第8節 深淵を泳ぐクジラ(前編)
金属の骨組みが縮み込む、甲高い「ピシッ……」という微細な破砕音が、漆黒の機内に断続的に響いていた。
熱源を失った脱出船の内部は、真空の底へと沈み込むように急速に冷え込んでいた 。壁面のむき出しの鉄板には白い霜の結晶が毒の華のように這い広がり、吸い込んだ空気が気道を刺すように凍てつく。
ルカは薄暗い機関室の床に両膝をつき、焦げついた作業手袋を脱ぎ捨てて氷のように冷えた手工具を握りしめていた。口から吐き出す息は白い塊となって空間に漂い、指先の皮膚が圧着シリンダーの鋼鉄にピリピリと貼りついて痛む。
胸元のアナライザーの液晶表示はすでに凍結で反応を失いかけていたが、ルカは目視に頼らず、スパークを散らす予備バッテリーのターミナルへ太い高圧ジャンパー線を力任せに叩き込んだ。
バチチッ!
青白い火花が弾け、焦げついた銅線と溶けた被覆のツンとした悪臭が霜の降りた空気に一瞬だけ立ち上る 。
「有線バイパスの電圧、一二ボルト……これで生命維持の最低限の酸素循環だけは繋いだ。文句があるなら、動かなくなった主機関の炉心に言ってくれ」
ルカは火傷痕の残る首筋を引きつらせ、短絡させた接続部に耐熱テープをぐるぐらに巻きつけながら、冷ややかな声でインナーコムへ吐き捨てた。
コックピットの薄暗がりの中、シオンは着崩したジャケットの襟を頭まで引き上げ、首にかけた大型ヘッドホンを両耳に深く押し当てていた。
ひょろりと伸びた膝の上にはポータブル端末が置かれ、超省電力モードの青白いディスプレイ光だけが、寝不足で色濃い彼のクマと青ざめた唇を怪しく浮かび上がらせている。凍える指先がメカニカルキーボードの上を力なく叩くたび、乾いた底打ち音が小さく響いた。
「僕たちの知的なサバイバル生活も、いよいよロマン主義文学の佳境に入ってきたね」
シオンは有線コネクターの端子を息で温め、過熱でショートしかけた受信アンプのポートへ荒々しく叩き込んだ。
「朗報だよ、メカニック。僕たちの脳細胞が凍りついて思考を止めるのが先か、二酸化炭素中毒で夢の世界へ旅立つのが先か、絶妙な平衡状態が保たれている。論文を一本書くには最高の環境だが、あいにくキーボードを叩く指の関節が固まってエンターキーが押せないことだけが不満さ」
「能書きを吐く余裕があるなら、その冷え切った脳みそで熱源の足しになる計算でもしてみろ」
コックピットの操舵席で、バーバラがフライトジャケットと安酒の匂いが沁みついた古びた毛布を頭からすっぽりと被り、毛布の隙間から不敵で鋭い眼光を覗かせた 。
彼女は手持ち無沙汰に腰の旧式実弾ピストルを引き抜き、固くなったシリンダーを親指でカチリ、カチリと一発ずつ回していた。金属が擦れ合う微かな音が、死んだ宇宙船の静寂に不気味に溶け込む。
「あたしの足の指先はとっくに感覚を放り出してるんだよ。このポンコツな操縦桿が固まって二度と動かなくなる前に、なんでもいいから暖炉の代わりになる火柱を拝ませてほしいね 」
「無茶を言うな」
ルカは機関室から身を起こし、霜で滑る鉄格子を踏みしめながらコックピットへ戻ってきた 。作業着のアームカバーで額の凍りついた汗をガリガリと削り落とす 。
「補助スラスターの残留ガスは残量二パーセントだ。迂闊に吹きかえせば、俺たちは暖を取るどころか、この暗闇の中で永遠に旋回する冷凍肉の塊になる」
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その時、シオンの膝の上の端末から、不規則で低いパルス警報が小さく鳴り響いた。
画面の隅で明滅する緑色の波形が、微小な重力波の歪みを感知して不自然に跳ね上がっている。
シオンは片耳のヘッドホンを直し、凍える手つきでノイズフィルターのアナログダイヤルを削り落とした。
「……冗談じゃない。僕の不眠症が見せている幻想でなければいいんだがね」
シオンの声から、いつもの気取ったシニカルさが消え、硬い緊張が混ざり込んだ。彼はディスプレイの拡大数値を指で指し示し、二人へ端末を向けた。
「前方宙域に質量反応。……いや、『質量反応』という言葉すらおこがましい。言葉通りの化け物が、僕たちの漂流軌道へ向けて直進してくるよ 」
ルカは身を乗り出し、皮製アームカバーの硬い革の縁で、コックピットの厚いフロントガラスにびっしりとこびりついた白い霜を力任せに削り落とした。
ガリガリッ、と氷の粉砕音が響き、濁った強化ガラスの向こう側に広がる漆黒の真空が露わになる。
そこには、遠方の恒星の光すら届かない、完全な密室の暗黒が広がっているはずだった。
だが、星々の光が次々と不自然に「消えて」いくのが見えた。
暗闇の奥底から、光を一切反射しない幾何学的な巨大な陰影が、音もなく姿を現したのだ。
無人で空間を滑航する《敷設者》の自動運航エネルギー輸送船。全長数千キロメートルにおよぶ超巨大貨物船だった。
人類が誇る最大級の軌道ステーションや都市船すら、その船体の末端に付着した微小な傷にすら及ばない圧倒的なスケール差。直線と平面だけで構成された装甲板は、神話の巨獣というよりも、宇宙空間に投棄された無機質な大地そのものだった。
「……ハッ、冗談だろ」
バーバラは被っていた毛布を床へ蹴り飛ばし、シートベルトを力任せに締め直すと、冷え切った操縦桿を力強い両手で固く握りしめた。精悍な顔に、野生的な狂気が走る。
「船だって言いたいのかい、あれが? 山どころか、一つの星がそのままこっちへ滑り込んできてやがるじゃないか!」
その膨大な質量が引き起こす微小な重力差により、脱出船のツギハギの装甲板が「ギィ……ギギ……」と低く軋み声を上げた。
ルカは首元のアナライザーを握り締め、フロントガラスのすぐ眼下を通り過ぎていく黒々とした装甲表面の広大な溝を見つめた。
圧倒的な質量の巨体が放つ圧迫感に気圧されながらも、ルカの鋭い観察眼は、巨大な構造体の接合部に走る青白いエネルギーラインの微かな明滅を捉えていた。
「大きいからなんだ。バーバラ、あれに接舷してくれ」
ルカは冷ややかな声を落とし、足元の工具箱から圧着アンカーと太いケーブルを引き抜いた。




