2.聖女?いいえ、読者です。
紗希は思わず声に出していた。
「……勇者、バルトレッド……?」
「はい、あなたのバルトレッドです。聖女様」
あり得ない。
けれども『バルトレッド』『転生を自称するクソ女』『魔王討伐』、これらから連想されるのは紗希が更新チェックしているあの作品だった。
エタってしまったWEB小説『王太子と異世界女に二度裏切られた私は、悪辣勇者に溺愛される』のヒーロー、悪辣勇者バルトレッド。
平民出で姓はなし。
冷徹無慈悲で悪辣な勇者。
彼の生い立ちは過酷で、作中ではヒール役の転生者ーー通称、“花雫の乙女”と呼ばれる令嬢ミレーヌの幼馴染で、彼女から執着ともいえる愛を向けられ人生を振り回された人間。
年齢はたしか二十代後半だったような。
小説のバルトレッドは、ミレーヌに『ここが乙女ゲームの世界』であるのだと幼少期から打ち明けられており、それに付随する悲劇が重なって次第に彼女に憎悪を抱くようになる。
そしてミレーヌを“転生クソ女”と呼ぶのだ。
なかなかの強烈ワードである。
そう呼ぶに至る原因は、転生者ミレーヌの行動によって故郷が滅亡したことが最たるものだったはず。
そのため最上位の精霊の加護を持つ”花雫の乙女“を冠されたミレーヌを心底毛嫌いしており、一矢報いる機会を虎視眈々と狙っているのだ。
紗希の知っているバルトレッドは心を閉ざし悪を持って悪を制す、そんな悪辣勇者なのだ。
そして重要なのが、そんな彼が愛を囁くまでに心を溶かした相手というのが、小説のヒロインーーセレスティーナ侯爵令嬢。
なので間違っても彼は“紗希のもの”ではない。
そんな設定はないのだ。
そもそも紗希が読んでいた最新話までに聖女という役職自体が出てこない。
しかし自称バルトレッドは満足そうに頬を緩め、紗希を聖女と呼んで蕩けた瞳を向ける。
「ぜひバルトとお呼びください。心待ちにしていました、愛しの聖女様」
きっと何かの間違いだろう。
紗希が待っていたのは小説の更新で、自称バルトレッドに抱き上げられる事ではない。
試しに身を捩ったものの筋肉質な腕は想像以上に硬く、鍵がかかっているのではと思うほど。
抜け出すことは容易ではなさそうだ。
実際、出来たとしても落ちる事が目に見えているため現実的でもないのだが。
それでも物は試しと実践するぐらいには今のところ混乱していた。
「これから魔王城を案内しますね。陥落した時のままで足場の悪いところが多々ありますが、慣れたら住み良いはずですよ」
ーー魔王城?今、彼はそう言ったのか。
「や、ちょっと。ちょっとだけ待ってください!」
「どうかされました?」
どうかされたも何も情報過多では……。
何から問うべきか困惑していると、あろうことか隙を狙って黒髪に唇が迫ってくる。
今度はすかさず片手で塞ぎ押し返したが、ふふっと笑われたので、やはり自称バルトレッドは新手の詐欺師なのかもしれない。
「……ここはどこですか?」
「人族のアデル王国から北の、不毛地帯にある魔王城です」
今度こそ紗希の思考は止まった。
なぜ魔王城?余計な情報が追加され頭の整理が追いつかない。
「そうか、まだ信じられないか……なら花雫の乙女という言葉に聞き覚えは?きっと聖女様ならよく知っているはずですよ」
バルトレッドは柔らかく笑む。
やはり、あり得ない。
仮に百歩譲って、これが本当に異世界ファンタジーでよくある召喚や転移だったとして……一番腑に落ちないのがバルトレッドご本人なのだから。
ーーーー目の前の彼、バルトレッドとはどんな男か。彼を一言で表するなら、タイトルにも飾られた通り”悪辣“だ。
作中では勇者なのに冷徹無慈悲の悪辣男と評され人々から恐れられている。
しかし目の前の彼はどうだろう。
悪辣というより、変質者と呼ぶ方がまだしっくりくる程度に様子がおかしい。
そもそも『王太子と異世界女に二度裏切られた私は、悪辣勇者に溺愛される』とは、主人公の侯爵令嬢セレスティーナが、転生者のミレーヌと婚約者だった王太子の二度目の浮気が発覚してパーティーで婚約破棄されるところから始まるロマンスファンタジーだ。
プロローグでは二人の裏切りに憤ったセレスティーナを“ある理由”からバルトレッドが気に入って契約婚を申し出る。
その際にバルトレッドはアデル王国と決別し、水牢獄と呼ばれる激流で作られた結界に王太子とミレーヌを閉じ込め『その中で頭を冷やすといい』などと、反逆罪も報復も恐れぬ発言を残しセレスティーナを連れ去ってゆく。
そしてこのプロローグ以降、原作はセレスティーナ達の幼少期に遡るのだが……冒頭シーンに戻ってくるまでの過去編が濃密すぎて、やっとプロローグの時系列に追いついたと思ったところで小説はエタってしまっている。
それでもバルトレッドの悪辣ぶりは、彼の人格形成に箔をつけるほど過去編でしっかり描かれていた。
故に紗希はバルトレッドに違和感を覚えるのだ。
タイトルに”溺愛“という言葉が入っているぐらいなので、きっと素質は持っているのだろうが、少なくとも初対面の相手に跪き愛を捧ぐような人間ではない。
「花雫の乙女は聞き覚えありますけど、やっぱり何かの間違いじゃ……というか夢?」
だと思いたい。
異世界に行くなんて、ファンタジーだからアリなのだ。なんてことを考えているとバルトレッドは更にとんでもない発言をした。
「夢ときたか。面白いな……俺が聖女様をこの世界に召喚したのに夢なわけないですよ」
抱き上げられたまま甘く囁くように言われ、ん?と何度か瞬き考える。
「……あなたが、私を、召喚?」
「はい。まぁ、正確には指示して召喚させたわけですが」
誰がはともかく、ますます理由が謎になる。
「作者ですらない私を?どうして?」
するとバルトレッドは口角を緩やかに持ち上げ瞳を溶かして告げた。
「――だって、ずっと俺を気にかけてくれていたでしょう?」
なんなら瞳にハートマークでも浮かんでいるのではないかと思うほど熱烈な視線だった。
「更新確認のことかな……」
「もう俺達を隔てるものは何もありません。やっと触れられますね」
言えばバルトレッドの端正な顔が迫り、唇が落ちてくる。今度は髪などではなく紗希の唇を狙っていた。
全力だった。全神経が反射的に危機感を察知し咄嗟に両手で壁を作り阻む。
「いや、急にこんなこと怖いですから!私はただの読者です!」
怪訝な顔でツッコむとバルトレッドは固まった。
「おかしいな……同じ気持ちだと思ってたのに」
どうやらここにきてようやく紗希の反応に温度差があると気付いたらしい。
「違います。というか呼ばれた意味が一切分からないので……すみません」
同じ気持ちというのが“愛しています”という例のアレなら、それこそセレスティーナに向けるべきもので、何がどう転がればこんな手違いが起きるのだろう。
バルトレッドは紫水晶の瞳を大きく瞬いて数秒ほどの沈黙が落ちた。
けれども……ーーーー
「……まぁ、いいか」
「よくないです!」
口付けは諦めた様子だったが、あろうことか紗希を抱えたままバルトレッドは歩き出したのだ。
「本当に困るのでおろしてください。というか帰してください!」
「嫌です」
紗希と目を合わせずバルトレッドは上機嫌で進み続ける。
「聖女様。すみませんがちょっと口を閉じててください。舌、噛みますんで」
そう言うなり跳躍し身体が大きく揺れた。
「ひっ……」
息を飲み、まるでジップラインさながらの風圧を感じ目を瞑る。
それから軽い衝撃を感じバルトレッドの肩越しに振り返ると、岩場を切り裂く大きな溝のようなものを超えたのだと分かった。
「なんでですか……なんで私なんですか……」
声が震えるのはバルトレッドが飛んだせいか、非現実的な出来事のせいか。
ドクドクと脈打つ心臓は煩くて、連れられるまま成す術なくして力なく問うとトンチンカンな答えが返ってきた。
「あなたは俺の聖女ですから」
きっと暖簾に腕押しとはこのことだろう。
「それこそ人違いです……それに、さっきの理由じゃ全然納得できませんよ。この物語がどうなるか気にはなってましたけど……聖女じゃなくて、読者なんです……」
心理的に疲れてきて自論を述べるとバルトレッドは立ち止まった。
目の前には狭い階段が上に向かって続いている。
薄暗く、青白い怪しい光が点在するこの場所とは違うのか、奥の方は暖かな色の光がぼんやりとこちらに伸びていた。
「進まないのです」
「はい……?」
「俺の話はこの城でずっと止まっている。何者かの大いなる力によって阻まれているんだ……だからあなたを呼び出した」
見ればバルトレッドの額には深い皺が刻み込まれていて、誰も寄せ付けぬような鋭い視線が階段へと投げつけられていた。




