第8節 深淵を泳ぐクジラ(後編)
「どれほど巨大だろうと、物理法則に従って動いてる機械に過ぎない。あの巨体の腹の中には、俺たちの船を何千回ワープさせても余りあるエネルギーが流れてる」
ルカの目つきから冷めた諦観が消え、職人の冷徹で泥臭い算段が宿っていた 。
「本気で言ってるのかい、ルカ」
シオンの膝の上で、ポータブル端末の冷却ファンが悲鳴のような高音を上げて回っていた。青白いディスプレイには、眼前を通過していく超巨大貨物船の概略構造図と、その内部を奔流となって流れる高密度エネルギーの熱分布波形が小刻みに描かれていた。
「僕たち人間が《敷設者》から盗電する時は、ワームホール生成時に外縁部へ漏れ出る微弱な残留電力を、遠くからストローで吸うようにかすめ取る。まあ、神様のポケットから落ちた小銭を拾うような控えめな窃盗だよ。……だが、僕たちの死にかけた主機関を完全に再起動させ、遥か彼方の『不活性ノード』までワープで跳ぶとなると話は別だ」
シオンは凍えた指先でメカニカルキーボードのキーをひとつ叩き、画面に浮かび上がった赤色と青色のデータレイヤーを切り替えた。
「小銭拾いの説明はいい。要点を言え、インテリ」
バーバラが操縦桿を両手で握り直し、シートの背もたれに激しく身体を押し付けながら吐き捨てた。冷えた機内に、彼女のフライトジャケットに染みついた安酒とガンオイルの匂いが途切れ途切れに漂う。
「要するにだ」
シオンは首にかけた大型ヘッドホンの位置を指先で直し、ディスプレイの最深部——幾何学的な装甲の奥深くに赤く明滅する巨大な熱源を指で突いた。
「ルカがやろうとしてることは、《クジラ》の腹の中に潜り込んで、この熱源——エネルギーコアから直接を盗電するってこと。かすめ取るんじゃない、強奪するってことさ」
「ワープエネルギーを確保するにはこれしかない」
機関室の暗がりから、ルカが足音を荒々しく響かせてコックピットへ戻ってきた。肩には補充用のエネルギータンクを担ぎ、手にはずっしりと重い高圧バイパスケーブルの極太なコネクターと、油で黒ずんだモンキーレンチが握られている。
バーバラは操縦席のフットペダルをブーツの踵で踏み込み、残りわずかな姿勢制御スラスター(RCS)の残量インジケーターをギラついた目で見つめた。
「いいねぇ。コバンザメがクジラの肉を喰いちぎる最高の見せ場だ。冷え切った命の残り時間を気にするより、ずっとマシな博打だな」
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脱出船の機体が、小刻みに、そして激しく震え始めた。
バーバラが微小推力スラスターのノズルを交互に点火させ、慣性推進だけで《クジラ》の進行方向へと船体の機首を強引に合わせ込んでいく。
フロントガラスの視界すべてが、光を一切反射しない黒々とした先史文明の超極厚装甲で塗り潰された。巨大な建造物の影に入ったことで、遠方の恒星の微かな光すら遮られ、コックピット内は完璧な暗黒と端末の青い光だけが支配する密室と化した。
「距離、五〇〇メートル……速度差、ノット単位で同調中」
シオンは首元から降ろしたヘッドホンから漏れる、重力波パルスとドップラー音の混ざり合った不快なノイズに眉をひそめた。凍傷で感覚の失われかけた指先が、キーボードの上で正確な入力を繰り返す。
「バーバラ。あいつの外殻にあるメンテナンス用の溝の幅は、僕たちの船体がギリギリすっぽり収まる寸法だ。一ミリでも傾けば、装甲板と装甲板の間に挟まって、この船はペシャンコの缶詰になる。僕の繊細な骨組みが粉々になる前に、着陸を成功させてくれよ」
「黙ってキーボードを叩いてな! あいにくあたしの辞書に『安全基準』の四文字は載ってないんだ!」
バーバラは狂ったような慣性Gに顔を歪ませ、シートベルトが胸肉に食い込むのも構わず、操縦桿をミリ単位の精度で押し込んだ。
「ボッ……ボボッ……!」
残量二パーセントを切ったRCSスラスターが、断続的なガスの噴射音を上げる。巨大な黒い壁面が、怒涛の勢いで迫ってくる。垂直にそびえ立つ鋼鉄の崖——その表面に走る深さ数十メートルの溝の隙間へ、脱出船の細長い船体が吸い込まれるように突入した。
「今だ! ルカ、アンカーを打て!!」
バーバラの怒号と同時に、ルカは床面に固定された圧着アンカーの機械式トリガーを、作業ブーツの底で踏み抜いた。
ドガンッ!!
激しい打撃音とともに、船底から打ち出された四本の超硬合金製マグネット・アンカーが、《クジラ》の無機質な装甲板の隙間に食い込んだ。
次の瞬間、数千キロの巨体が引く強烈な慣性運動エネルギーが、ワイヤーを通じて脱出船のフレーム全体へと直撃した。
「ガアッ……!?」
強烈な衝撃が三人の身体を叩きつけた。ルカは配電ブロックの鉄パイプに両腕を巻きつけ、歯を食いしばって吹き飛ぶ身体を支えた。足裏から、ツギハギの補強鉄板が「ギギギギギ……!」と断末魔のような悲鳴を上げるのが直接伝わってくる。溶接部のクラックから微小な火花が散り、焦げた塗料の臭いが鼻をつく。
シオンは端末を胸に抱きかかえたまま、床へ転がり落ちるのを間一髪で耐えた。
「……素晴らしい操縦だ、バーバラ。僕の頸椎が折れなかったこと以外は、完璧に物理法則の悪夢通りだよ」
「へっ……文句を言う前に、表のアクセスポートをハックしな!」
バーバラは荒い息を吐きながら操縦桿から手を離した。その両手は激しい振動で小刻みに震えていたが、その唇には凶暴な笑みが浮かんでいた。
脱出船は今や、《クジラ》の深大な背中に刻まれた一筋の溝の中に、マグネットアンカーと極太ワイヤーでがっちりと固定されていた。
《クジラ》の絶対的な巡航速度と完全に同調し、暗黒の宇宙空間を滑航する巨大な体躯の影で、脱出船は静かに息を潜めている。
ルカは耐熱グローブを脱ぎ捨て、荒々しい呼吸を整えながら、船底から伸びる高圧バイパスケーブルの末端を引き寄せた。
「固定完了だ。……ここまでは前座に過ぎん」
ルカの冷えた瞳が、装甲の隙間から覗く、巨大船内部へと続くメンテナンス用アクセスポートの暗がりを射抜いていた。
「この化け物の皮を剥いで、内部のエネルギーコアまで辿り着く。手筈通りに行くぞ」




