第4節 生存確率0%の盾(前編)
天井の広報スピーカーが吐き出した冷酷な電子音声は、湿ったスラムの通路を一瞬にして真空のような静寂へ突き落とした。
歪んだスピーカーの防塵網が微細に震え、無感情な機械声が鉄の壁面に跳ね返る。
『――次回ワームホール跳躍における、各艦隊の位相配置シミュレーション結果が確定いたしました。繰り返す。全区画住民は、最寄りのホログラムモニターにて自船の配置確率および安全マージンを確認してください』
中層メイン通路を埋め尽くしていた労働者たちの足音が、ぴたりと途絶えた。錆びついた天井配管からポタリと落ちる結露水の音だけが、不気味なほど鮮明に響く。
通路の中央に吊り下げられた大型ホログラフィック・モニターが、激しいノイズとともに画面を切り替えた。そこに映し出されたのは、色分けされた巨大な艦隊配置図だった。中央の絶対安全域を占めるのは、都市船の煌びやかなシルエットだ。そして、その外縁部、保護バブルが激しく変形し、次元の摩擦で削り取られる危険域の最先端に、不吉な赤色で明滅するひとつの区画コードがあった。
『アグリ・シップ第8区画(泥船)――次回跳躍における推定生存確率:0.00%』
血のような赤文字で刻まれた「0.00%」の数字が、薄暗い通路を不気味に照らし出す。
「……ほう、小数点以下の気休めすら削ぎ落とした、実に潔い零点だな」
シオンは歩みを止めず、ジャケットのポケットから引き抜いたデータアレイの有線コネクターを、ポータブル端末の側面ポートへカチリと噛み合わせた。高速で打鍵する彼の細い指先が、青い画面上に速報の暗号化ログを次々と流していく。過熱した基板から立ち上るピリッとした静電気のオゾン臭が、彼のこめかみを刺激していた。
「改ざんも誤植もない。管理網のホストAIが弾き出した、完璧に計算された死の宣告さ。僕たちの命には、小数点第二位の端数すら割り振る価値がないらしい」
「無駄な数字の解釈を聞いてる暇はない」
ルカは作業着の袖で額の混濁した汗を拭い、首元から下げた物理応力計測アナライザーのダイヤルを親指で小刻みに回した。画面に表示される船体共振波形が、急激に大きな乱れを見せ始めていた。足裏の薄い革底を通して、鉄板の底から不気味な細密振動が伝わってくる。
「0%の数値にビビった下層民どもが、一斉にパニックを起こし始めてる。足踏みの周波数が船体の第三フレームを直撃してるんだ。このまま雑踏が暴走すれば、ジャンプの前にこの通路の溶接が弾け飛ぶ」
「ふん、確率なんか最初から信じ込んじゃいないがね」
ルカの二歩先を歩くバーバラは、口にくわえた安タバコの紫煙を吐き出しながら、腰のホルスターから引き抜いたピストルのシリンダーを親指で一回回転させた。チャカカ、と硬質な金属擦過音が狭い通路に響く。
「あたしたちを都市船の盾にして、安全なコア・ゾーンで酒でも飲む気かい。管理権力のクソ野郎どもめ、一度そのツラをあたしのエンジンの排気口に叩き込んでやりたいよ」
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経路管理局からの通達を聞いて、第8区画中層エリア全体の静寂は、数秒と持たなかった。
「ゼロ……? 0.00%だと!?」
「ふざけるな! 俺たちは毎月『星葬ポイント』を納めてるんだぞ! なんで泥船がエッジ・ゾーンの先端に置かれるんだ!」
「都市船の豚どもを生き残らせるために、俺たちを壁にする気か!」
絶望が怒りへと沸騰するのに時間はかからなかった。手にした作業工具やジャンクパーツを握り締め、労働者たちの群衆が波のように押し寄せ始める。
通路の先にある治安維持派出所の前で、完全武装の下級警備兵部隊が即座に動いた。重厚な防犯シールドをガチャンと噛み合わせ、黒塗りの強化装甲を着込んだ六人の警備兵が密集陣形を組む。手にした電磁警棒が、ピリピリとした青白い放電火花を散らしながらエアを切り裂いた。
「退がれ! これ以上の接近は反逆行為とみなす! 配置決定は管理局の規定に基づく厳正な計算結果だ!」
「規定だと!? 俺たちの命を勝手に競り落としておいて何が規定だ!」
興奮した若い作業員が、サビついた巨大なパイプレンチを警備兵のシールドへ叩きつけた。
カーン! と鼓膜を刺す高い金属音が弾けた直後、警備兵のショックガンが火を噴いた。バチチチッ! という凄まじい放電音とともに、作業員の身体が弓なりに折れ曲がり、白煙を上げて床の鉄板へ崩れ落ちる。焦げた肉と合成繊維の嫌な匂いが一気に充満した。
「押し潰されるぞ、二人とも!」
バーバラは押し寄せる群衆の怒号を背に受けながら、迫り来る警備兵の防犯シールドの数センチ前で立ち止まり、ピストルの安全装置を親指でカチリと外した。シリンダーの薬室がカチリと噛み合う鈍い重みが、彼女の手元に確実に伝わる。
「おい、そこを通しな! あいにくあたしは、自分から豚箱の屠殺場に並ぶほど行儀よく育てられてないんだよ!」
「警告する、反逆者! 武器を捨て――」
警備兵が電磁警棒を振り上げかけた瞬間、バーバラは躊躇なくピストルの銃口をシールドの覗き窓へ突きつけ、重い鉄靴で相手のシールド下部を力任せに蹴り飛ばした。
ドガァン! という激しい衝撃音とともに警備兵の姿勢が崩れる。
「命が惜しけりゃその汚い板切れの裏に隠れてな! あいにくあたしの操縦席には、お前たちのくだらない命令を聞く余地なんて一ミクロンも残っちゃいないんだ!」
バーバラの鋭い眼光に圧され、後続の警備兵が一瞬だけ躊躇した。そのわずかな隙を逃さず、ルカは二人の腕を掴んで路地の物陰へと強引に引きずり込んだ。
「立ち止まるな! 暴動の波に飲み込まれたら、警備兵のショックガンか下層民のバールで叩き潰される!」
ルカは工具帯から抜き取った粗悪なスパナを使い、路地に剥き出しになっていた緊急排気弁のバイパスボルトを強引に数回叩きつけた。ガン、ガンと甲高い打撃音が響き、固着していたバルブが一気に開放される。
シューッ! と勢いよく吹き出した白い高圧蒸気が路地裏を覆い隠し、追撃しようとした警備兵たちの視界を遮断した。
「さすがは現場の修理屋だ、煙幕の張り方まで泥臭くて助かるよ」
シオンは蒸気の煙の中で目を細め、首にかかった大型ヘッドホンを深く耳に密着させながら、ポータブル端末のメカニカルキーボードを荒々しく叩き続けた。キーが底を打つカチャカチャという硬い打鍵音が、蒸気の噴出音と混ざり合う。
「ちなみに、僕がいま傍受した管理局の内部通信ログによれば、警備隊への指示は至極シンプルな一言だったよ。『殺虫剤を撒け』さ。彼らの文学的センスには脱帽するね。下層民を害虫と表現することで、自分たちの罪悪感を完璧に中和している」
「無駄口を叩いてるヒマがあったら足を進めろ!」
ルカは蒸気の中で首元のアナライザーの数値を睨みつけた。パニックを起こした群衆が踏み鳴らす足音により、路地の天井フレームにかかる応力歪みが危険域を示す黄色から橙色へと変移している。
「民衆がいくら怒鳴り散らしたところで、この鉄板の厚みはコンマ一ミリも増えない。力づくの抗議で物理法則が曲がるなら、俺は今すぐあの警備兵どもに感謝状を書いてやる」
三人は逃げ惑う労働者と、電磁警棒を振り回す警備兵の乱闘を潜り抜け、スラムのさらに深い暗がりへと足を進めた。背後では、悲鳴と銃声、そして「0%」という死の宣告に対する泥船の絶望的な悲鳴が、重く湿った空気の中にどこまでも響き渡っていた。




