血の契約と、復讐の夜想曲(ノクターン)
虚飾の神の巨体が崩れ落ち、地下空間に静寂が戻った。
私は自身の血で真っ赤に染まったドレスの裾をつまみ、小さく息を吐き出す。
その時だった。
『――あらあら。あの出来損ないの「虚飾」、本当に殺されちゃったのねぇ』
不意に、脳内に直接、甘ったるくねっとりとした女の声が響いた。
空間からの声ではない。神聖な魔力を持つ者同士が繋がる『念話』だ。
「誰?」
『ふふっ。私は「色欲」。天界からずっと見ていたわよ、可愛い吸血鬼のお姫様。まさかあの女の娘が、こんなに立派に育っていたなんてねぇ』
「……私の、母を知っているの?」
私の問いに、色欲の神はコロコロと嗤った。
『ええ、知っているわ。天界を追放された哀れな女。でもね、お姫様。あなたは一つ勘違いをしているみたい』
「……何が言いたいの」
『あなた、自分がなぜ神の国で密かに保護されていたか知らないのね。いいこと教えてあげる。あなたの母親を殺したのはね……あなたの父親であり、私たちと同じ神の一柱よ』
ドクン、と。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
『あんな顔だけはいい下劣な女との子供なんて、愛せなかったんでしょうね。だから自らの手で惨殺した。……あなたが生き延びたのは、あのいつも寝てばかりいる「怠惰」が、こっそり結界で保護してくれたからでしょうけど』
「――ッ」
頭の中が、真っ白になった。
怠惰の神が、ずっと私に父親の正体と真実を隠していた理由。
それは、私をこの果てしない憎しみの連鎖に巻き込ませないためだったのだ。彼が命を削ってまで私を隠し、守り抜こうとした、本当の理由。
『ふふふ、いい顔。さあ、どうするの? 父親に殺されに来る? それとも――』
私は、自身の内側からどす黒い感情が爆発するのを感じた。
念話の繋がりを、自身の強大な魔力で強制的にへし折る。
「……殺す」
ギリッと、唇から血が滲むほど強く歯を食いしばった。
私の母を殺した父親。そして、私の母を侮辱し、人の命を弄ぶこの下劣な色欲の神。
もう、ただの家出じゃない。私は今日、この瞬間から――そいつらを必ずぶっ殺すための『復讐鬼』になる。
「……カノン、様……」
背後からの微かな声にハッとして振り返る。
そこには、互いの手を固く繋ぎ合ったまま、血だまりの中で息も絶え絶えになっているセラフィとミアが倒れていた。
そうだ。怒りに呑まれている場合じゃない。この二人が私に血をくれなければ、私は今頃死んでいたのだから。
「二人とも、よく聞いて」
私は二人の傍に膝をつき、自身の指先を短剣で浅く切り裂いた。
傷口から溢れ出す、エリクシルにも匹敵する治癒力を持った私の『神聖な血』。
「口を開けなさい。私の血を飲めば、その傷はすぐに治るわ」
私の言葉に従い、二人が小さく口を開く。
そこに私の血を数滴ずつ垂らすと、致命傷だったはずの二人の傷が、淡い光に包まれて瞬く間に塞がっていった。血色も戻り、呼吸も落ち着いていく。
「あ……痛みが、消えた……」
「すごい、カノン様……こんな奇跡のような……」
傷が癒え、体を起こした二人。
だが、私は立ち上がろうとする二人を冷たい声で制止した。
「まだ終わってないわ。……治癒はしたけれど、あなたたちはもう、元の世界には戻れない」
私は、真紅の瞳で二人を真っ直ぐに見つめた。
「あなたたちは先程、私の命を繋ぐために自らの血を捧げた。それは吸血鬼にとって、命の共有を意味するわ。……私はこれから、母を殺した神と、私を舐めた色欲の神を殺す、修羅の道を歩む。あなたたちを、私の『眷属』として連れて行く」
息を呑む二人に向けて、私は最後の確認を告げた。
「私の眷属になれば、もう二度と普通の人間や天使には戻れないわよ。それでも……私と来る?」
それは、ただの脅しではない。
私の美学。命を預かることへの、絶対の確認だ。
だが、二人の目に迷いは一切なかった。
「私の命も、この盾も、すでにあなた様のもの。地獄の底だろうと、主のお供をいたします」
セラフィが深く頭を下げる。
「カノンの行くところなら、どこだっていい。カノンの隣は、私だけのものだからね」
ミアが、私の手に頬をすり寄せて妖しく微笑む。
「……そう。なら、契約を交わすわ」
私はまず、セラフィの肩を引き寄せた。
彼女の白い首筋に顔を埋め、脈打つ動脈に、鋭く尖った自身の牙を静かに立てる。
「あ……ッ!?」
私の牙が食い込んだ瞬間、セラフィの体がビクンと大きく跳ねた。
彼女の血を吸い上げると同時に、私の強大な魔力を彼女の体内へと直接流し込む。
安心するような、まろやかなホットミルクの味。
「あっ……あぁぁッ……カノン、様ぁ……ッ♡」
セラフィの口から、今まで聞いたこともないような甘く蕩けた嬌声が漏れた。
吸血に伴う魔力の譲渡。それは、眷属化される者にとって、脳髄が溶けるほどの圧倒的な多幸感と快感をもたらす。
真面目な騎士だった彼女の瞳が、快楽の波に呑まれてトロンと濁り、私の背中に回された腕が、すがりつくように強く私の服を握りしめた。
「ふふっ。いい子ね、セラフィ」
「はぁっ……はぁ……主、カノン様……あぁ、もっと、私を……ッ♡」
私はセラフィから牙を離し、次に、待ちきれないように荒い息を吐いているミアの首筋に牙を立てた。
「んんッ……!? あ、あはぁッ……♡♡」
濃密で甘い、極上の果実酒の味。
ミアは快感に耐えきれず、全身を弓なりに反らせて私の胸にすがりついた。幻惑の香など比べ物にならない、魂の奥底から込み上げる本物の陶酔感。
「あ……すご、い……カノンが、私の中に、入って……くる……あはぁッ、かみ、さまぁ……ッ♡」
「ミア。あなたは今日から、私の可愛い猫よ。他の誰にも渡さないわ」
「うん……うんッ! 私、カノンの……カノンだけのもの……っ♡」
私は二人の血を味わい、そして私の魔力で二人を完全に『私のモノ』へと染め上げた。
快感の余韻でトロトロになり、私の足元で恍惚とした表情を浮かべてすり寄ってくる忠犬と狂信猫。
その瞳には、私への絶対的な忠誠と、狂気じみた重すぎる愛だけがギラギラと輝いていた。
私は、二人を従えて立ち上がる。
振り返ることなく、崩れゆく虚飾の地下大聖堂を後にした。
さあ、神殺しの旅を始めよう。
すべては、私の美しい復讐のために。




