第4節 生存確率0%の盾(後編)
蒸気が滞留する路地裏の角を曲がると、汚れたアクリル板の看板がジジジと不吉な音を立てて明滅していた。看板には不揃いなペンキ文字で『星葬ポイント即金買取・跳躍マージン小口融資』と書かれている。
救護所を兼ねたポイント清算所の前には、生臭い血と消毒液の匂いが充満していた。
「頼む……! これで息子の安全マージンをコンマゼロ一パーセントでいい、買い足してくれ! 俺の識別タグも、この耐熱アームカバーも全部渡すから!」
頭から血を流した下層の労働者が、煤けた木箱のカウンターにすがりついていた。抱きかかえられた小さな子供は、煤と油にまみれた毛布の中で浅い息を吐いている。
カウンターの奥に座る闇ブローカーの肥え太った男は、脂ぎった指先でポータブルスキャナーを操作し、差し出された識別タグを無感情になぞった。ピッと乾いた電子音が響く。
「無駄だな。0.00%の確定通達が出た瞬間から、第8区画のポイント換金レートは暴落した。そんなゴミクズ同然のタグじゃ、ジャンプの摩擦で削れる大気コンマ一秒分の猶予すら買えやしない」
ブローカーは鼻で笑い、粗悪な合成煙草の煙を子供の顔へ吹きかけた。
「さっさと退け。ここはボランティアの駆け込み寺じゃない」
「なっ……! 俺たちは何年もポイントを納め続けてきたんだぞ! なんで土壇場でゼロなんだ!」
すがりつく父親の腕を、ブローカーの用心棒が重いスチールパイプで力任せに殴りつけた。グシャッ、と鈍い音がして父親が鉄板の床へ転がり落ちる。
「美しい市場経済の末路だな」
シオンは足元に転がってきた血塗れの識別タグを靴の先で軽く避け、携帯端末の画面上で暗号化取引ログを高速スクロールさせた。カチャカチャと乾いたキーボードの打鍵音が、暗い路地裏に虚しく響く。
「生命の価格がリアルタイムで暴落し、最後はただの廃棄物として処理される。管理局が作ったアルゴリズムは実に公平だ。富裕層には絶対の生存を、僕たち貧困層には均一なゼロを与えるんだからね」
「感心してる暇があったら、その汚い頭を下げな!」
バーバラはすれ違いざま、用心棒が振り下ろしたスチールパイプをフライトジャケットを羽織った左腕で強引に受け止め、即座に右手のピストルのグリップで相手の鼻柱を叩き割った。
ガツン! という重い衝突音とともに用心棒が崩れ落ちる。
「命を叩き売りするブローカーも、それにすがる豚どもも胸糞が悪いね! あたしたちの命は、あの豚箱のオークション会場で競り落とされるためにあるんじゃないんだよ!」
バーバラはピストルのシリンダーをガチャリと戻し、ガンオイルと硝煙の匂いを撒き散らしながら、足元に倒れた父親を一瞥した。
「無駄だ。諦めろ」
ルカは歩みを止めず、壁面に露出した高圧油圧ラインの接続ボルトにアナライザーの測定端子を叩きつけた。ピピッ、と甲高い電子音が走り、画面に構造歪みの赤波形が刻まれる。
「この区画の物理的フレームは、すでに次回跳躍の過荷重に耐えられない。どれだけポイントをかき集めて画面上の数字をいじくろうが、0%の物理事実は変わらないんだ。その子供にポイントを買い与えるくらいなら、頑丈な鉄板でも買って頭に巻きつけてやった方がまだ生存率は跳ね上がる」
ルカは冷たく言い放ち、アナライザーを工具帯へ叩き込むと、スラム街を見下ろす連絡キャットウォークへの梯子へ手をかけた。
最下層から吹き上がる生温かい排気ダクトの真上、スラム街の喧騒をはるか下に臨む連絡用キャットウォーク。
鉄格子の床下からは、怒号とショックガンの放電音、そして狂乱した群衆の踏み鳴らす振動が、ジンジンと足裏を通して伝わってくる。
「はっ、逃げ場なし、か」
バーバラは錆びついた鉄製の手すりを力任せに叩きつけた。ガン! と甲高い金属音が響き、手すりの表面から古いペンキの破片がパラパラと宙へ舞い落ちる。
「管理局の豚どもに盾にされて宇宙のチリになるか、下層のバカどもと一緒に警備兵のショックガンで丸焼きにされるか。どっちを選んでも地獄の片道切符だ」
バーバラは腰から安酒の小瓶を引き抜き、歯でコルク栓を引き抜くと喉へ一気に流し込んだ。喉を焼くアルコールの匂いと安タバコの紫煙が、湿った排気に混ざり合う。
「だがな、あたしはあいつらの思い通りに死んでやる気はコンマ一ミリもないんだよ。安全基準の神様に祈るくらいなら、あたしのこの両手で操縦桿をへし折るまで吹かしてやる!」
「同感だね。神様の描いたシナリオがあまりに退屈すぎて、途中で席を立ちたくなっていたところさ」
シオンは着崩したジャケットの襟を正し、首にかかった大型ヘッドホンを両手で深くかぶり直した。彼の指先がポータブル端末の電源スイッチを力強く押し込み、ホログラム画面を一瞬で消し去る。青い光が消え、暗闇の中に彼のニヒルな眼光だけが残った。
「確率もアルゴリズムも、結局は権力者が僕たちを大人しく屠殺場へ運ぶための仕掛けだ。ペテンのサイコロを振らされるのはもう終わりだ。僕たちの手で、新しい計算式を作ろうじゃないか」
シオンはポケットからポータブルドライブを取り出し、手元でカチリと遊ばせた。そこには、解読したばかりの「不活性ノード」の生データが収められている。
ルカは首元のアナライザーのダイヤルをゼロリセットし、キャットウォークの足元にある泥船本体と自区画をつなぐ巨大な構造フレームの接合ボルトを睨みつけた。
一千年分のサビとツギハギの溶接痕に覆われた、直径一メートルの主結合マウント。
「……切り離すぞ」
ルカの声は、排気ダクトの重低音にかき消されそうなほど低く、だが冷徹に通り抜けた。
「泥船の主構造フレームから、俺たちの区画――この中型船ブロックだけを物理的にパージする」
バーバラが安酒の瓶を握り潰しそうな力で止め、鋭い眼光をルカに向けた。
「言ったな、メカニック。本気かい?」
「俺の計算に嘘はない」
ルカは工具箱から重厚なプラズマ溶接機を引き抜き、その重量感を右腕の筋肉で確かめた。皮製アームカバーを締め直し、溶接カッターの先端に青い火花をチチッ、と走らせる。
「船体を崩壊させずに主結合部だけを爆破・溶断する順番は、俺の頭の中に全部入ってる。お前が操縦桿を握り、シオンが監視網の目を盗むなら……俺の構造計算で、この棺桶から脱出させてやる」
「クク……実に野蛮で、最高に合理的な反逆だな」
シオンはヘッドホンの位置を微調整し、ニヒルな微笑を浮かべながら端末のコネクターをポケットへ叩き込んだ。
「決まりだね。僕たちの命の価値は、僕たち自身で計算させてもらうとしよう」
バーバラは酒瓶の残りを一気に飲み干すと、空き瓶を遥か下のスラム街の闇へ叩き落とした。ガシャン! と砕け散る乾いた音が、反逆の狼煙のように響き渡る。
「よし! 腹は決まった! あたしたちの船の舵は、あたしたち自身で取ってやるよ!」
三人は暗がりの中で互いに視線を交わすと、一切の迷いを捨て、泥船からの物理的パージ――クーデターという名の過酷なサバイバルへ向けて、暗い通路の中へと力強く走り出した。




