってくれた。

 奈津乃といると幸せで。

 奈津乃が誰かと楽しそうにしていると、苛々して。

 そしてお互いに、依存し合って。

 共倒れと言った奈津乃の言葉の意味が、今わかった。

 私たちは依存し過ぎたんだ。

 奈津乃がいれば、それでいいと思った。

 他人なんていらない、二人でいい。

 二人きりの狭い空虚な世界に閉じこもろうとしていたんだ。

 それを壊したのも、奈津乃。

 いつもいつも、脆い私は奈津乃の強さに救われる。

 どこにいるんだよ、奈津乃。

 奈津乃の言いたいこと、わかったよ。

 だけど、私は感謝の気持ち一つ伝えられてないじゃないか。

 会いたいよ、大切な、私の……。

 しばらくして私たちは身体を離す。

 互いに真っ赤な瞳を見つめ合い、小さく吹き出した。


「帰ろう」


 私は頷いて、泣き腫らした目をこする。

 そして、歩きだした。

 私とユーリは並んで歩く。

 二人の間に開く距離は、人一人分の隙間があった。

 微妙な距離感。

 これ以上近づくのは妙に気恥ずかしく、離れるのは淋しい。

 会話らしい会話もないまま歩き続けた帰り道は、いつもよりずっと長いものに思われた。


「……あ」


 単調な歩みを崩したのはユーリ。

 急に顔を上げると、走りだした。

 私も、ユーリの向かう先を見、慌てて後に続いた。

 人込みの中に、見慣れたスウェット姿でひょろりとした男を見つける。

 それは、後ろ姿でも間違えるはずない、ゆた兄だった。


「ゆた兄!」


 ユーリは周りの視線も気にせず声を張り上げ、手を伸ばしゆた兄の腕を掴んだ。

 ユーリに追い付き、私はゆた兄を見上げる。

 少し、痩せたようだ。

 振り返ったゆた兄は私たちに気付くと、驚いた様子もなく微笑を浮かべた。


「お久しぶりですね」


「お久しぶり、じゃない! 奈津乃はどうしたんだ?」


 自然に声には力が籠もり、ゆた兄を睨み上げていた。

 ゆた兄は私に目を向け、困ったように眉を潜める。


「元気ですよ。今は応募用の小説を書きながら、いろいろ勉強中です」


 それが嘘ということはなさそうだった。

 眠たげな瞳を細め、ゆた兄は私の頭に手を伸ばす。

 そして、無造作にくしゃくしゃと撫で回した。


「私のことは忘れていいから」


「え?」


「奈津乃ちゃんからの伝言です」


「……!」


 私は息を呑んだ。

 隣でユーリも同じように絶句しているのがわかる。

 奈津乃の言葉の意味するものは、完全な別れ。

 帰ってくる気は、ないということ。

 ゆた兄は穏やかな笑顔のまま、私の頭から手を離す。

 柔らかな笑みが、私には悪魔のようにしか見えない。


「奈津乃ちゃんには才能があります。小説を書かせてみてわかりました。あの子には魅力ある話を生み出す力がある。表現するための技術を研く必要はありますが、きっと彼女は成功します」


 はっきりと紡がれていく言葉。

 奈津乃の才能に対する純粋な喜びの中に、素直に喜べない自分がいることに気付く。

 私は、臆病だから。

 変化することを怖がって、避けてばかりで。

 変わろうと頑張る奈津乃を、素直に応援し切れずにいた。

 だって、変わっていく奈津乃がいつかこうして私の前から消えること、薄々感じ取っていたから。

 いなくなるなら、変わらなくていい。

 弱いままでいい。

 いっそこの臆病な二人、身体を寄せ合って生きていこう。

 そんなことを、奈津乃に押しつけようとしていた。

 奈津乃が消えるのがもう少し遅ければ、私はそれを実行していたかもしれない。

 変わらないで、と願ってしまったかもしれない。

 奈津乃は優しいから、変わりたくないと私が言えばきっと頷いてくれただろう。その先に待っているものが破滅であっても、きっと、手を握り続けてくれたはずだ。


「奈津乃ちゃんは、春緒ちゃんを本当に好きだから、僕のところにいるんですよ」


 俯いてしまった私に降ってくる、優しい声。

 顔を上げるとゆた兄が、微かに目元を緩めていた。


「奈津乃ちゃんは春緒ちゃんに依存しています。それも、強く。今まではそれに甘えていましたが、それではいけないと気付いたんです」


「そんなの……私も同じだよ」


「そうですね。お互いに狭い視野で物を見ていましたよね」


 言われなくてもわかっていた。

 どんどん世界を狭めていたことくらい。

 ゆた兄は視線をユーリへと移し、肩を竦めた。


「裕理くんが倒れたとき、わかってしまったようです。春緒ちゃんにとっての裕理くんの存在の大きさが」


「……」


 私は返事が出来ず、ただゆた兄を見上げた。


「自分よりも裕理くんのほうが大切なんだって。だから、もう傍にはいられないって」


「そんなの……急にいなくなる理由にはならないだろ!」


 怒鳴るような声で噛み付いたユーリに、私は目を丸くする。

 どうして、ユーリが怒るのかわからなかった。


「春緒と奈津乃は女同士なんだから、友達として傍にいることも出来るじゃないか」


「それは僕も思いましたけど」


 ゆた兄は、背筋が寒くなる程に冷たい瞳をユーリへ向けた。


「忘れないでください。あの子の好きは『傍にいたい』じゃない。『貴方が欲しい』です」


 ゆた兄が、人差し指で私の鎖骨に触れた。

 まるで、俺の心の在処を問うように。

 ユーリは奥歯を噛み締め、俯いた。

 ユーリの言い分はわかる。

 私も奈津乃とは離れたくない。

 傍にいたい。

 友達として、依存しないよう気を付けて、付き合っていけたらそれも幸せだ。

 でも、奈津乃は違う。

 奈津乃はそれで満足出来ない。

 だって奈津乃は、友達ではなく恋人でいたいと思っている。

 それがわかってしまうから、私は奈津乃に「友達」という関係を求められない。


「自分では春緒ちゃんを幸せに出来ない。このまま傍にいたら、裕理くんまで傷つける。だから、夢への一本道を進むと決めたんですよ」


 お互いの弱さが招いた別れ。

 もっとちゃんと自分の弱さと向き合っていれば、私たちは離れなくていい友情を結べたのかな。


「……奈津乃は、元気?」


「夏バテもなく、健康ですよ」


「楽しそう?」


「…………そう、ですね」


 返事を躊躇った理由がどこにあるのかわからない。

 ゆた兄の優しさなのか、意地悪なのか。


「ゆた兄、私からも奈津乃に伝言」


 顔を上げると、精一杯に笑ってみせた。

 一緒にいたときよりも強く、願うよ。


「頑張れ、応援してる」


 心から伝えられなかった言葉を、今。

 なんとか笑ってみせるから。

 縛り付けていて、ごめんね。

 寂しさは胸を押し潰そうとして、油断すればゆた兄にすがり付いて奈津乃の居場所を聞き出してしまいそうだけど。

 不安定なこの両足で、自分を支えてみせるから。

 だって、それは奈津乃が私にくれた、最後で最大の愛情なんだから。


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