第7節 暗闇への跳躍(後編)
デブリの海を切り裂いて突進する脱出船の背後で、残った一隻の特務巡視船が高出力の光学照準を再び固定した。照準完了を示す不吉な朱色のレーザー光が、汚れたフロントガラスの表面を真っ赤に染め上げる。
「デブリの海を抜けたよ! だが朗報とは言えないな」
シオンはポータブル端末のメカニカルキーボードを狂ったような速度で叩きつづけた。カチャカチャ、カチャカチャ、と甲高い打鍵音が狭いコックピットに響き渡る。
「敵艦の長距離量子砲が再充填を完了した。あと十五秒で僕たちは宇宙の塵として統計データに記録される。……あいにく、墓碑銘を推敲する時間はなさそうだ」
「なら、力技で宙域を飛び越えるまでさ!」
バーバラは両足でペダルを踏み込み、狂ったように振動するメイン操縦桿を腕の筋肉を隆起させて力任せに抑え込んだ。旋回時の強烈な横Gがシートベルトを通して彼女の胸郭を苛烈に圧迫し、汗と安酒の匂いが混ざり合った荒い呼吸がコックピット内に飛び散る。
「シオン! 短距離ワープアンプ回路の安全ロックを叩き折れ! 機体がせん断力で八つ裂きになる前に空間を歪めろ!」
「言われるまでもない! すでに過電流のバイパスを直結させている!」
シオンはキーボードの特定のキーを力任せに連打した。バチバチッ!と携帯アレイの拡張ポートから青白いスパークが弾け、彼の頬をバチリと焼く。シオンは眉一つ動かさず、画面上にスクロールするワープバブルの歪み係数を凝視した。
「歪曲レート、三百パーセントオーバーロード! 確率計算なんて無視した突入だ! 成功すれば命拾い、失敗すれば次元の隙間で擦り下ろし器のチーズさ!」
「へっ、上等じゃないかい!安全基準の神様なんかより、あたしのこの両手の方がよっぽどアテになる!」
バーバラは歯を剥き出しにして狂暴に笑うと、コンソール中央の非常用ワープ起動レバーを床板へ届く勢いで叩き落とした。
ガキンッ!
座席の後方で、物理応力計測アナライザーのモニターを睨みつけていたルカの足元が、激しい重力波のねじれによって跳ね上がった。
「バーバラ、右舷スラスターのピッチを五度上げろ!」
ルカは剥き出しのバイパス配管にしがみつき、腰の工具帯から引き抜いた大型スパナを、振動で跳ね飛びかけたメインエンジン・マウントの補強ボルトへ叩きつけた。ガツン!と硬い金属音が響き、耐熱グローブ越しに痺れるような衝撃が腕を駆け抜ける。
「空間の引き裂き応力が第2フレームに集中してる! 突入角度がコンマ一ミリでもズレたら、ワープバブルが閉じる前にケツのエンジンがもぎ取れるぞ!」
「文句ならこのイカれた空間構造に言いな!」
バーバラは操縦桿を右へ強引に倒し、機体の突入角度を力技で修正した。
直後、巡視船から放たれた極太のプラズマ砲弾が、脱出船の右舷わずか数メートルをかすめて漆黒の闇へと消え去った。猛烈な熱線がフロントガラス越しに視界をホワイトアウトさせる。
「歪曲層展開! 突入するよ!」
シオンの叫びとともに、世界から音が消えた。
ズドォォォォン!
空間そのものがぐにゃりと歪み、フロントガラスの向こうの星々の光が不気味な幾何学模様の光条となって後ろへ引き伸ばされていく。強烈な次元の剪断力が機体全体を締め上げ、ツギハギの装甲板が「ギギギギガガガッ!」と断末魔のような悲鳴を上げた。
ルカはプラズマ溶接機のノズルを軋む接合部へ叩きつけ、青白い火花を散らしながら、引きちぎれかけるフレームに強引に溶断痕を刻み込んだ。飛び散る火花が皮製アームカバーを焼き、焦げた革の匂いが充満する。
「持て……繋がれ! まだ砕けるな!」
光の嵐がコックピットを呑み込み、脱出船の巨躯は追撃する特務巡視船の照準から一瞬にして姿を消した 。
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ドガァァン!
激しい落下の衝撃とともに歪んだ光の嵐が弾け飛び、脱出船は唐突にワープ空間から漆黒の真空へ吐き出された。
ハァ……ハァ……と、乗組員三人の荒い呼吸音だけが機内に響く。
メインエンジンから轟々と上がっていた咆哮が途絶え、コックピットを包んでいた不快な重低音が、潮が引くように消え去っていた。室内を照らしていた赤色のアラートランプがひとつ、またひとつと力尽きたように消灯し、後方のアンプファンが不気味な高音を残して停止する。
静寂。完璧で冷酷な宇宙の静寂が機内を支配した。
フロントガラスの向こう側には、恒星の光すら届かない暗黒の宙域が広がっている。遠くに見える星々は針の穴のように小さく、自分たちがどの星系からも切り離された「空白地帯」に漂い出たことを無感情に告げていた。
「ハ……やったかい?」
バーバラは両手で握りしめていた操縦桿から指先を一本ずつ離した。操縦桿の金属グリップには、彼女の汗と安酒の匂いが混ざり合った湿り気が残っている。バーバラはシートベルトのバックルをカチリと外し、ポケットからクシャクシャに潰れた安タバコの箱を取り出した。
「追撃網からは完全に逃げ切ったよ」
シオンは首の大型ヘッドホンを外し、力なく膝の上へ落とした。彼のポータブル端末の画面では、青白い表示灯が弱々しく明滅し、メインバッテリーの残量インジケーターが赤く点滅している。
「だが、手を叩いて喜ぶのは早計だね。……強引なパージ、デブリ海での限界駆動、そしてオーバーロードでのワープ。その代償として、僕たちの愛しい主燃料コアは分子レベルでスカスカ(枯渇)だ」
シオンは端末のキーボードの端を乾いた音を立てて叩いた。
「不活性ノードまで行くためのワープ分のエネルギーが残っていない。次第に生命維持装置のバッテリーも切れて、僕たちは氷漬けの肉塊になって暗闇を永遠に漂うことになる。……実に詩的な終幕じゃないか」
シオンの言葉を合図にしたのか、生命維持装置がセーフモードになり、機内は冷え始める。
「縁起でもない文章を紡いでる暇があったら、そのひょろ長い脚を動かせ、インテリ」
後方の通路から、ルカが足音を忍ばせて歩み寄ってきた。彼の作業着は溶接の火花と黒ずんだグリスでボロボロになり、首元のアナライザーの液晶画面は、電圧ゼロを示す平坦な直線を描いていた。
ルカは冷え切ったコンソールの端にアナライザーを無造作に放り投げた 。金属同士が触れ合う硬い音が、静まり返った室内へ冷たく響く。
「機関室のメインバイパスを直接点検してきた。非常用予備バッテリーを繋げば、生命維持装置は数時間は持つ。スラスターも動くがワープできるほど残っちゃいない」
ルカは焦げついた耐熱グローブを力任せに引き抜き、汚れたフロントガラスに手を当てた。ガラスの表面には、機内の微かな結露が凍りつき、白い霜の結晶がじわじわと広がっている。手のひらから体温が凄まじい速度で奪われていくのが分かった。
「動かない鉄の箱、か」
バーバラは安タバコの先端にライターの火をつけた。カチリ、と小さな金属音が響き、揺らぐ小さな橙色の炎が彼女の精悍な顔立ちを暗闇の中に浮かび上がらせる。彼女は紫煙を深く吸い込み、冷えゆくフロントガラスへ向けてゆっくりと吹き出した。白い煙が霜の結晶にぶつかり、不気味に揺らめく。
「管理局の豚どもの盾にされて弾け飛ぶよりは、この暗闇で煙草を吸いながら冷たくなる方が、あたしの性には合ってるよ」
バーバラは腰の実弾銃をポンと叩き、豪快に鼻で笑った。




