第15節 イデオロギーの無意味さ(後編)
数十トンはある巨大な岩盤の塊が幾重にも落石となって叩きつけられ、修理を終えたばかりの脱出船の耐寒装甲板に重い打撃音を響かせる。破断した地熱パイプから吐き出される白濁した蒸気と有毒な硫黄ガスが、地下都市を視界ゼロの焦熱の地獄へと変えていた。
「暖機運転なんて悠長なことをやってる場合じゃないよ! ルカ、乗るなら今すぐ跳べ!地下都市全体が削岩ラインに呑み込まれる!」
操縦席のバーバラが絶叫し、メインエンジンの出力を力任せに限界まで押し上げた。過充電された補助ロケットが咆哮を上げ、機体が強烈な接地振動に身震いする。彼女の赤い髪は汗で額に貼りつき、耐圧フライトジャケットからは焦げたガンオイルと猛烈な体臭が立ち上っていた。
「崩落完了まであと一八秒!」
シオンは冷却ファンの死んだポータブル端末をコンソールへ叩きつけるように置き、キーボードを狂ったような速度で打鍵した。
「上空の掘削ボット三機が、この船を次の『破砕・吸引領域』に指定した! 誤差は零コンマ数秒だ。立ち止まって論文の構想を練る余裕すら僕たちには残されていないよ!」
ルカは耐熱グローブを装着した右手でエアロックの開閉レバーを握り締め、半開きのハッチから激しい熱風が吹き込むキャットウォークを見下ろしていた。首元のアナライザーの針が、地下都市全体にかかる破断圧力を示して狂ったように振れている。足裏からは、岩盤がすり潰されていく超低周波の地鳴りが骨髄まで振動させていた。
蒸気のカーテンを切り裂き、一人の若いパラテラフォーマーの技師が血とサビに塗れた作業着を揺らして駆け寄ってきた。先ほどまでスパナを抱えてボルト締めを手伝っていた男だ。男は潰れた腕を抱え、必死の面持ちで脱出船のタラップへ手を伸ばした。
「頼む……!助けてくれ!俺たちの街が……!」
ルカは息を呑み、作業着の袖で油汗を拭うと、ハッチの縁から身を乗り出して男の手へ手を差し伸べた。
だがその瞬間――男が昇ってきた縦坑が崩落し始める。
ドガァァン!と重厚な砕石音が響き、漢の足元の岩盤が崩落し、男とルカを決定的に分断した。男の叫び声は、地下都市で整地するドリルの猛烈な重圧音と地熱蒸気の噴射音の中に一瞬で掻き消された。
「ルカ! ハッチを閉めろ!」
バーバラの叫びが機内に響く。
ルカは指先を微かに震わせたが、眼下で展開された物理的観察事実から視線を逸らさなかった。人間の手も、手作りのスパナも、ボットにとっては平均硬度何ミクロンかの障害物でしかない。
ルカは歯を喰いしばり、油と焦げた圧着グリスのついた手でハッチの緊急閉鎖レバーを床板へ向けて叩き落とした。
ガチャン!と不快な密閉音が響き、重厚な気密ハッチが完全に噛み合う。外の地獄の惨状と悲鳴は、分厚いツギハギの装甲板によって遮断され、一瞬にして冷酷な密閉空間が完成した。
「推力全開!衝撃に耐えろ!」
バーバラが両手で操縦桿を引き絞り、足元のRCSスラスター用ペダルを猛然と踏み込んだ。
---
脱出船は、ロケットエンジンの火柱を吹き放ちながら垂直上昇を開始した。
フロントガラスの外は、崩れ落ちる巨岩と、縦坑の壁面を食い荒らす掘削ボットの群れで埋め尽くされていた。
「左スラスターのノズル圧が上がらない!バーバラ!」
シオンがシートベルトに胸郭を締め付けられながら叫んだ。キーボードを叩く彼の指先に、過熱したデータアレイからの不快な静電気とオゾン臭がバチバチと弾ける。
「黙って手すりに祈ってな! あたしの操縦桿に安全マージンの目盛線なんて刻まれてないんだよ!」
バーバラは狂暴な笑みを浮かべ、シートから半ば身を乗り出す勢いで操縦桿を限界まで押し倒した。残量わずかな姿勢制御ガスが断続的に爆ぜ、機首が数ミリ単位のシビアさで壁面の突起をかわす。猛烈な加速度(G)が3人の肺腔を圧迫し、機内のツギハギのフレームが「ギギギ……」と破断寸前の悲鳴を上げた。
猛吹雪と地熱蒸気が吹き荒れる「はぐれ惑星」の黒煙を破り、脱出船は放たれた砲弾のように漆黒の空へと飛び出した。
機内を包んでいた凄惨な重低音が潮が引くように消え去り、慣性飛行に入る。過熱したエンジンの高音ファンと、3人の荒い呼吸音だけが暗いブリッジに響いていた。
ルカはシートに深く身を沈め、首元のアナライザーの針が「垂直Gゼロ」へと戻るのを無表情で見つめていた。焦げた配線と有毒な排気ガスの匂いが、気道に強く残っている。
「下を見ろよ……美しい整地作業の完了だ」
シオンが着崩したジャケットの襟を正し、首の大型ヘッドホンを片耳から外して下部の監視モニターを指さした。端末の画面には、幾何学的な青いホログラム波形が淡々とスクロールしている。
汚れたフロントガラス越しに、眼下の白銀の地表を見下ろす。
雪氷の割れ目から吹き出していた黒煙と地熱蒸気は、上空から降り立った無数の掘削ボット群の手によって、何事もなかったかのように平坦にならされ始めていた。人間たちが数百年かけて築き上げた地下都市も、そこで紡がれた歴史も、大地と共に生きるという矜持も――すべては均一な密度の「岩盤」として処理され、無機質な幾何学模様の平地へと姿を変えていく。
ボット群は一切の感慨も誇りもなく、ただプログラムされた次の採掘区画へと、一定のテンポで前進を続けていた。
「大義も、歴史も、神様も……あいつらのドリルにとっては全部ただのゴミか」
バーバラは操縦桿から手を放し、手垢と汗で濡れたグリップをポケットの布巾で拭いながら、乾いた悪態を吐き捨てた。
「虚しいねぇ。あたしたちが命がけで逃げ回ってるこの宇宙には、最初から人間の都合を聞いてくれる耳なんて一つも付いてないらしい」
ルカは答えず、首元のアナライザーをゼロリセットした。カチリと小さく乾いたギアの音が、暗いブリッジに響く。
どんなに熱い感情を叫ぼうと、物理法則と無機質なシステムはただ淡々と数値を処理し続ける。崩壊していく炎上惑星の影を背に、ツギハギの方舟は、ただ生き残るためだけの冷酷な計算軌道に乗って、漆黒の暗闇へと加速していった。




