6.氷の蜘蛛
「――その蜘蛛って、本当に白い糸を吐くんですか……」
紫色の泡を吹く蜘蛛はビクビクと小刻みに痙攣し、今にも息絶えようとしていた。
”糸だけ採ってきます”ぐらいの意味合いで”狩ってきた”のかと思えば、蜘蛛自体を生け捕りにしてくるなど規格外過ぎる。
しかもせっかく捕まえてきたにも関わらず、くだらない理由で叩き落として瀕死に至らしめるというバルトの荒々しさに、紗希は一歩引いた心で訝し気な視線をやった。
しかし当のバルトはこちらの視線に目もくれずエギルに指示を出している。
「この蜘蛛から糸を絞れるだけ搾り取れ。そのあとは無駄なく処理しろ」
「承知しました」
「大体どれぐらいで布地は出来そうだ?」
「五分もあれば可能です。しかし霊蟲公からまた苦言が入りそうですが、いかがなさいますか?」
「言わせておけ。どうせ何もしなくともこの種は共食いして勝手に数が減ってるだろ。あの爺さんは俺に難癖つけたいだけだ」
「自分への当てつけだとも訴えていますが……」
「知るか。仮に、たかが蜘蛛一匹で騒ぐようなら、あいつを俺の前に引き摺り出してこい」
そんな物騒なやり取りを聞いて、紗希は”処理”という言葉に妙な居心地の悪さを覚える。
「まさか糸を採り終えたら殺すつもりですか?」
真偽を確かめるべく問うと、バルトの代わりにエギルが答えた。
「はい。治癒魔法をかけながら生かさず殺さず糸を取り出したあと、剛鉄の外装や目玉など素材として利用出来るところは回収したのち処分いたします。それがどうかされましたか?」
なんてことのない、家畜の処理と変わらない行為であるような説明だった。
しかしこの蜘蛛がこれから死ぬ理由はドレスのため。これらが紗希には食肉としての殺生とは似て非なる行為に思え、直ぐに納得出来る感じがしなかった。
それもこれも、幼少期に事故で亡くなった母の姿が過ったからだろう。
綺麗な部分だけ取り出され、消費尽くされたあとは残った不要と捨てられる。どこか重なる。
――あぁ、なるほど。
居心地の悪さの正体が分かり、紗希は呼吸を一つ置くとバルトへ向かって言った。
「――バルトさん。折角捕まえてきてもらったのに申し訳ないんですが、やっぱり白いドレスは要りません」
嫌な思い出が蘇り、それをかき消すために口にしていた。
「なぜですか?」
ようやくエギルから視線が外れ、バルトは困惑を露わに紫水晶の瞳を揺らし紗希を見つめる。
「……余剰品を作るために消費するのは苦手なんです。殺すなんてとても……」
紗希の母は美しく優しい人だったが、父はろくでなしだった。子供が出来ると途端に母に見向きもしなくなり、離婚して若い女性と同棲を始めたという。
養育費だけは払われたが、父は一度も紗希に会いたいとは言わなかった。
父は愛でなく、ただ自分を飾るものが欲しかっただけ。だからきっと紗希を捨てたのだ。
蜘蛛と母、一見なんの関係もないようだが、しかし”装飾品”という括りにおいて過剰に反応してしまっていた。
その使い捨ての飾りは一体なにを齎してくれるのだろう。
「聖女様。これは聖女様を美しく飾るための有意義な使い道です。それに考えてみてください。食べ物と同じじゃないですか。野菜なら皮を剥く、肉なら殺生し毛皮を剥いで内臓を摂る。なんら変わりありませんよ」
バルトは困ったように薄い笑みを浮かべると眉尻を下げた。それから紗希の肩に触れ、諭すように告げた。
彼の言っていることは分かっている。
この非科学的なファンタジー世界において、紗希自身生ぬるいことを言っていることならちゃんと分かっている。
現代ではイミテーション生温さに許されて、それに慣れきっていたが、しかし殺すなとは言ってない。
むやみやたらか否か、紗希にとっての論点はそこなのだ。
「生きるために奪う命と、飾り立てるために消費される命は同じように扱えないんです……私にとっては蜘蛛を殺して作るドレスは分不相応なので、服を返してもらえればそれでいいです」
しかしバルトは緩慢としてうなじを掻くと、吐息を零してから笑みを消した。
「聖女様は慈悲深いお方ですね。しかし心を痛める必要はありませんよ」
それから指を伸ばして有無を言わさず紗希の顎先を掴むと、瞳をじっと覗き込む。
身体は強張り、指先の一つ動かすことすら危険だと本能が感じとっていた。
――おそらく分かってもらえていない。
バルトの怪訝な瞳が物語っている。
「俺にとってドレスは余剰品などではありません。それに……ここでは全てにおいて、何かの命と引き換えに手に入れるのが当然です。弱肉強食なんですよ。生きるも死ぬも自己責任。その摂理に躊躇していては貪られるだけの存在になりますよ」
言葉と共に唇が迫り、指先ひとつの距離で紗希は掠れた声を漏らした。
「っ……どういう意味ですか……」
「俺の行動は全て愛ゆえですので、どうしても止めたければ食い返すぐらいの気構えでいてもらわねば、と」
意味深なことを言われ、紗希は眉根を寄せた。
「分かりますか?聖女様。どうしても些末なことに心を砕きたいというのなら、もっと俺をよく見て上手く強請ってください。でないとほら」
バルトは蜘蛛へと手を翳した。
瞬間、霜が降りたように氷の膜が蜘蛛を包み込む。
そして亀裂がみしみしと音を立てると割れて、その場に握り拳程度の氷の塊がいくつも転がった。
「そんな……」
あっけなく氷の蜘蛛が無惨に割れ、言葉を失い唇を震わせた。
「蜘蛛はまた狩ってくるのでご安心を。ドレスは白でひと通り揃えましょう」
「さすがに、酷すぎます……」
見せしめだ。脅しのような行為に居た堪れず力のない声が溢れた。それは意図せず感情をそのまま剥き出しに吐き出すものとなり、紗希の瞳には失望の色が帯びていた。
そんな紗希の顔を見ると、バルトは我に返ったように息を詰めた。
「……失礼。少し席を外します」
そして視線を逸らし、出て行ってしまった。
後に残ったのは、紗希と氷の破片と無言のエギル。
そこにはまったく交差せぬ二つの価値観が気不味い空気に沈んでいる。
悪辣勇者。そんな肩書きは字面で読むだけなら現実味がなく直視出来た。
しかしフィルターのない生身の彼の感情の前には倫理という壁が立ちはだかった。その奥には、とても複雑で、荒々しく、のたうち回るような愛情表現が痛々しく存在しているというのに。
この世界で、あの勇者を結末に導くなど自分に出来るのだろうか。
大それたことを約束してしまったように思え、紗希は気が遠くなる。
出だしからこんな事で大丈夫だろうか。
――――バルトの姿が消えた部屋で、紗希は氷の蜘蛛へ憐憫の眼差しを向け見下ろした。長い脚は氷柱のようで、それらから白い上気が上に伸びてゆらゆらと空気に溶けてゆく。
今はバルトのことを考えることができず、ふと、膝を折り屈み込んだ。
「あつっ……」
指先を伸ばし蜘蛛に触れてみると思いの外、鋭い痛みが走る。
まるでドライアイス。氷の蜘蛛はそれほどに冷たかった。
「――エギルさん。これってもう死んでいるんですか……?」
「いえ。水属性の魔法が得意なバルト様のことですので芯から凍らせていると思います。ですので、厳密にはまだ死んでいません」
氷漬けにされているが、生きているのか。
紗希は反射的に瞬間冷凍を想像した。まだ細胞も砕けたことを認識していないというレベルなら希望がある。
「くっつけたら元に戻るということでしょうか?」
自分を慰めるための口実のような、根拠のない安直な事を口にしていた。このまま何もアクションを起こさず放置する事などできなかったのだ。
「溶けたら死ぬということです。ただ組み立てたところで意味はありません。かたちを作り、一気に溶かすと同時に治癒魔法をかければ……運がよければ可能といったところですね。時間が経つと成功率は下がります」
エギルの説明になるほどと独言る。
成形、解凍、治癒。工程に複雑さは見られない。とにかく時間が成功を左右するということか。
紗希は砕けた氷の破片を見ては、一瞬の躊躇してを眉根に刻んだあとエギルに問う。
「確かエギルさんの種族はサラマンダーとも言われてましたよね?溶かすことって出来たりしますか?」
紗希の視線はエギルの燃える尻尾に視線は落ちていた。
バルトとの会話から察するに彼女はサキュバスとサラマンダーの血を引く。とはいえ現代ファンタジーのイメージがこの世界で通用するのかは分からないけれども。
「可能です」
エギルは頷き短く答えた。
なら、やるしかないだろう。
「もし完成出来たら、解凍と治癒魔法をお願いしていいですか?」
氷の蜘蛛を立体パズルのように組み立てる。
しかも形状なんて正直はっきりと覚えていない。けれど紗希にとってそれはやらない理由にはならなかった。
大人気ないことを言ってしまったあとは、特に。
幸いにも氷の塊はある程度大きさを保って転がっていたので運が良ければ組み立てられるだろう。
紗希は散らばった氷塊を手に取った。指先の皮膚が持っていかれぬよう持つのはなるべく短い時間で、考えて決めてから移動する。
「なぜこんな事をなさるのでしょう?」
背後でエギルに問われた。
「当てつけと、自分の正当化です……」
傍目から見ればただの当てつけのような悪足掻き。
意地を張って正当化しているだけの行為。
実際、それが原動力でもあるのだが……――――
「あとは勢いで極端なことを言ったなと、そこは反省したので……」
ドレスは要らないと言う前に確認すべきことがあったのに、すっ飛ばしてしまったことに対する罰の悪さがあった。
間に挟むべきものを、嫌な記憶が蘇り過敏になって蔑ろにしてしまった。
間を埋めるのは間しかない。
多分、これはそのための行為なのだ。
完成してもしなくても、過程を踏んだとちゃんと証明するために。
だって、子供じゃないのだ。
価値観が違ったからといって、このままバルトとの間に気不味い空気を持ちたくない。
歩み寄る姿勢だけは、ちゃんとしておこう。
冷静になるとそんな風に思えた。
「――これは一応、それっぽくなった……?」
「さすが聖女様です。人族は忍耐力があるのですね。魔族ならこんな事は誰もしようと思いません」
エギルから理解不能といった眼差しを受けながらも、なんとか組み立てる事は出来た。
今や紗希の手は感覚が殆どない。
例えるならグローブでも嵌めているかのような、痛いのか熱いのか感じ取れないほど分厚い何かに遮られているような状態になっていた。
「いえ……今回は頑張っただけです。いかがでしょう?試す価値ありますか、これ」
平面パズルですら何年ぶりかといったところに立体パズルをして、げっそりとした口調で問えば、エギルは神妙に頷いた。
「しかし生き返らせはしましたが、この蜘蛛をどうするのですか?今から五層に返品しますか?」
あれからエギルは直ぐに解凍と治癒を施し、氷漬けの蜘蛛はなんとか息を吹き返した。
今はごつごつとした長い脚をエギルに捕まれ、蜘蛛は引き摺られている。その蜘蛛の乱雑な扱いはどこかバルトに通ずるものがある。
「えっと。先に教えて欲しいんですけど、さっきは糸を採ったら殺すという話でしたよね。殺さずに採取って出来ますか?必要な量をもらえたら迷宮に帰すのが私の理想です」
バルトと話した時にすっ飛ばしてしまったことを問うと、エギルは幾許かの間を置いて頷いた。
「再利用出来るように、採取後は見逃すという事ですね。結論から申し上げますと可能です。魔王様には処理するよう言われましたが……聖女様のご意志に背くなとも言い含められておりましたので問題ないかと。むしろ五層の管理者が喜びそうです。手間ですがやってみましょう」
エギルの回答に紗希はほっと胸を撫で下ろした。
なんだ、初めからこうしていれば良かったのだ。
「ありがとうございます。では採れた糸で白いドレスをお願いします」
気が抜けて、情けなくもなって、紗希は眉尻を下げながら吐息を溢す。
「はい。後のことはお任せを……お疲れ様でした、聖女様。手を治療しますのでお貸しください」
それからエギルは凍傷になりかけていた紗希の手に治癒魔法をかけると、衣装室に移動して黒地のドレスの時以上の驚異的な早さで何着かのドレスを仕上げてきてくれた。
そのうちの勧められたものに若干の羞恥を感じながら紗希は袖を通した。
要望は聞き届けてもらえてたようで露出は控えめ、マーメイドラインの聖職者のようなデザインだが見方を変えればウエディングドレスとも取れないこともない。
鏡の前に立つとエギルは抑揚のない声の代わりに、瞳の奥を燃やして言った。
「お美しいです。聖女様」
「……ありがとうございます」
やはり若干のコスプレ感が否めないが、世界観が変わればきっと目に馴染んでいく事だろう。そう願いたい。
紗希の足元では糸を提供してくれた鋼鉄の蜘蛛がおずおずと顔を出している。
最初に見た時は、その大きさに驚いたが、既に氷漬け姿を立体パズルした仲なのでモンスターといえど悍ましさはさほど無い。
採取を終えたあとの蜘蛛は特に危害を加えてくる様子もなく、エギルからは「聖女様に恩を感じているようです」とまで言われた。
――こちらの都合に巻き込まれただけなので、恩義など感じる必要はないのに。
しかし、その蜘蛛はどうやら懐いてくれたらしい。
柄にもなく複雑な表情が鏡に映り、紗希はため息を溢してからいつもの顔に切り替えた。
あとはバルトだ。
「エギルさん、バルトさんの居場所は分かりますか?」
「はい。こちらに向かって物凄い勢いで……いま到着されたようです」
衣装部屋を出ると、ちょうど会いたいと思っていた姿がそこにはあった。
土でもついているのか、バルトの顔は少し顔が汚れている。
「聖女様……そのお姿はっ……」
バルトは唖然として目を見開いていた。
驚くのも無理ないだろう。さっきまで白いドレスなど要らないと言った女が、その色を身につけているのだから。
バルトの透き通る銀髪よりも更に光を吸い込む真っ白な輝かしいドレス。結婚するつもりのなかった紗希にとって縁のない衣装を、想像とは違ったかたちで身に着けていた。
とはいえ、これは単純に紗希なりの歩み寄りのサイン。
自分だけが間違っているとは言いたくないが、バルトの”聖女は白”という強い概念に対するアンサーでもある。その証拠に傍らにはデカい蜘蛛が一匹。むしろ一体と数えるべきか。
「さすが至高のお方だ。なんて尊い……俺を見捨てないだけの慈悲深さに溢れている」
バルトは感嘆として紡いだ。
大袈裟過ぎて誰か別の人の事を言っているように聞こえるが、先ほどの危うい雰囲気が霧散していて今はむしろ安堵する。
「さっきはすみません。いきなり、”要らない”なんて極端なこと言って」
紗希は自分の言葉足らずについて、背筋を伸ばしたあと気まずさを打ち消すように整然と告げた。それからバルトの瞳に視線を重ね訊ねる。
「この蜘蛛、元気そうなので五層に帰していいですよね」
紗希の足元の蜘蛛は怯えた様子で背後に隠れる。実際には隠れきれてないのだが、バルトを前に委縮しているのは明らかだった。
「……聖女様の望みなら」
バルトは難しいで逡巡したのち、くしゃりと破顔させて純粋な笑みを見せた。紗希はほっとして背後の蜘蛛に視線をやった。
それから紗希の前に歩み寄ると片膝をつき胸元から何かを取り出す。
「これは俺からのお詫びの品です。バイオレットダイヤモンドを……鉱石ならあなたも心が痛まないかと」
バルトの手の中には紫に輝く小さな石があった。まだ研磨されていない、天然物である。
「もしかして今採掘に……?」
「はい。……傷つけてしまったようなので」
「……なんだか、バルトさんって……」
「はい」
突然出て行ってしまって何をしていたかと思えば、どうやら本当にこの人の頭の中には“聖女様“のことしかないらしい。
まぁその聖女は読者である自分であるはずがないので、心を割く相手を間違っているのだが。
しかし今だけはそれを敢えて言う必要もないかと思うほどに、強張っていた気持ちが解れた紗希は喜色滲ませ首を振った。
「――いえ、やっぱりなんでもないです。私のためにありがとうございます」
「加工したら身に着けていただけますか?」
「はい」
先ほどと打って変わって殊勝な態度を見せる変わり身の速さに、恐ろしさが全くないわけではないが、仕方のない人だと頷いた。
これも含めて七年の最後が生み出したバルトなのかもしれない。
小説は更新されていなかったけれど、この世界で彼の人格だけは更新された。
それから紗希の了承の意を受け取ったバルトは瞳を溶かしうっとりと告げる。
「婚約指輪として立派なものを仕上げさせますね」
「はい?」
「せっかくだから守護の魔法も付与しておこう。攻撃魔法もあった方がいいな……聖女様に男が触れた場合に雷槍が降るようにしよう」
「……重くしないでください!!!」
撤回しなければならない。
仕方のない人ではない。
少しバルトを分かった気になりかけた自分を紗希は心底恥ずかしむと声を上げた。
やはりこの人を理解するのは難しすぎる。




