第5節 ペテン師のサイコロ(前編)
泥船中層の廃棄ブロック奥深く、錆びついた貨物コンテナを改造したシオンの隠れ家は、電子機器の発熱と過熱した銅線の匂いで満ちていた。
天井から吊り下げられた複数のポータブルモニターが怪しい青光を吐き出し、冷却ファンの低音障害が狭い鉄の箱を不気味に震わせている。外のスラム街で吹き荒れる暴動の叫び声は、分厚いノイズ遮蔽フェルトと無造作に積み上げられたジャンクパーツの山によって殺され、ただの遠雷のような振動となって足裏を刺す程度だった。
「有線バッファの電圧が急上昇してるぞ、シオン。このまま都市船の第一防壁に突っ込めば、お前の高価なデータアレイが焦げた樹脂の塊になる」
ルカはコンテナの床に膝をつき、首元から下げた物理応力計測アナライザーのデジタル表示を睨みつけながら、手元でスパークを上げる高圧バイパス線へ小型ハンダごてを押し当てた 。ジュッ、と皮膜が焼けるツンとした悪臭が立ち上る 。
シオンは首からかけた大型ヘッドホンを両耳に密着させ、端末のメカニカルキーボードを狂ったような速度で叩き続けていた。カチャカチャ、カチャカチャ、と乾いた打鍵音が密閉されたコンテナ内に連続して響く。青白いディスプレイの光が、寝不足で色濃いクマの刻まれた彼の横顔を斑に浮き彫りにしていた。
「焼き切れるなら、僕の脳細胞が先だよ、メカニック」
シオンはキーボードから指を離さず、薄い唇の端をシニカルに釣り上げた。
「経路管理局のメインフレームは実によく守られている。下層民の命を粗末に扱う組織ほど、自分たちの金庫の鍵だけは過剰なほど頑丈に鍛え上げるという、典型的な官僚主義の悪癖さ。だが、彼らの防衛プログラムの隙間をすり抜けるのは、ドブネズミが下水管を潜るより容易い」
「口を動かす暇があるなら、データ受信のクロック数を三ミリ秒下げろ」
ルカは焦げついた抵抗器をハンダで強引に迂回させ、手元で赤熱する銅線を冷却用のグリスに突っ込んだ。ジジジ、と濡れた音がして白煙が上がる。
「お前の能書きで基板の熱が冷めるならいくらでも聞いてやるが、現実の半導体は熱暴走を始めたら、理屈なんて聞いてくれない」
コンテナの唯一の出入口である重いスチールドアの前では、バーバラがフライトジャケットの袖を捲り上げ、壁に背を預けていた。彼女は腰のホルスターから引き抜いた旧式の実弾ピストルのシリンダーを外し、油の染み出たクロスで一発ずつ弾丸の表面をぬぐっている。金属と硝煙、そしてガンオイルの刺激臭が、電子機器のオゾン臭と混ざり合って鼻腔を突く。
「静かに作業しな、二人とも」
バーバラはシリンダーを指先で弾き、チャカカカ、と高速回転させた。
「通路の向こうで警備兵の靴音が二つ増えた。あたしのこの鉄砲が火を噴く前にそのハッキングとやらを終わらせな。しくじったら、管理局の豚どもの足音に合わせてお前たちのケツに鉛の弾をぶち込んでやる」
「過酷な脅迫だな」
シオンは眉間を指で揉みほぐしながら、ポータブルドライブの有線コネクターをメインアレイへ叩き込んだ。
「だが朗報だ、バーバラ。僕たちの運命を決める鍵の錠前が、いま音を立てて外れた」
タァン!と、シオンが実行キーを重く叩きつけた瞬間、コンテナ内を包んでいたモニター群の警告赤光が一斉に吹き飛び、波打つ青いデータストリームへと切り替わった。
都市船のメインフレーム最深部から力ずくで引きずり出された暗号化ファイルが、ホログラフィック・モニター上に幾重もの数式と構造図として展開される。
「……これが、奴らの『最重要機密』か」
ルカはハンダごての火を消し、工具帯へ放り込むと、膝を破った作業着の膝頭を叩いて立ち上がった 。首元のアナライザーをホログラムの幾何学光に向け、表示された数式プログラムのアルゴリズムを構造バランサーの視点で速読する。
シオンは画面を凝視したまま、一瞬だけ動きを止めた。そして、凍りついたような静寂の後、首のヘッドホンをゆっくりと引き下げ、不気味なほど冷ややかな失笑を漏らした。
「……ハ、ハハハ! 見事なものだよ、本当にね」
シオンは細い指先で画面の中央に並ぶコードの一群を拡大表示させた。そこにあったのは、先史文明《敷設者》の高度な空間位相幾何学でも、時空の歪みを解明する超高度なAIの演算式でもなかった。
「ご覧よ、二人とも。これが数千万人もの人類の命を区切り、絶対安全域と死の危険域を割り振っていた『バブル位相予測システム』の正体さ」
バーバラがピストルのシリンダーをガチャリと戻し、獲物を狙う肉食獣のような足取りでモニターへ歩み寄った。
「数式ばかりでさっぱり判らんね。要するに何が書いてあるんだい、インテリ坊主」
「何もないのさ」
シオンは椅子の背もたれに深く身を預け、天井のファンを見上げて気取った手つきで肩をすくめた 。
「ここに書かれているのはね、ただの『擬似乱数生成器(PRNG)』……つまり、コンピューターの中でサイコロを振るためだけの、ありふれたプログラムコードさ。そこに、都市船の富裕層や管理層の区画IDを絶対に安全域へ優先配置する条件分岐(IF文)が数行付け足されているだけだ」
「……乱数だと?」
ルカの声が低く落ちた 。
「安全座標の計算じゃない。空間歪みの応力ベクトルも、バブルの限界耐力も一切計算されていない。ただのサイコロの出目だと?」
「その通りさ、メカニック」
シオンは画面の数式をポインタで弾き、冷徹な嘲笑を浮かべた。
「管理局の連中は、ワームホール内で保護バブルがどう変形するのか、どこが安全なのかを何ひとつ解明できていなかったんだ。彼らはただ、古の遺物端末の横でサイコロを振り、出た出目に従って貧困層の泥船を危険域へ配置し、富裕層から莫大な『安全許可証』の代金を搾取していた。数百年間ずっと、ただのペテンを行ってきたのさ」
「ふざけるな……!」
ドガァン! と猛烈な衝撃音がコンテナ内に轟いた 。
バーバラが全身の血を沸騰させ、ガンオイルまみれの拳をコンテナの鉄壁へ叩きつけたのだ 。分厚い波板が鈍く歪み、棚からサビついたボルトやハンダの屑が床へ飛び散った。
「安全座標だと信じ込ませて高値で売りつけ、あたしの家族や仲間を……あのエッジ・ゾーンの火の海の中に投げ込んだのが、ただのイカサマのサイコロだったってのかい!?」
バーバラの精悍な顔が激怒で歪み、握りしめた拳の関節から血が滲み出していた。実弾銃を握る右腕の筋肉が、怒りで凶暴に脈打っている。
ルカは無言でモニターに浮かぶ擬似乱数のソースコードを見つめ続けた。首元から下げた応力アナライザーの液晶画面が、青い光を受けて静かに緑色のゼロ点波形を明滅させている。
胸の奥で、1000年分の鉄くずと油に塗れてきた「諦観」の冷たさが、一瞬にして乾いた熱へと変質していくのを感じていた。
管理局は神でも、世界の理を握る絶対者でもなかった。自分たちを「安全基準」という名の鎖で縛りつけ、泥舟の軋む底で死を待たせていたのは、ただのペテン師の集まりに過ぎなかったのだ。
「……計算が狂うはずだ」
ルカは静かに呟き、腰の工具帯からゴツゴツとした大型スパナを引き抜くと、手元でその重量感を確かめるように硬いグリップを握りしめた。
「物理法則の届かない場所で悩んでいたんじゃない。最初から、奴らのルールそのものが破綻していたんだ。……シオン、この泥船の第8区画を自力で切り離す(パージ)ための、物理的な切断手順を弾き出せ」
シオンは青白い光の中で薄く微笑み、首のヘッドホンを再び耳へ当て直した 。
「ペテン師のサイコロに従うのはここまでだ。僕たちの手で、新しい計算式を書き直すとしようか」
コンテナ内の空気が一変した。




