第17節 不活性ノード
推進スラスターの鈍い咆哮が止むと、脱出船のコックピットに訪れたのは、耳が痛むほどの静寂だった。
フロントガラスの向こう側には、星々の光すら吸い込む漆黒の物体が横たわっていた。先史文明《敷設者》のAIネットワーク網から見捨てられた巨大遺跡「不活性ノード」である。泥船や都市船のツギハギ装甲に見られる溶接痕、あるいは経年劣化によるサビや歪みは一切存在しない。あるのは、光学的になだらかな曲線を描く無傷で巨大な幾何学装甲壁だけだった。
「速度ゼロ、相対距離三メートル。……気味が悪いね、これだけ巨大な物体に寄せてるってのに、重力異常のピリつきすら画面に映らない」
シオンは首にかけた大型ヘッドホンをわずかにずらし、指先で端末のキーボードを軽快に叩いた。青白いモニターの光が、鼻血の痕を雑に拭った彼の頬を照らす。
「手応えがないのは、お前の頭脳のネジが一本飛んでるからだろ。ハッキングで脳味噌を焼き切られて、感覚が麻痺してんじゃないかい?」
操縦席のバーバラが、激しい旋回で汗ばんだ赤毛を払いながら笑う。彼女の手元は、ミリ単位の精度で姿勢制御スラスターの微小レバーを操作していた。脱出船の機体が不活性ノードの外郭ポートへ寸分違わず滑り込んでいく。金属同士が接触した瞬間――通常なら響くはずの激しい衝撃音も、船体を歪ませる重厚な「きしみ」も一切起こらなかった。
「……触れ合ってるのに、何も伝わってこない」
ルカは首元から下げたハンディ型の応力アナライザーを握り締め、靴底を通して足裏の感覚に意識を集中させた。皮製アームカバーで保護された手首を動かし、圧着アンカーの起爆レバーを力任せに叩き落とす。
バシュッ、と圧縮ガスが噴出する不骨な音が響き、強力なマグネット圧着脚と物理アンカーがノードの外壁に叩きつけられた。脱出船と古代遺跡の間に密閉用エアロックジャッキが展開し、ゴムと金属の擦れる重厚な締結音がコックピットを満たす。
「アンカーの爪が噛み込んだはずなのに、歪み波形がゼロだ。船のフレームに反発の加重が一切返ってこない。まるで分厚い豆腐に針を刺したみたいに無音で固定された」
「ルカ、頑丈で文句を言うやつがあるかい。アンタがいつもハンダとプラズマカッターで気休めの継ぎはぎをしてるポンコツ船とは格が違うんだよ」
バーバラは腰のホルスターから旧式の物理実弾銃を引き抜き、シリンダーをカチリと一回転させた。金属的な乾いた作動音が、不気味な静寂を一瞬だけ打ち消す。
「文句じゃない、事実だ。この船のフレームなら、この角度で圧着すれば二ミリは歪んでバイパス配線が焦げる計算だった。……拍子抜けして手が狂う」
ルカは作業着の襟元で汗を拭い、プラズマ溶接機の安全装置を解除して腰に締め直した。
シオンが携帯端末から伸ばした有線コネクターを、エアロックの気圧開放ポートへ力づくで叩き込んだ。手元で微小な青いスパークが飛び、端末の画面に幾何学コードの受動プロトコルが走る。
「気圧差の自動調整、完了。あいにくあちらのシステムは休眠中だ。僕たちの粗末な息吹きを吐き出しても、嫌悪の警報一つ鳴らしてくれない。神様に無視されるのは、案外心地がいいものだね」
「気取った口を叩いてないで、さっさとハッチを開けな、インテリ。安タバコを吸う暇もありやしない」
ルカがシオンの代わりにハッチ側面の物理レバーを掴み、腕の筋を浮き立たせて手前に引き倒した。
プシュー、という気体開放音とともに厚い耐圧扉が重々しく横へスライドし、二度と戻らない暗黒の奥へと通じる暗闇が開かれた。
ハッチの向こうに広がっていたのは、人間の常識を根底から裏切る空間だった。
足を踏み入れた瞬間に感じられたのは、完全な「無臭」だ。泥船に充満していた家畜の排泄物と油の臭いも、はぐれ惑星の硫黄蒸気も、脱出船の焦げついた基板の異臭すら存在しない。呼吸する空気が冷たく、無菌室のように無味乾燥としていた。
「広すぎる……大聖堂ってのも、こんなに天井が高いのかい?」
バーバラが実弾銃の銃身を下げぬまま、息をのむように天井を見上げた。
幾何学的な曲線で構成された主構造回廊は、人間にとっては途方もなく巨大な内部空洞だった。床面は傷一つない鏡面状の装甲で覆われ、壁面には継ぎ目もボルトの頭も一切見当たらない。天井の遥か高みから、青白くほのかな幾何学ラインの光が薄っすらと照射され、3人の影を足元に長く引き伸ばしている。
カツン、カツン。
バーバラの厚底ブーツが床を打つ音が、過剰なほど明瞭に回廊の奥へと反響し、遥か彼方で消えていった。
「音が逃げない。音響の反射効率まで狂ってる」
ルカは作業着の袖を捲り、素手で壁面に触れた。ひんやりとした異種金属の質感だけが皮ふに伝わってくる。首元のアナライザーを壁面に強く押し当て、ダイヤルを回して内部構造の微振動を計測した。
だが、表示されるデジタル数値は「0.000」のまま微動だにしない。
「……信じられない。このスケールの建造物なら、宇宙線の圧力や自重、遠くの恒星からの潮汐力で、わずかなミクロン単位の応力歪みが生じるはずだ。だが、ここには『きしみ』がない。完璧な構造力学の塊だ。構造バランサーの仕事なんて、最初から存在しない世界だ」
ルカの口から、無意識のうちに乾いた溜息が漏れた。基礎理論を知らず、足裏に伝わる船体の悲鳴と感覚だけで補強を重ねてきた彼にとって、歪みの存在しない構造体は神聖さを通り越して不気味な異物でしかなかった。
「素晴らしいね。僕のヘッドホンから、あんなに不快だった寄生波通信のノイズが完全に消えたよ」
シオンは首からかけた大型ヘッドホンを両手で押さえ、うっとりとした表情で目を閉じた。
「パラサイト・バンドも、管理局の暗号波も、何も届かない。完全な静寂だ。文字通りの情報の真空地帯だよ。……まるで、宇宙のゴミ箱の底に潜り込んだ気分だ。僕たちの惨めな悲劇すら、ここには届かない」
「浸ってるところ悪いがね、シオン。その綺麗な鏡みたいな床に、あたしたちの泥まみれの靴底が汚い足跡をつけてるよ。管理人が起きてきたら、真っ先に清掃レーザーで焼かれるのはそのひょろい足だ」
バーバラが冷やかすように言って、実弾銃のシリンダーを再びカチリと鳴らした。
「安心したまえ、バーバラ。システムが休眠している以上、僕たちは彼らにとって『泥』ですらない。ただの不活性な物理質量さ。……まあ、うっかりこの綺麗な床にツバでも吐き捨てて、自動清掃ボットのスイッチが入らない限りはね」
シオンは端末のホログラム画面を目の前に展開させ、不活性ノード内部の概略データを走査し始めた。青白い光が、鏡面床に幾重もの複雑な図形を映し出す。
「見ろよ、ルカ。この回廊の先、三千メートル奥に巨大なデータハブがある。現行のAIネットワーク網から切り離された、手つかずのメインフレームだ。あそこなら、僕たちが探し続けてきた『世界のバグ』の痕跡が、そのまま腐らずに残っているはずだ」
「三千メートルか。物理的な障害物はなさそうだが……足元に気を配れ。きしみが聞こえないってことは、床が抜ける予兆も手元に伝わらないってことだ」
ルカはアナライザーの感度を最大まで引き上げ、腰の溶接機のノズルを指先で確かめた。
無音と無振動の完璧な幾何学空間の中、3人は己の足音だけを響かせながら、漆黒の回廊の奥へと一歩ずつ足を進めていった。
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ルカはアナライザーの接触ノズルを壁面の幾何学溝へ押し当て、手元でホログラムの幾何学透過図面をスライドさせた。
「ハブの真下に垂直シャフトがある。そこを下りれば、三千メートル奥のメインフレームへ一直線だ。構造的な欠陥や落石の危険はない。物理的な障害がないこと自体が、逆に手を狂わせるがね」
「贅沢を言うなよ、ルカ」
シオンは端末の画面を指先で弾き、ローカルバッファにノード全体の地図データを同期させた。
「僕たちがどれだけ土足で汚そうと、この古代のシステムは僕たちを嫌悪することすら忘れている。完全な無視さ。神様に無視される快感ってのを、君にも味わわせてあげたいよ」
三人は環境制御ハブを抜け、最深部の中枢データハブへと続く巨大な垂直シャフトの縁へと到達した。
天井も底も見えない巨大な縦坑の壁面には、暗闇の奥へと向かって青白く光る幾何学的なラインが、規則正しいピッチで途方もなく連なっていた。その静謐な光景は、人類の泥臭い宇宙船やテラフォーミング施設とは根本的に異なる、冷酷なまでの完璧さを突きつけていた。




