普通という名の地獄
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あれから一ヶ月。
俺は本庁の地下にある、コンクリート剥き出しの部屋で「生活訓練」という名の苦行を完遂した。
この一ヶ月で学んだのは、地球の物質がいかに脆いかということ。
そして、この星の人々が俺のような存在を「強化人間」と呼んで、ひどく警戒しているということだ。
なんでも、薬物や機械で肉体をいじくり回した「兵器」が、この国や他国には実在しているらしい。
――ひどい話だ。
俺たちは、母星から棄てられた「棄民」だ。
「宇宙開拓民」なんて勇ましい名前でうそぶかれてはいたが、その実態はただの口減らしに過ぎない。
結局、ご先祖様の最後は、船内に蔓延した原因不明のパンデミックによって、仲間たちは皆、力尽きていったというもの。
地獄の果てに、文字通り共倒れの形で全滅し、生き残ったのは俺一人。
そんな命懸けの放浪の末にようやく降り立った俺を、この星の連中は「人工的な兵器」だと思い込んでいる。
IQが高いのは、過酷な宇宙航行をワンオペで行うための最適化された教育の結果。
力が強いのは、この惑星の重力が、俺が育った環境に比べて百分の一程度しかないからだ。
俺は何度も、正直にそう説明した。
だが、彼らは俺が何を言っても「高度な自己防衛本能による虚言」だの「脳ブーストの副作用」だのと決めつけ、真実を理解しようとはしなかった。
何回言ってもわかってもらえない。だから、俺は説明するのをやめた。
結局、彼らの望む「強化人間」という設定を受け入れるのが、この星で生きるための最短ルートなのだ。
ただ、彼らが事もなげに口にするその言葉を聞くと、ひどくいやな気分になる。
人間をただの便利な「道具」として作り替える――その本質は、俺たちを鉄の棺桶に乗せて追い出した俺の故郷の母星と、何も変わらない。
見渡す限りの緑が広がるこの「楽園」も、一皮むけば、俺の故郷と同じ薄暗い悪意に満ちている。
結局、人間がやることはどこへ行っても似たようなものなのだ。
そう思うと、自分を特別視してくるこの星の連中がひどく滑稽に思える。
そして、俺自身も、どうしようもなく「謎マン」な存在として、この滑稽な茶番に付き合うしかないのだと痛感する。
神崎さんは毎日やってきては、俺がドアノブを握りつぶすたびに、キャリアの終わりを予感したような悲痛な顔で「修理代をあんたの将来の給料から引いておくわね」と呪文のように唱えていた。
おかげで俺は、この一ヶ月で「地球のドアノブ」という脆弱な機構を、破壊せずに回す技術を完璧にマスターした。
そして今日、俺の「社会性醸成」とやらがスタートする。
「いい、ナナオ。あんたの戸籍や身分は、まだ仮免許みたいなものよ」
校門へと向かう道すがら、神崎さんは真剣な顔で俺に言い聞かせる。
「だから、まずは学校に行きなさい。そこで一般人の情緒と、力の加減を学びなさい。
いい? くれぐれも無理はしないで。
……特に、体育の授業と喧嘩。あんたが本気を出したら、校舎が更地になるんだから」
「分かってますって。普通、ですよね。ノブを回す練習なら完璧ですから」
「その『完璧』が一番怖いのよ……」
神崎さんは深くため息をつき、「絶対、今日中に何かやらかすわね」と言わんばかりの、微塵も信頼を感じさせない冷ややかな目で俺を見送った。
俺は一人、都立高校の校舎へと足を踏み入れる。
真新しい、少し丈の短い制服。上層部が「ブーストされた超知能」と勘違いしているIQ。
中身は、他人の基準で「強化人間」なんて呼ばれているだけの、浮世離れした宇宙人。
それが、転校生・五味ナナオの正体だ。
指定された二年生の教室。その前まで来た俺は、一呼吸置いた。
(……そっと、だ。そっと……。一ヶ月の特訓成果を見せてやる)
俺は全神経を指先に集中させた。
だが、扉を視界に捉えた瞬間、俺の思考はフリーズした。
「……どういう事だ?」
ない。
一ヶ月間、俺が愛し、憎み、修理代を請求され続けた「円筒形の突起物」がどこにもない。
そこにあるのは、扉の端に申し訳程度に作られた、細長い金属プレートの「へこみ」だけだった。
待て. おかしい。掴む場所がない。回すための軸がない。
物理的にアクセスすべき突起が存在せず、逆にそこは「無」で満たされている。
(エルピス、おいエルピス! 欠陥品だ、この扉! 肝心のノブが最初からへこんでやがる! 何も無いところをどうやって回せってんだ!)
『……ナナオ、落ち着いてください。思考が短絡的すぎます。それはノブではなく、指を引っ掛けて横に滑らせるための「引手」という機構です』
引手? 滑らせる?
ノブを回す練習しかしてこなかった俺に、そんな応用問題をいきなり出すのか、この星の建築家は。
俺は激しく動揺しながらも、へこみの縁に指をかけた。
想定外の事態に、指先のトルク管理がガタガタに狂っている。
俺は、自分の中では「水面に浮かぶ木の葉を動かす」くらいの極微弱な力を、水平方向に込めた。
八十キログラムの加減を「あるのかないのか分からない」と感じる俺にとっての「そっと」である。
――ズガァァァンッ!!
凄まじい衝撃音と、甲高い破砕音が廊下に響き渡った。
引き戸は、俺が想定した「滑らかな移動」を嘲笑うかのような速度で右へとカッ飛んだ。
戸当たりの枠に激突し、その勢いのまま、枠ごと壁を数センチほどめり込ませる。
扉の窓ガラスは当然のように粉砕され、キラキラと輝く無数の破片が、教室の床へと豪快にぶちまけられた。
「…………」
静寂。
教室の中の視線が、一斉に俺に突き刺さる。
朝のホームルーム前。数十人の生徒たちが、まるで爆弾テロの現場でも見るような顔でこちらを凝視していた。
「……あ、おはようございます。今日から転校してきた、五味です」
俺は、枠がひしゃげ、ガラスが消滅して二度と閉まらなくなった扉の横で、精一杯の愛想笑いを浮かべた。
(なあ、エルピス。今の、そっとだよな?)
『ええ、あなたにしては。……ただ、この星の建築基準が、あなたの出力に追いついていなかっただけのようです。ぷぷぷ。見てください、ナナオ。あそこで呆然としている教師と……凄まじく目つきの悪い「個体」を』
凍り付いた教室内。唯一人、窓際の席に座る、目つきの悪い黒髪の少女。
彼女だけは、壊れた扉と俺の腕を、鋭い視線でじっと睨みつけていた。
――困ったなあ。あんなにノブを回す練習をしたのに。
一秒で学校を壊してしまった。
神崎さんに、絶対にバレたくない。
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