第5節 ペテン師のサイコロ(後編)
天井の冷却ファンが吐き出す低音の障害音だけが、重く冷えた鉄板を震わせている。
ルカは首元のアナライザーの赤い警告ランプを親指で叩いてゼロリセットした。画面に明滅していた不快なエラー波形が消え去り、緑色の水平線が一本、静かに引かれる。
これまで彼を押し潰し続けていたのは、不可解な「世界の終わり」の予感でも、経路管理局の超高度な神の如き技術でもなかった。ただの腐敗した人間が撒き散らしたイカサマの数字。その冷たい事実が腹に落ちた瞬間、胸の奥にくすぶっていた底辺特有の虚無感が、硬質で尖った「解答案」へと変わっていた。
「神様の描いたシナリオなんて初めから存在しなかったんだ」
ルカは腰の工具箱からホログラム描画ポインタを引き抜き、コンテナの中央に泥船の内部構造図を立体表示させた。青白い幾何学の線図が、焦げたハンダの煙の中で半透明に浮かび上がる。
ルカは皮製アームカバーで汗の滲んだ前髪を払い、油で黒ずんだ指先で泥船本体と自分たちの第8区画を繋ぐ「主応力フレーム」の接合部を三箇所、正確に赤く叩いてマークした。
「この三本のドッキング・マウントボルトと、高圧油圧配管の緊急遮断バルブさ。ここを物理的に切断すれば、第8区画は泥船本体の歪みモーメントから一瞬で切り離される」
「乱暴な解体工事だな、メカニック」
シオンは着崩したジャケットの袖を捲り上げ、過熱したデータアレイの基板に排気ファン用のアンプを追加接続した。小さな精密スクリューをドライバーで締め込むたび、プチプチと静電気の火花が指先を弾く。
「僕たちの船体が跳び出せば、都市船の監視AIは第一級の構造破綻アラートを鳴らすはずだ。僕の手元が狂えば、パージの瞬間に管理局の防衛衛星からプラズマ砲撃が降ってくる」
「心配するな。お前の手元が狂う前に、俺の手元で主フレームのボルトが弾け飛ぶ」
ルカはポインタのダイヤルを回し、切断箇所の応力分散シミュレーションを画面上で走らせた。
「パージと同時に、切り離し面へ高圧油圧の逆噴射をぶち込む。船体を破壊せずに切り離す手順なら、俺の脳の中に1000回分の補強データが入ってる。シオン、お前は切り離しの三秒前に、管理局の警報回線へ偽の『配管破裂の誤作動データ』を叩き込め。奴らに状況を理解させる時間を五分奪う」
「実に悪趣味で魅力的なプログラムだ」
シオンは青白いモニター光にクマの濃い目を細め、キーボードへ指を滑らせた。乾いた打鍵音がコンテナ内に心地よく刻まれる。
「『配管の経年劣化による自然破損』と誤認させるダミープロトコルさ。偽りの神様に、自分たちの粗悪なインフラ管理を恥じ入らせるための最後の詩を添えて送るとしよう」
バーバラは壁の補強波板に背を預けたまま、実弾銃のグリップを握る手にぐっと力を込めた。シリンダーをカチリと納め、ホログラム上に描かれた「パージ後の慣性推進ルート」を野性的な瞳で睨みつける。
「切り離した瞬間の反動で、機体は右へ十五度巻き込まれるね。補助スラスターの燃料は底をつきかけてるが……まあいい。あたしの腕で力任せに押さえ込んでやる」
バーバラは不敵な笑みを浮かべ、フライトジャケットの襟を立てた。
「管理局の豚どもが目を白黒させている間に、あたしたちはあの宙域の穴(不活性ノード)へ滑り込む。安全基準の神様にケツを捲くって挨拶してやるには最高のコースだ」
暴動の怒号が遠くで地鳴りのように響く中、三人は中層スラムの喧噪を抜け、泥船の最下層と中層を繋ぐ「構造点検ブロック」へと足を踏み入れた。
頭上の連絡通路からは、スラム街の暴動を抑え込もうとする警備兵の重い鉄靴の音と、ショックガンの乾いた放電音が、鉄骨を叩く振動となって足裏に伝わってくる。
この通路は、普段は保守作業員すら寄り付かない暗黒のパイプラインの吹き溜まりだった。錆びついた油圧バルブが壁面にびっしりと並び、剥き出しになった極太の鋼鉄フレームが、まるで巨大な獣の肋骨のように暗がりへ伸びている。
「ここだ」
ルカは膝をつき、胸元のアナライザーの数値を手元で確かめた。首筋の火傷痕が、焦げた配線と有毒な排気ガスが混ざり合う熱気で引きつる。
ルカは腰から高出力のポータブル・プラズマ切断機を引き抜いた。圧着ホースを有線バイパスに接続し、親指でトグルスイッチを倒す。
バチバチバチ! と激しい音とともに、極太の青白いプラズマ炎が吹き出し、暗闇の通路を不気味に照らし出した。
「ルカ、時間をかけるなよ」
バーバラは重い金属扉の隙間に身を潜め、実弾銃のシリンダーを起こした状態で外の通路を睨みつけていた。ガンオイルと安酒の匂いが、彼女の吐く白い息とともに漂う。
「通路の三ブロック先で警備兵の靴音が止まった。下層のバカどもを叩き潰し終えたら、次はここへ点検に来る」
「黙って見てろ」
ルカは皮製アームカバーを固く締め直し、泥船本体と第8区画を繋ぐ主フレームの肉厚な鋼鉄ボルトにプラズマ炎を叩きつけた。
ジュワァァァ! と猛猛しい金属蒸発音が狭いブロックに響き渡る。飛び散る猛烈な火花がルカの作業着を焼き、プラズマの熱で塗料が焦げるツンとした悪臭が充満した。
ルカはアナライザーのデジタル数値を睨み続けながら、切断機の手元を微細なミリ単位で滑らせていく。完全に焼き切るのではない。ボルトの引張強度を、パージ時の点火爆薬で一瞬で跳ね飛ぶギリギリの薄さ——残存強度三パーセントまで、物理計算通りに削り落とすのだ。
「一ミリでも削りすぎれば、次のジャンプの前に自壊する。浅すぎれば切り離せなくて全員挽き肉だ」
ルカは汗と脂で汚れた額を歪めず、手に伝わるスチールボルトの振動と熱をダイレクトに噛みしめた。
その傍らで、シオンは膝の上にポータブルドライブを広げ、暗闇の中で青白いモニター光に浸っていた。
「データ転送完了。都市船のメインフレームから奪った安全アルゴリズムと、不活性ノードの座標データは、この非磁性ドライブへ完全に隔離保存した」
シオンは高速でメカニカルキーボードを打鍵し、泥船のローカルサーバーに残された侵入ログを跡形もなく消去していった。カチャカチャ、カチャ、と乾いた打鍵音が、ルカの散らすプラズマの爆音と交錯する。
「僕たちの『反逆の爪痕』は完璧に拭い去った。あとは物理的な鍵を打ち破るだけさ」
突如、重いスチールドアの向こうから、カン! カン! と警備兵の電磁警棒が鉄格子の手すりを叩く乾いた警告音が迫ってきた。
『――第4点検ブロック内部へ警告! 異常電圧を感知した。直ちに作業を停止し、両手を上げて出てこい!』
バーバラは不敵な笑みを浮かべ、実弾銃のハンマーをカチリと指先で起こした。
「お出ましだね。……おい、大工! その仕込みは終わったかい?」
「終わった」
ルカはプラズマ切断機のスイッチを切り、火を消した。赤熱した鋼鉄ボルトが、暗闇の中で不吉な朱色の光を放っている。
ルカはアナライザーを首元へ収め、腰の工具帯から大型スパナを引き抜いてしっかりと握り直した。
「強度は限界まで削った。あとは爆薬を打つだけだ」
三人は暗がりの中で互いに視線を交わした。
遠くで響く広報スピーカーの無感情な電子音声も、スラムの絶望的な叫び声も、もう彼らを縛り付ける鎖ではなかった。
壊れた世界とペテンのサイコロを置き去りにし、自らの手で船を切り離す瞬間が、すぐそこに迫っていた。




