棄てられるという事
いつもお楽しみいただきありがとうございます。
本日は、F35ライトニング・ゼロの登場です。
信念を貫く彼女は多くの思惑を巻き込み、追い込まれて行きます。
本日もお楽しみください。
東京湾からハワイへ航行する、豪華客船『セフィラ・マジェスティ』。
その最奥にあるプライベートデッキの廊下に、甲高い歓声とドタバタという賑やかな足音が響き渡っていた。
「キャーッ! アリスにつかまる~!」
「タオルでゴシゴシされる~! にげてー!」
湯上がりの肌着姿のまま、幼いコラスたちが楽しそうに悲鳴を上げてお風呂場から廊下へ逃げ回っている。
そのすぐ後ろを、濡れた髪と白い身体にタオルを一枚巻きつけただけの少女が、バスタオルを両手に抱えて追いかけていた。
米軍最強の強化人間の一角——F35ライトニング・ゼロこと、アリス・メイ。
ビスクドールのように繊細で可憐な容姿に反して、その立ち振る舞いは力強く、豪快そのものだった。
「こら! このいたずらっ子ども! お姉ちゃんが髪の毛乾かしてあげるんだから逃げちゃダメだろ!」
腕を振り上げ追いかけるアリスだったが、コラスたちはくすくす笑いながら身をかわす。
彼女たちの抵抗の理由は単純だった。アリスの髪の乾かし方があまりにもワイルドでガサツだからだ。
バスタオルで力任せに頭をわしゃわしゃと擦られるのは、幼い彼女たちにとってはちょっとした災害に近い。
「やだやだー! アリスは大ざっぱなんだもん!」
「フランチェスカの方が、ずっと優しくブラッシングして乾かしてくれるもん!」
「なっ……! お兄様は甘やかしすぎなの! ほら、じっとしなさい!」
逃げ惑うコラス達を猛獣使いのように一列に並べ、笑いながら一人ずつの髪をぐしゃぐしゃとタオルで拭き出した。
ビスクドールと評された無機質な兵器の面影などどこにもない。そこにあるのは、世話焼きで、豪快で、誰よりも温かい一人の少女の姿だった。
——そして、時を同じくした日本の新宿。
夕闇の花園神社でお嬢様が去った直後、ラプターは暗闇の中で通信端末を握りしめていた。
SPCの会頭から直接『F35ライトニング・ゼロは彼らの元におり、無事だ』と告げられたことだけを、米軍上層部へと緊急報告する。もちろん、妹が自らの意思で協力しているのではないかという、胸を刺すような悪い直感は伏せたまま。
しかし、暗号通信の向こうから返ってきた軍上層部の回答は、絶句するほど冷淡なものだった。
『……本件に関しては、極めて高度な政治的判断により一時保留とする。介入は禁止だ。分かったな大尉。以上だ』
冷たく切られた通信。嫌な予感は、翌朝、官舎の自室で見た朝のニュースで現実のものとなる。
テレビの画面に、国際ニュースが流れていた。
『米合衆国、ハワイにて欧州の巨大金融組織SPCとの戦略的互恵経済協定を締結——地中海および欧州全域における合衆国産原油の大規模輸出便宜の供与へ』
画面に映し出されたのは、米政府高官と並び、優雅な笑みを浮かべて握手を交わすお兄様。そしてその横で、可憐なドレス姿で静かに微笑むお嬢様の姿だった。
表向きは欧州の金融グループ。しかしその正体は、修道騎士団としての金融機能とヨーロッパ圏の経済活動を千年にわたり歴史を裏から操ってきた老舗シンジケート。
巨大国家である米国すら、SPCが握る巨大な資金と経済インフラ利権の前には黙認するしかなかったのだ。
「……高度な政治的判断、ね」
画面を見つめるラプターの拳が、血が滲むほど強く握りしめられる。
SPCの圧倒的な資金力と政治力により、米政府上層部への根回しはすでに完了していた。
「F35(アリス)の奪還」など、国家利益という巨大な対価の前に、端から考慮すらされていなかったのだ。
国家の裏取引など、妹を諦める理由にはならない。
だが、軍には頼れず、かといって「アリスが自分の意思でSPCにいるかもしれない」という恐しい危惧は誰にも言えない。
完全なる孤立無援。八方塞がりの絶望の中——ラプターの脳裏に浮かんだのは、一万メートル上空からの絶望的落下を命懸けで抱きとめてくれた、あの一人の少年の顔だった。
◇◇◇
ニュースが流れてから数日が経過した、租界地区の地下工廠。
F35がSPCに渡っているという情報は、すでにナナオを経由して、神崎玲奈、そしてヴァンスの耳にも届いていた。
だが、事態が動くことはなかった。それどころか、神庫重工本社に米軍上層部から届いたのは驚くべき「通達」だった。
地下工廠にあるヴァンス博士の工房にて、ヴァンス博士を訪ねた松河龍一は、神庫重工の技術顧問でもあるヴァンスに事の顛末を共有していた。
フェニックス・パッチ開発以降、事あるごとに松河は地下工廠でヴァンスと会合を行っていた。ヴァンスの持つ独特な父性と包容力、地下でありながら清浄な工廠の空気を松河は大変気に入っている。
訪問当初こそ、オネエ言葉のキザな前髪男を警戒していた租界地区女子寮の強化人間女子たちだったが、松河の明け透けな話し方とたくさんの手土産に、今ではすでに歓迎ムードだ。
この松河という男は、オネエ言葉で人の懐に入り込むのも上手いのだが、それ以上に廃棄された強化人間の少女たちに、一種の罪悪感とシンパシーを感じていた。その心の機微は少女たちに受け入れられる要因でもあった。
「……ハッ、笑っちゃうわよねぇ。合衆国軍上層部から正式な通達が届いたわよ。『F35ライトニング・ゼロの紛失事故に関しては、作戦行動中の不可抗力と認め、関係者の責任は一切問わない』……だってさ」
パイプ椅子に深々と腰掛けた松河が、缶コーヒーを片手に鼻で笑った。
「ライトニング・ゼロちゃんを奪われたあたし達も犯罪者にならずに済んだってワケ。米軍から一企業へ直接通知って日本政府も舐められたものよね。……神庫重工の現場をそそのかした当人の九頭竜官房長官は、完全にダンマリ決め込んでるわよ、腹が立つわね!」
松河の言葉には、自分たちが処分を免れたことへの安堵と、あまりにも不自然な手打ちに対する呆れが含まれていた。
日米両国家は、最新鋭の強化人間と兵器の奪還を諦めた。ニュースの通り、SPCとの大規模なエネルギー利権取引と引き換えに、F35の存在そのものを「うやむや」にして幕引きを図ったのだ。
F35ライトニング・ゼロことアリス・メイの米軍復帰は、これで永遠になくなった。
「……それが、合衆国という国ですよ。松河重役」
窓際に立っていたヴァンスが、掠れた声で吐き捨てた。
「表向きは自由と正義を掲げながら、巨大な国益を前にすれば、兵士の一人や二人……いや、命すらあっさりとドブに捨てる」
ヴァンスの目が、恐ろしいほどの冷たさと怒りを孕んで鈍く光る。
「……かつて、YF23グレイがそうされたように、な」
一瞬、工房内の空気が凍りついた。
かつて米国の実験機として切り捨てられ、分解され命を落としたヴァンスの娘。その記憶と身体は巡り巡って、この日本で新しい命を吹き込まれ『鳳凰』と名を変えている。
『鳳凰』という愛娘の存在により、肉体と精神のバランスを取り戻した今のヴァンスでなければ、合衆国への怒りは今も健在であったはずだ。そう感じざるを得ない静かで圧倒的な殺気だった。
「僕はこの国の——日本の防衛省と神庫重工の技術顧問でありオブザーバーという立場だが、根っこは米国民だ。……だが、あの国は何も変わっていない。国益という化け物の前では、命も、忠誠も、娘の未来すらただの数字に過ぎない」
ヴァンスは強く歯を食いしばり、悔しさと怒りを押し殺すように息を吐いた。
「ラプター大尉……君の妹は、完全に合衆国から見捨てられた」
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