第7節 暗闇への跳躍(前編)
切り離された第8区画——いまや一隻の不格好な脱出船となった鉄の塊が、過充電された補助化学ロケットの咆哮とともに暗黒の宙域へ吐き出された。
汚れたフロントガラスの向こうで、1000年間にわたって自分たちを縛り付けていた泥船の黒々とした影が、白熱するスラスターの火柱に照らされながら急速に小さくなっていく。だが、解放の余韻は1秒と持たなかった。
ビィィィィン! ビィィィィン!
コックピットのコンソール中央に設置された緊急警戒インジケーターが、耳を刺すような高ピッチの警告音を撒き散らし、室内を不気味な血の赤色に染め上げた。
「祝杯を挙げるのはお預けだね、諸君!」
シオンは、手元のポータブル端末のメカニカルキーボードを狂ったような速度で叩いた 。乾いた打鍵音が激しく響き、過熱したデータアレイの基板から焦げた樹脂と静電気のツンとしたオゾン臭が立ち上る。
「泥船の親玉どもが、お行儀よく見送ってくれるはずもないか。後方宙域に大型熱源反応。経路管理局の軍事用特務巡視船が二隻、ドッキング・マウントの切断現場から直ちに緊急発進したよ。僕たちの逃走ルートへ向けて、すでに光学照準の出力を最大まで上げている」
「チッ、殺虫剤の散布船にしては素早いお出ましじゃないか!」
操舵席のバーバラは、身体を締め付ける4点式シートベルトが肩の肉へ食い込むのに構わず、中央コンソールのメイン推力レバー(スラスター)を床板へ届く勢いでフルスロットルへ蹴り込んだ 。
ゴオォォォォン!
機体全体が叫びを上げ、狂ったような加速度(G)が乗組員三人の胸郭を容赦なく叩き潰す。バーバラは両手で狂暴に震えるメイン操縦桿を力任せに抑え込み、歯を剥き出しにして笑った。汗と安タバコの匂い、そして腰のピストルから漂うガンオイルの臭気が、Gの重圧とともにコックピットへ澱む。
「あたしの操縦席に無許可で照準を合わせるような無礼な豚どもには、挨拶代わりに化学スラスターの生排気を顔面にぶちまけてやるよ!」
「威勢がいいのは結構だが、バーバラ、スラスターの噴射角を左に二度戻せ」
座席の後方、剥き出しの構造フレームにしがみついていたルカが、冷淡な声で割り込んだ。彼は首元から下げたハンディ型の物理応力計測アナライザーの液晶画面を睨みつけ、デジタル表示に明滅する赤い応力波形を指先で弾いていた。急激な加速の反動で足元の鉄板がキシキシと悲鳴を上げ、皮製アームカバーを擦りつけるたびにサビと油の不快な粉塵が舞う。
「右側スラスターのマウントボルトにかかる曲げモーメントが限界値の九十五パーセントを超えてる。このまま急加速を続ければ、巡視船の砲撃を喰らう前に、うちのエンジンがケツの鉄板ごと宇宙のチリになる」
「文句ならこのイカれた操縦桿に言いな、メカニック! あいにくあたしの安全基準には『おとなしく射撃標的になる』なんて項目は入ってないんだよ!」
バーバラは悪態をつきながらも、足元のサブペダルを荒々しく踏み込んでスラスターの出力を微調整した。瞬間、脱出船の巨躯が横滑りするように不規則な軌道を描く。
直後、機体の目と鼻の先を、巡視船が放った高出力の牽引ビームと実弾機関砲の光条が切り裂いていった。真空を切り裂く青白い光がフロントガラスを眩しく照らし、接触寸前の衝撃波が機体フレームを激しく揺さぶる。
「惜しいね、管理局の砲撃手諸君!」
シオンは青白いモニター光の中でキーボードのエンターキーを重く叩きつけた。
「彼らの射撃アルゴリズムは実に教科書通りだ。僕たちの逃走確率を『標準的なパニック状態の不法占拠者』として計算している。……失礼だな、僕たちがどれほど規格外の狂人集団か、データとして教えて差し上げるべきかな?」
「能書きはいいから、逃げ道を作れインテリ!」
バーバラが操縦桿を横へ叩きつけるように倒した 。
「右舷前方三十キロ!『デブリの海』!」
シオンの叫びとともに、フロントガラスの向こう側に広大な暗黒の墓場が姿を現した 。
そこは、1000年間の恒星間航行で打ち捨てられた旧式船の廃棄パーツ、破壊された採掘ステーションの装甲板、そして氷と岩石の塊が超高速度で無秩序に群れなす危険宙域だった。幾重にも交錯する鉄の破片が、遠方の恒星圧縮ユニットの赤紫色の光害を反射して不吉にギラついている 。
「正気かよ、バーバラ! あんな高密度のゴミ溜めに突っ込んだら、巡視船に撃たれる前にこのツギハギの装甲が擦り下ろし器のチーズみたいに削り取られるぞ!」
ルカは揺れる通路で足を踏ん張り、腰の工具帯からゴツゴツとした大型スパナを引き抜くと、歪みで緩みかけたメイン配管の締め付けボルトへ叩きつけた。ガツン! と硬い金属音が響き、手元から伝わる激しい振動を耐熱グローブ越しに受け止める。
「直線で競い合ったら、最新鋭の巡視船に追いつかれて挽き肉にされるだけさ!」
バーバラは狂暴な笑みを深め、胸元のシートベルトが肉を締め上げるのも構わず、推力レバーをさらに一歩深く押し込んだ。
「あのゴミ溜めはね、あたしの庭なんだよ! 管理局の豚どもが綺麗なお勉強マニュアルを見ながら追って来られるような甘い場所じゃない!」
脱出船は凄まじい速度でデブリの海へと飛び込んだ。
ドガガガガッ!
直後、超小型の金属片や氷の粒が装甲に叩きつけられる猛烈な打撃音が、機内全体に響き渡った。まるで鉄の缶詰の中に閉じ込められて外からハンマーで滅多打ちにされているかのような狂乱のノイズだ。
「右三コンマ二メートル!全長五十メートルの旧式ブースターの残骸!」
シオンは片耳のヘッドホンから漏れる衝突予測アラートを聞き取りながら、端末画面に表示されるデブリの三次元マップを大声で読み上げた。打鍵する彼の指先に、データアレイからの漏れ電力がバチバチと小さなスパークを散らす。
「通過不能!回避しろ!」
「喋るな、口の端を噛み切るぞ!」
バーバラは叫びざま、操縦桿を力任せに右へ蹴り倒し、逆噴射スラスター(RCS)を全開で吹きかえした。
ガコンッ!
強烈な横Gが乗組員たちを襲う。脱出船の腹が、巨大なブースター残骸のサビついた装甲とわずか数センチの距離ですれ違い、激しい摩擦火花が漆黒の宇宙空間へ飛び散った 。
背後から追撃してきた巡視船の一隻が、この狂気の急旋回についていけず、巨大な岩石デブリの側面へ強烈に接触した。ドガァン! と大口径の砲撃のような爆発光が後方で弾け、破片が四方へ飛散する。
「見たかい!ざまあみろ!」
バーバラは操縦桿に叩きつけるように肘を乗せ、爽快そうに悪態を吐いた。
だが、その瞳の奥には、黒く灼けるような激しい憎悪の火が宿っていた。
かつて、許可証を持たない「非登録移住者」だった彼女の家族と仲間たちは、管理局が「安全」と偽って買わせたイカサマの座標を信じ、跳躍の瞬間で船ごと次元の摩擦に削り取られて消滅した 。安全基準という名のペテンで命を買い叩き、外縁部へ追いやる権力者どものツラが、追撃してくる巡視船の影と重なって見えていた。
「あたしたちの命をサイコロの出目で決めてくれたお礼だ!この宙域のゴミくず全部を胃袋に詰め込んで失せな!」




