第16節 静寂の宙域(後編)
「軌道上の静止座標に入った。追撃のサインはない。……いや、そもそもあのボットどもは、僕たちを追うという概念すら持っていないようだ。完全に『清掃完了』として作業を継続している」
シオンはルカに報告する。
「そうか」
ルカはハンダごてを押し当て、溶け落ちかけた配線バイパスを強引に短絡させた。パチリと青い火花が弾け、焦げた匂いが鼻を突く。
「シオン。お前の言う通りだったよ」
「何がだい?」
「システムには抗えない」
ルカは手元のアナライザーを引き寄せ、ゼロリセットのボタンを押した。だが、液晶画面に表示された数値は、微かな手振れに合わせて不規則に揺れ続けた。手が、震えていた。
「どれほど船を修理しても、どれほど正しく生きようとしても、あいつらの工事が始まれば一瞬でゴミになる。権力のペテンも、人間の誇りも……物理質量のアームひと振りで終わりだ。俺たちがやってきたことは、最初から全部無駄だった」
シオンが短く息を吸う音が聞こえた。いつもなら即座に返ってくるシニカルな軽口も、気取った文学的メタファーも、そこにはなかった。ただ、電子ノイズの低い唸りだけがコックピットに満ちていた。
「……無駄だと分かっていて、ボルトを締め直しているのかい?」
しばらくの沈黙の後、シオンが静かに尋ねた。
ルカはプラズマ溶接機を置き、焦げたグローブで額の汗と油を拭ぐった。手袋についた金属粉が頬を削り、鈍い痛みが走る。
「締めなきゃ、この船が崩壊して俺たちが死ぬ。それだけの計算だ」
ルカは冷えた作業着の襟を立て、歪んだバイパスフレームを力任せに蹴り飛ばして位置を直した。
「シオンが見つけた『不活性ノード』に向かうぞ」
ルカは胸元のアナライザーを引き寄せ、接合ノズルからの漏れ電圧を示すインジケーターを凝視した。
「抗うためでも、歴史を刻むためでもない。ただ、俺たちが明日も息をして、この泥船を動かし続けるために飛ぶ」
窓の外に広がるのは、恒星の光すら途絶えた完治不能の暗黒宙域だ。その深淵を背景に、崩落し続ける星の破片――かつて人間たちが「家」と呼び、誇りを掲げて散っていった大地の残骸が、無数のデブリとなって不規則な軌道を描いて漂っていた。
「座席のベルトを締め直しな、野郎ども!操縦桿がへし折れるのが先か、あの暗闇の穴に滑り込むのが先か……勝負の時間だ!」
バーバラが歪んだ操縦桿を両手で固く握り締め、足元のRCSスラスターペダルを連続で踏み込んだ。
「計算上、僕たちの骨が折れる確率の方が高いね」
シオンはシニカルな笑みを浮かべ、実行キーを力強く叩きつけた。過熱したデータアレイのファンが悲鳴のような高音を上げ、不活性ノードへのルートシークエンスが起動する。
脱出船は炎上する星を背に、過充電されたスラスターの火柱を漆黒の真空へと吹き放ち、未知なる「不活性ノード」が待つ暗黒の深遠へ向けて、まっすぐに跳躍を開始した。
---
シオンの指先が即座にキーボードの上を滑った。
「……来たよ。パラサイト・バンド(寄生波通信)のノイズの裏に隠れていた、あの『幽霊』だ」
フロントガラスの遠方、漆黒の闇の只中に、巨大な幾何学的な陰影が静かに姿を現した。
それは星の光を一切反射しない、圧倒的な漆黒の建造物だった。シームレスな装甲壁が精密な正八面体を組み合わされたかのように組み合わされ、人間が建造したどの宇宙都市や工場船とも根本的に異なる静謐さを放っている。周囲の宙域には、通常存在するはずの通信波も、エンジンの排気熱も、防衛アレイの走査レーダーすら存在しない。現行のAIシステム「環網」から完全に切り離され、見捨てられた古代遺跡——「不活性ノード」だった。
「音がない……」
ルカは思わず呟き、アナライザーの感度を最大まで引き上げた。
1000年分のツギハギと疲労破壊のきしみに満ちた泥船で生きてきた彼にとって、その構造体から伝わってくる物理データは異質そのものだった。金属の膨張音も、構造フレームの応力歪みも、内部流体の振動すらない。計算式の上でしか存在し得ないような「完璧な平衡状態(ゼロ歪み)」が、そこに鎮座していた。
「完璧な沈黙さ」
シオンは大型ヘッドホンを耳に押し当て、ノイズメーターが一直線に平坦化している画面を指差し、深く息をのんだ。
「管理局の目も、狂ったAIの検索ルーチンも、ここには届かない。世界という巨大なシステムの隙間に開いた、完璧な空白の領域だ 」
バーバラは操縦桿を両手で握り直し、推力レバーをセンチ単位の精度で引き戻した。補給したばかりのオーバーロード電力が補助スラスターへ滑らかに流れ込み、機体は死んだ古代遺跡のエアロック口へと吸い込まれるように減速していく。
「綺麗すぎて気味が悪いね。だが、あいつらに追い回される地獄よりはマシだ」
バーバラは安タバコの吸い殻をコンソールの灰皿へ押し潰し、獰猛な笑みを浮かべた。
「さあ、乗り込むよ。神様の隠し持った宝箱を、根こそぎ盗み出してやるためにね」
ツギハギの脱出船は、暗黒の中に佇む完璧な幾何学構造体へ向けて、静かにその船体を滑り込ませていった。




