第3節 幽霊の座標(後編)
ルカは首元のアナライザーのダイアルを回し、ホログラムに表示された不活性ノードまでの直線距離と、現在の泥船の最大航続距離の数値を脳内で突き合わせた。
「夢を見るのは勝手だが、現実の数値を計算しろ」
ルカは冷淡な声で吐き捨て、テーブルの上のホログラムを指で遮った。
「その『死角』に辿り着くまでに、どれだけのエネルギーが必要だと思ってる。今の泥船の主機に残された燃料じゃ、その座標へ向かう途中でワープバブルが途切れて宇宙のチリになる。ただの綺麗なガラクタの墓場だ」
「メインエンジンの出力をあと二割引き上げただけで、第十二区画の固定ボルトがせん断応力で吹っ飛ぶ」
ルカは首元のアナライザーの液晶画面を指先で弾き、冷ややかな数値の羅列をシオンの目の前に突きつけた。
「その『世界の死角』とやらに跳ぶ前に、俺たちの体はワームホールの事象の地平線でミンチになって、向こう側に届くのは焦げた作業着の破片くらいだ。お前の高尚な詩集に、自分の死亡診断書を追加したいなら留めはしないがね」
ルカは工具箱のラッチをカチリと硬い金属音を立てて噛み合わせ、卓上に飛び散っていたハンダの削りカスを作業着の袖口で乱暴に払い落とした。焦げたハンダと鉱物油の不快な匂いが鼻腔を突く。
シオンはポインタを卓上に転がし、両手を広げて大袈裟に肩をすくめた。モニターから照射される青白い幾何学光が、彼の目の下の濃いクマと、ニヒルに歪んだ唇を不気味に浮かび上がらせている。
「つれないな、メカニック。僕たちの人生なんて最初から死に損ないの余白みたいなものだろう? 管理局のお偉方(ペテン師ども)の宣告を待って殺されるより、自分たちの手で宇宙のドブに投げ捨てる方が、よっぽど文学的な死に方というものさ」
「文学的な死体も、ただの肉の腐敗臭と変わりはないよ」
バーバラはそう吐き捨てると、実弾の詰まったピストルのスライドをガチャリと力任せに引いた。チャンバー(薬室)に実弾が送り込まれる重く鈍い金属音がボックス席に響き渡る。彼女は銃口を上へ向け、安全装置を親指でカチリとロックした。
「あたしは死体になる気も、誰かの企みに踊らされる気もないね。シオン、その『不活性ノード』とかいうガラクタの山まで、あたしの腕でこの船を滑り込ませる隙間は本当にあるのかい?」
「確率を尋ねるなら、五十パーセントと答えよう」
シオンは首の大型ヘッドホンを深くかぶり直し、キーボードの上で細い指先を踊らせた。データアレイの拡張ポートが熱を帯び、ピリピリとした静電気の空気がボックス席に満ちる。
「跳躍バブルの位相角をコンマ二度ズラし、管理局の監視アレイが巡航ノイズを処理するミリ秒単位の隙間に船体をねじ込む。計算上はね。もっとも、僕たちの船がその加速度のGに耐え切れればの話だが」
「Gの心配なら操縦桿を握るあたしに任せな」
バーバラはテーブルを手のひらで強く叩き、ドカンと鈍い音を立てた。卓上のショットグラスが激しく跳ねる。
「あいつらの安全基準に従って順番待ちの屠殺場に並ぶくらいなら、自分の手でエンジンを爆発させて宇宙の端っこまで突き抜けてやる。あたしの操縦席には、最初からブレーキの神様なんて乗っちゃいないんだからね!」
「景気のいい話だが、エンジンを吹かす燃料も、その前に船体を繋ぎ止めるボルトも足りないんだよ」
ルカは丸椅子から立ち上がり、重くなった工具箱を右肩に担ぎ直した。ズシリとした鉄の重みが肩の肉を締め付ける。
「お前たちが幾何学模様の夢を見ている間にも、泥船の主構造フレームは一秒間に三コンマ六ミクロンの速度で歪み続けてる。夢を語る前に、明日のシフトで使う圧着ボルトを泥水の中から拾い集めてこい」
「現実主義者の冷や水はいつも冷たくて胃に障るよ、ルカ」
シオンはシニカルな笑みを消さず、ポータブルドライブへ解読データを転送し終えると、コネクターを荒々しく引き抜いた。バチリと小さな青いスパナの火花のような放電が散り、過熱した基板から焦げた樹脂の臭いが立ち上る。
「だが朗報だ。君がどれだけそのボルトを締め直したところで、僕たちの船の寿命が伸びるわけじゃない。世界はとうに壊れていて、僕たちはその破片の上で踊っているだけなんだからね」
「その破片が明日砕けないようにするのが俺の仕事だ」
ルカは吐き捨てるように言い放ち、ボックス席を後にした。
ジャンク酒場のドアを開けると、スラム街の湿った熱気と、家畜の排泄物と腐敗した冷却液が混ざり合った不快な臭いが一気に押し寄せてきた。夜が明けつつある泥船の中層メイン通路は、寒々とした薄暗さに包まれている。錆びついた天井の配管からは、結露した有毒な泥水がポタリ、ポタリと不規則な音を立てて床の鉄板へ落ちていた。
通路には、早朝の労働シフトに向かう下層民たちの足音が重く響いていた。油と泥に塗れた作業着の襟を立て、うつむき加減に歩く労働者たちの顔には、生きる喜びも怒りすらもなく、ただ摩耗した機械パーツのような無感情な諦観だけが張り付いている。
ルカの背後から、上着のジャケットを羽織ったシオンと、腰のホルスターを叩きながら歩くバーバラが追いついてきた。シオンは首のヘッドホンから漏れ出るホワイトノイズに眉をひそめ、不眠の頭痛に耐えるようにこめかみを指で押さえている。
「相変わらず、この街の朝の空気は安合成酒のゲロの匂いがするね。文化的な生活からは程遠い」
「文句があるなら都市船の温室にでも戻りな、インテリ坊主」
バーバラは口にくわえた安タバコの火を指先で揉み消し、スラムの通路の壁へ唾を吐き捨てた。
その時だった。
通路の天井各所に設置された古びた広報スピーカーが、歪んだ高周波の電子チャイム音を甲高いく鳴り響かせた。
キンコン、カンコン――。
不快な重低音の残響がスラム街の鉄の壁を叩き、行き交う労働者たちの足が一斉に凍りついた。周囲の空気が、まるで急激に真空へ晒されたかのように重く引き締まる。
『――経路管理局より、全区画住民へ緊急通達』
スピーカーの防塵網から吐き出されたのは、感情の欠片もない、冷酷で平坦なシステム音声だった。
『次回ワームホール跳躍における、各艦隊の位相配置シミュレーション結果が更新されました。繰り返す。全区画住民は、最寄りのホログラムモニターにて自船の配置確率および安全マージンを確認してください――』
通りに佇む労働者たちが、ゆっくりと頭上の街頭モニターへ視線を向けた。
シオンはポケットから携帯端末を滑り出させ、青い液晶画面に暗号化された速報データを同期受信させた。画面のデータストリームを追う彼の目元から、いつものシニカルな余裕が失われ、銀髪の隙間から覗く瞳が冷たく見開かれた。
「……やつら、やりやがったな」
シオンの低く呟いた声には、知的ユーモアの欠片も残っていなかった。
ルカは無言のまま首元のアナライザーを握り締め、頭上の大型モニターに浮かび上がった、血のように赤い「0.00%」の数値を冷ややかに見つめ返した。




