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ツギハギの方舟 ~生存確率0%の跳躍(ダイブ)  作者: Mr.Q
第3章 永遠のバグと宙域の隙間

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第18節 死のトラップ(前編)

垂直シャフトへ続くアクセス通路に入り込んだ瞬間、空間の質気が不気味に変質した。


歪みも摩耗も存在しない幾何学装甲壁が立ち並ぶ回廊には、泥船に充満していた焦げグリスの悪臭も、はぐれ惑星の硫黄蒸気も存在しない。あるのは冷たく無菌室めいた空気と、シオンが首から下げた大型ヘッドホンから漏れ出す、鋭い針で鼓膜を刺すような高周波の雑音ノイズだけだった。


「通信アレイの感度が振り切れてる」


シオンは青白いモニター光の中でクマの濃い目元を歪め、携帯端末のメカニカルキーボードを狂ったような速度で叩いていた。カチャカチャと乾いた打鍵音が、歪みのない鏡面床に甲高く跳ね返る。


「僕たちの最新スキャナーが、またしてもただの文鎮だと証明されたよ。波形データには何も映らない。だが、この端末の基板が帯びている不吉な静電気と、僕の頭痛だけが『何かが起きてる』と主張している。……安コーヒーすら手に入らない場所で頭を割られるのは、実に不愉快な体験だね」


「黙って手を動かしな、インテリ」


先頭を歩いていたバーバラが、耐圧フライトジャケットの袖を捲り上げた腕で愛用の旧式実弾銃を構え直した。鋭い眼光が、一切の影を持たない無機質な回廊の先を睨みつける。


「あたしの直感が言ってるよ。この先の空気が、さっきまでの墓場より格段に尖り始めてるってね」


バーバラが警戒のために実弾ピストルのバレル(銃身)を通路の空間へ一コンマ数センチほど突き出した、その瞬間だった。

音はなかった。火花も、衝撃波も、光の明滅すら存在しない。

何もない虚空を通過した瞬間、重厚なスチール鋼で鋳造された実弾銃の銃身先端三センチが、まるで水面に浮く油脂をナイフで掬い取ったかのように、滑らかに切断されて滑り落ちた。

カトン、と硬質な金属片が鏡面床を転がる微小な音が響く。


「止まれ!」


バーバラは短くなった銃身を即座に引き戻し、後方の二人へ向けて太い腕を横に突き出した。切り口は白熱すらしておらず、分子レベルで綺麗にスライスされた断面が、幾何学光を映して冷ややかに光っていた。


「見たかい……? 警告の赤ランプ一つつけずに、あたしの愛銃の頭を削り落としやがった」

「光学的位相の分子切断格子だ」


ルカは首元から下げた物理応力計測アナライザーのデジタル表示を指先で弾きながら、足裏の肉を通して伝わる不気味な「ゼロ振動」を凝視していた。首筋から胸元にかけて刻まれた古い火傷痕が、空間に満ち始めた高次元干渉の磁場によってピリピリと引きつる。


「物理的な刃もレーザーの照射熱もない。空間そのものを幾何学的な格子状に配置して、通過する質量の結合係数をゼロにすり替えてやがる。……マニュアル通りの安全な通路が欲しいなら、都市船の子供部屋に引き返すべきだったな。ここは、機械が効率のためだけに無音で呼吸してる現場だ」


「文句を言っている場合かい、ルカ」


シオンが端末の有線コネクターをバイパスアレイへ力任せに叩き込んだ。バチリと微弱な青い火花が散り、過熱した基板から焦げたシリコンのツンとした匂いが立ち上る。


「スキャナーの波形には何も映らないと言ったろう。高次元の位相干渉なんて、僕たちの低俗な電子機器じゃ描画の仕様がないんだ」


「データに映らないなら、現場の物理で映せばいい」


ルカは腰の工具帯から高出力のポータブル・プラズマ溶断機を引き抜くと、圧力調整バルブを力任せに逆回転させた。着火スパークを切ったまま、圧着ホース内に充満していた可燃性の高圧アセチレン生ガスを、目の前の無の空間へ向けて勢いよく空吹きさせる。

ゴーッ!と不快な吹き出し音とともに、白く濁ったガスの煙と微粒子が回廊の空洞へ勢いよく噴出していった。

直後、噴き出した白い煙の塊が、空間の「何もない場所」を通過した瞬間に幾何学的な正方形の格子状に裁断された。

切断されたガスの粒子は、目に見えない幾何学的な格子壁に衝突して流速を奪われ、空間に鮮烈な「透明な格子網の影」をくっきりと浮き彫りにした。縦横数十センチ間隔で張り巡らされた、致死性の不可視レーザー網。


「幅二メートル、高さ三メートル……垂直シャフトへと続く通路全体が、この分子切断格子で隙間なく埋め尽くされている。一歩足を踏み入れれば、音もなく肉片のサイコロに加工される算段だ」


ルカは溶断機のバルブを締め、吐き捨てた。


シオンは壁にあるアクセスポートに端末を接続し、キーボードを叩く。


「ダメだね。直接、あの網戸を停止させられるかと思ったけどシステムのガードが硬い」


これまで通ってきた背後の床面から、シャ……と不快な擦過音が響いた。

不活性ノードの装甲と同質の、光を反射しない漆黒の幾何学装甲を纏った多脚型の防衛ボットが三機、床面のシームレスな隙間から滑り出てきた。幾何学的な球体胴体から伸びた爪先が、無音で鏡面床を捉え、人間という「異物」へ向けて光学センサーの焦点を静かに合わせ始める。


「歓迎の清掃員がお出ましだね」


シオンが端末の冷却ファンが高音を上げるのを聞きながら、不眠の目を細めた。


「休眠中だった防衛プログラムが起動したようだね。前は分子切断の網、後ろは古代の殺人機械……文学的な詰みの局面さ」


「ルカ!抜け穴はないのかい!?」


バーバラは硝煙の臭いと安タバコの吐出煙を撒き散らしながら三体の防衛ボット以外に脅威になりえるものがないか周囲を警戒しながら銃を構える。

ルカは床の振動に全神経を集中させ、首元のアナライザーのダイアルを細かく刻むように回した。


「シオン、端末の周波数解析画面を開け。ただし、空間の干渉波形を見るな。切断格子にエネルギーを供給している『回路の脈動周期』だけを追え」


「回路の脈動……? 無駄だよルカ、異星文明のエネルギー供給は完璧だ。電圧の低下も波形の上昇も存在しない」


「完璧なシステムなんて存在しない!」


ルカはアナライザーの接触ノズルを床の幾何学溝へ強引に押し当て、手元に伝わる微細な電磁反発の感触を噛み締めた。


「《敷設者》のシステムは、徹底的な効率主義だ。無駄なエネルギーの常時通電は絶対にしない。空間の分子結合をカットし続けるほどの莫大なエネルギーを流し込み続けるなら、必ずパルス位相の切り替え時に『ミリ秒単位の冷却ギャップ(空白)』が存在するはずだ」


ルカの指先が、アナライザーの針が描く極微小な周期的振幅を捉えた。



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