第16節 静寂の宙域(前編)
脱出船の機内は、狂ったような上昇Gと機関部が上げる金属の悲鳴で重く揺れていた。
「手すりから手を放すんじゃないよ! このボロ船の骨組みが空中分解しなきゃ、あと数十秒で大気を抜ける!」
バーバラが歪んだ操縦桿を両手で力づくで抑え込み、推力レバーを床まで蹴り込んでいた。フライトジャケットの隙間から覗く首筋には脂汗が光り、コックピットには安酒と硝煙、そして摩擦で焦げた絶縁シートの臭いが充満している。
「高度二千八百……地表の重力波異常がピークを越えた。だが安心するには早いね、眼下の『工事現場』からは依然として桁違いの熱源反応が出続けている」
シオンはシートベルトに身体を縛り付けられたまま、目の前で赤く点滅するポータブル端末の打鍵を止めていなかった。大型ヘッドホンから漏れ出すノイズは、かつてないほど激しくピリついている。不眠のせいで青白い顔に刻まれたクマが、モニターの光の中で落ち窪んでいた。
ルカは首から下げた応力アナライザーの数値を片手で手探りしながら、コックピットの汚れた展望ウィンドウへ顔を寄せた。皮製アームカバーの袖でガラスに付着したオイルと霜を強引に削り落とす。
眼下に広がる「はぐれ惑星」の白銀の世界は、いまや地獄のような幾何学模様に変貌していた。
地表を何重にも引き裂く赤熱したドリル痕。地下空洞から吹き出す巨大な蒸気と黒煙の柱。そして、その只中に群がる《敷設者》の掘削ボット群――多脚型の巨躯と回転ドリルを備えた巨大機械たちが、淡々と、寸分の狂いもなく地表を「整地」していた。
つい数時間前まで、土と熱気に溢れていた地下都市の姿はどこにもなかった。手作りの蒸気パイプも、岩壁に埋め込まれた船体モジュールも、そして旧式ライフルを構えて大義を叫んでいたパラテラフォーマーたちの姿も、すべてはボットの足元で砕かれ、ただの平坦な「鉱物スラグの層」へと均されていく。
「……すり潰されたよ。文字通り、何ひとつ残さずにね」
シオンが乾いた声で呟き、キーボードを叩く指を微かに緩めた。
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コックピットの隅には、はぐれ惑星の地下都市でパラテラフォーマーたちから譲り受けた重構造用ボルトや、手作りの蒸気パイプのジャンクパーツが、粗末な木箱に放り込まれている。地熱と土の匂いがかすかに残るその鉄くずの山を、ルカは冷えた合成酒のグラスを手にしたまま見つめていた。
「あの地下都市は、もう跡形もないな」
バーバラが安酒を喉に流し込み、硬い金属テーブルにグラスを力任せに叩きつけた。鋭い音がコックピットに響く。
「レールガンに削岩爆薬……威勢だけは一人前だったが、《敷設者》の掘削ドリルにかかっちゃ、干し肉みたいにすり潰された。あいつらは最後まで、自分たちの『家』を守る大義とやらを叫んでたよ」
「大義、ね」
シオンはテーブルの上にパラテラフォーマーの長老から託された旧式のデータディスクを置き、指先でコマのように回転させた。ディスクが鈍い金属光を放ちながら回る。
「彼らにとっては、あの凍てつく岩盤こそが世界のすべてであり、譲れない誇りだった。だが、あの機械にとっては違った。ただの『進行方向にある密度の高い障害物』さ。人間が蟻塚を踏みつぶす時に、蟻のイデオロギーなんて気にするかい? 正義も大義も、あの絶対的な効率主義の前では、システムのエラー音にすらならない」
「正義で腹が膨れるなら、泥船のスラム街は今頃天国になってるさ」
ルカはハンダごてを握り直し、先ほどの逃走劇で端子が焼き切れた応力アナライザーの基板に向き合った。細い鉛の糸が熱せられ、甘いハンダの匂いが立ち上る。
「あいつらは誇り高く死んだんじゃない。ただ、物理的な質量とエネルギーの計算式に敗北して消えたんだ。いくら強い感情を持っていようが、鋼鉄のドリルを跳ね返す装甲もなければ、熱波を逃がすバイパスもない。なら、結果は最初から一つしかない」
「冷たいねぇ」
バーバラは目を細め、実弾銃のシリンダーをカチリと回転させた。金属とガンオイルの重い匂いが広がる。
「あの連中は、あたしたちに資材をくれて、脱出の時間を稼ぎ出してくれたんだぞ」
「だからこそ、俺たちは生きているんだ」
ルカは作業の手を止め、冷めた眼光でバーバラを見つめ返した。
「あいつらの死を美化して『仇を討つ』だの『システムを破壊する』だのと言い出したら、俺たちもあの縦坑の中で砕けた岩くずと同類になる。壊れた機械を前にして怒り狂うのは無意味だ。必要なのは、そいつの構造を理解し、隙間をくぐり抜ける技術だけだ」
シオンは回転を止めたデータディスクを手のひらで受け止め、首をすくめた。
「同感だね。神様を倒すヒーローごっこは、おとぎ話の絵本の中に取っておくべきだ。僕たちはただの害虫で、寄生虫だ。なら、寄生虫らしく、この狂った世界のすき間を完璧に盗み出して生き残る。それが、僕たちの唯一の生存確率だろ?」
バーバラはしばらく二人を睨みつけていたが、やがて「ハッ」と短く鼻で笑い、タバコの灰を床に落とした。
「……違いない。あたしの船の舵はあたしが握る。誰かの決めた運命や、機械の都合で野垂れ死ぬのは御免だ。アンタらの冷酷な計算とあたしの操縦で、どこまでも逃げ切ってやるよ」
「逃げるんじゃない」
ルカは胸の奥で冷ややかに理解していた。
パラテラフォーマーたちの誇り高き死。彼らが掲げた「大地と共に生きる」という大義。自分を逃がすために散っていった人々の泥臭い決意。
それらすべては、圧倒的な質感を持ってルカの記憶に刻まれている。しかし、この手元で火花を散らす溶接機や、いましがた惑星をすり潰した《敷設者》の掘削ボットにとって、そんなものは何の意味も持たない。
質量、エネルギー、応力、周波数。
宇宙を支配しているのはそれだけの冷徹な物理法則であり、人間がどれほど気高いイデオロギーや正義を叫ぼうとも、《敷設者》の膨大な演算式の中では一項のノイズにすらなり得ないのだ。




