第19節 中枢への到達(前編)
重厚なシームレスの黒色装甲扉が、一切の摩擦音を立てずに左右の壁面へと滑り込んでいった。
視界が一気にひらける。頭上には無限の深みを感じさせる暗黒のドームが広がり、足元には歪みひとつない鏡面装甲床が鏡のように周囲を映し出していた。その中央、幾重もの幾何学的な光ラインが集束する一点に、青白く脈動する巨大な構造体――中枢データコアが、重力を無視して静かに沈座している。
泥船の最下層を支配していた家畜の排泄物や焦げたガンオイルの匂いはここには存在しない。漂うのは、冷え切った金属と無臭の人工大気、そして肌を刺すような静電気のピリついた感触だけだった。
「応力歪み、ゼロ。共振周波数、ゼロ……」
ルカは首元から下げた応力アナライザーのデジタルインジケーターを指先で叩いた。針はぴたりと中央に固定されたまま動かない。船体が微かに悲鳴を上げ、そのきしみで構造の寿命を測ってきた男にとって、この完璧な無振動と無音は物理的な吐き気すら催させる異常事態だった。
「構造の接合部すら見当たらない。マニュアル通りに組み上げた建築物じゃなく、空間そのものを型抜きしたみたいだ」
「綺麗すぎて虫唾が走るね」
バーバラが愛用の旧式実弾銃の銃身を下げ、床に唾を吐く仕草を見せた。ガンオイルと硝煙の匂いを纏った彼女の野性的な存在は、この神聖なデータの大聖堂においてあからさまな異物だった。
「掃除の行き届いた墓場だよ。お偉いさんの都市船の応接間よりも不気味だ」
「美学の分からない人だな、バーバラ」
シオンがシニカルな笑みを口元に浮かべた。彼の視線は既に、中央コンソールから立ち上る青白い幾何学光の束に固定されている。着崩したジャケットのポケットから、太いシールド層で覆われた特製の高密度有線コネクターを引き抜いた。
「ここは神様が文字通り言葉を失った場所さ。行政のペテンも、管理局の誤魔化しの数字も届かない。完全な無音。僕の偏頭痛を止めるには、これ以上ない最高環境だよ」
シオンは鏡のような床を靴音で乱しながら、幾何学コンソールの直前まで歩み寄った。コネクターの金属端子が、受動ポートの青い光を反射して冷たく輝く。
「さて、ルカ。この神聖な化け物の腹を割る準備はいいかい? あいにく僕のハッキングツールには、このサイズのデータ密度に耐える保証書なんてついてないんだ」
「耐えさせるんだよ」
ルカは腰の工具帯からプラズマ溶断機と高出力ハンダごてを引き抜き、手元でスイッチを入れた。青い種火が静かに爆ぜる。
「回線が焼き切れる前に言え。物理的なバイパスなら、いくらでも力技で繋ぎ変えてやる」
シオンはニヒルに唇の端を上げると、迷いなく高密度コネクターをコンソールの受動ポートへ突き刺した。
――バシッ!
青白いプラズマ火花が接合部から爆ぜ、強い電磁波が3人の皮膚を撫でた。
瞬時に、コンソールを中心として半径数メートルの空間に幾重ものホログラフィック・モニターが爆発的に展開した。視界全体が青いデータストリームの濁流で埋め尽くされる。同時に、シオンの携帯端末が甲高い警報音を上げ、過熱した冷却ファンが悲鳴のような高回転音を響かせ始めた。
「――グッ……!」
シオンの身体が大きく揺らぎ、膝が床に落ちかけた。大型ヘッドホンから溢れ出す高周波ノイズが、彼の脳へ直接高次元データの過負荷を叩き込んでいる。彼の鼻から、一筋の赤い血が滑り落ちて顎を濡らした。
「おい、シオン!」
バーバラが即座に踏み出し、シオンの細い肩を強く掴んで力任せに揺さぶった。
「意識をこっちに繋ぎ止めな! あっちの情報の海に溺れて死ぬには、あんたの体は華奢すぎるよ!」
「……親切な……アドバイス、どうも……」
シオンは血の混じった歯を剥き出しにし、震える指先をキーボードの上で叩き滑らせた。青白いモニター光が彼の瞳孔に異常な密度で投射されている。
「文字通りの『情報の海』だ……!人類のデータネットワークが子どものおままごとに思える……プロテクトのレイヤーが無限に折りたたまれているぞ。僕の端末のCPUが……あと三十秒で溶け落ちる!」
端末の基板から、焦げついたフェノール樹脂と焼けた銅線の香ばしくも不快な匂いが立ち上った。ルカはためらうことなくシオンの背後に滑り込み、火花を散らすコネクターのバイパス回路に視線を走らせた。
「過電流だ。《クジラ》の規格をそのままうちのアナログ機器に流し込んでやがる」
ルカはニッパーで端末の背面カバーを力任せに引き剥がすと、焦げつく耐熱グローブを嵌めた手で露出したメインバスラインを掴んだ。手元のアナライザーが異常な電圧上昇を示して赤く明滅している。
「シオン、三秒後に第三ラインの電圧を強制降下させる!ハンダを流し込んで抵抗器を割り込ませるぞ!」
「狂ってるのかい、ルカ!転送速度が落ちたらプロテクトに弾き出される!」
「丸焦げになって死ぬよりはマシだ!理屈を捏ねる前に指を動かせ!」
ルカは高熱を帯びたハンダごてをバイパス線に叩きつけ、手元のジャンクパーツからひっこ抜いた大型抵抗器を力技で溶接・圧着した。強烈な白煙とともにプラズマの逆流が手元で弾け、ルカの皮製アームカバーに火花が飛び散る。
瞬間、シオンの端末の警報音が半音下がり、過熱によるモニターのノイズが僅かに収まった。
「……ハッ、見事な現場工事だ、大工さん……!」
シオンは荒い息を吐きながら鼻血を袖で拭い、再びキーボードへ両手を走らせた。
「おかげで脳ミソが沸騰するまでの時間が一分伸びたよ。朗報だね、これで僕たちが『世界の真実』ってヤツに届くか、それとも僕の神経回路が全焼き破砕されるかのチキンレースが正式にスタートした!」




