狂気の淫都と、気高き欠陥品
巨大な門をくぐり、私たち三人は『色欲の神』が支配する快楽都市へと足を踏み入れた。
「……最悪な匂いね。吐き気がする」
街の中に入った瞬間、私はハンカチで鼻口を覆い、眉をひそめた。
空は人工的な薄紫色に染まり、街の隅々にまで、理性をドロドロに溶かすような『甘い毒香』が充満している。
すれ違う住人たちは皆、とろけたような笑みを浮かべていた。
道端で平気で他人の伴侶と抱き合い、開け放たれた娼館の窓からは獣のような生々しい嬌声が絶え間なく響いている。それなのに、誰もそれを咎めない。嫉妬も悲哀もない、ただペラペラな快楽だけを貪り合う、薄っぺらい『狂気のユートピア』。
「はぁっ……はぁっ……カノン、様……」
「んんっ、カノン……主の匂いがいっぱいする……もっと、くっつきたい……っ♡」
振り返ると、私の眷属二人が異常な熱に浮かされていた。
普段はクールで真面目なセラフィが、顔を真っ赤にして荒い息を吐きながら胸元をはだけさせ、ミアは完全にヤンデレのスイッチが入り、私の腕にすり寄って甘い吐息を漏らしている。
この街の空気そのものが、色欲の神の『愛の暴走』の魔力を帯びているのだ。
「だらしないわね。……私の血の温もりが、そんな安っぽい快楽に負けるの?」
私は自身の魔力を解放した。
私の体から放たれる『神聖な血の香り』が、周囲の淀んだ空気を一瞬で浄化し、不可視の清浄な領域を作り出す。
「あっ……熱が、引いて……申し訳ありません、主の御前でなんという醜態を……!」
「ごめん、カノン。でも私、カノンに触られてる時の方がずっと気持ちいいよ……」
正気を取り戻した二人が、ホッと息を吐いて私の両脇にぴったりと身を寄せる。
私が彼女たちと結んだ血の絆は、こんな空っぽな街の常識とは対極にある、絶対的なものだ。
「さて、情報収集でも――」
私がそう言いかけた時だった。
大通りの真ん中を、厳重に警備された一台の鉄格子の馬車が通り過ぎていった。中には『商品』として運ばれる奴隷たちが詰め込まれている。
その中に、一人の少女がいた。
ガリガリに痩せ細り、あばら骨が浮き出ている。本来なら美しいはずの竜の鱗はボロボロに剥がれ落ち、痛々しく変色していた。
「さっさと歩け! 慰み者にもならねぇ『欠陥品』が!」
奴隷商人の下劣な怒号と、鞭を打つ音が響く。
だが、すれ違いざまに目があった瞬間、私は息を呑んだ。
これほど無残に扱われ、蔑まれているというのに。
彼女の瞳だけは、死んでいなかったのだ。
快楽に染まることを拒絶し、周囲の醜い豚どもを静かに睨みつける、あの『強靭な意志を宿した瞳』。
(……私と、同じ目)
胸の奥が、チクリと痛んだ。
神と吸血鬼の『混ざりもの(ハーフ)』として生まれ、神々から忌まわしき出来損ないと蔑まれ、殺されかけた私。
檻の中の彼女と、過去の私が重なって見えた。
「……行くわよ。あの子がどこへ運ばれていくのか、確かめるわ」
私たちは馬車を追い、街の中央にある巨大な地下施設――VIP専用の大競売場(オークション会場)へと辿り着いた。
入り口で支配人から奪った『黒の身分証』を提示し、中へと足を踏み入れる。
会場内は、仮面を被った貴族や富豪たちでごった返していた。彼らもまた色欲の毒香に当てられ、舞台へ引きずり出される『極上の玩具』を血走った目で見つめている。
『さあさあ皆様! 今宵の目玉商品の登場です!』
司会者の下品な声と共に、舞台の下から先ほどの少女が入った鉄の檻がせり上がってきた。
しかし、中を見た瞬間、興奮に沸いていた会場の熱気がサッと冷めるのが分かった。
『希少価値は最高ランクの【竜族】の生き残り! ……と言いたいところですが、見ての通り! 極度の栄養失調で竜化することもできず、逆に言えば逆らうこともできない』
「なんだあの死に損ないは! ゴミを売りつける気か!」
「伝染病持ちじゃないだろうな!? さっさと下げろ!」
貴族たちから一斉に野次が飛ぶ。
豊満な肉体や快楽に溺れることだけが『価値』とされるこの国において、彼女はただのゴミ扱いだった。
『解剖実験用か、魔獣の餌用か……はたまた特殊なお楽しみにいかがでしょうか! 百万ゴールドからスタート!』
「ヒヒッ、なら五百万ゴールドだ。私の研究室で、生きたまま腹を割いて内臓の構造を見てやろう」
「いや、七百万だ。うちのペットのマンティコアの餌にちょうどいい。生きたまま頭から齧られる悲鳴が聞きたい」
狂った研究者と悪趣味な貴族が、下劣な笑いを浮かべながら命をモノのように値踏みしている。
その光景に、私の内側で冷たい怒りが静かに沸点へと達した。
お前らみたいな薄っぺらい連中に、この子の価値がわかってたまるか。
「……二億」
私は静かに手を挙げ、会場全体に響き渡る声で宣言した。
一瞬、水を打ったように会場が静まり返った。
やがて、それが冗談だと思った貴族たちから、爆笑が巻き起こる。
「ギャハハ! 二億!? あんな死に損ないのゴミに!?」
「どこぞの世間知らずのお嬢ちゃんか知らんが、モノの価値も分からんのか! 二億あれば、極上の美女が百人は買えるぞ!」
司会者も鼻で笑いながら、私を小馬鹿にするように木槌を鳴らした。
『これは驚き! お嬢様の圧倒的なご提示! 他に落札される方はいらっしゃいませんね? それでは、二億ゴールドで落札です! ……で、払えるんですかな?』
「ええ。払うわよ」
私は歩み出ると、マジックバッグから山のような金貨の束を直接舞台に叩きつけた。
「なッ……!? ほ、本物の二億ゴールド!?」
莫大な本物の大金を前に、司会者も貴族たちも嘲笑を引っ込め、呆然と口をパクパクさせている。
私は彼らを一瞥もせず、ただ真っ直ぐに、檻の中の少女へと歩み寄った。
「奴隷契約の破棄と、彼女のすべての権利。ルールに則って、私が買い上げるわ」
血の匂いでわかる。
この子は病気じゃない。ただ極限まで飢えているだけだ。私の神聖な血を与えれば、その奥底に眠る規格外のポテンシャルが必ず目覚める。
「……ふふっ。こんな薄暗い檻の中は、あなたには似合わないわ」
私は檻越しに、警戒するように私を睨みつける彼女の細い頬にそっと触れた。
さあ、目を覚まさせてあげる。私だけの、誇り高き竜を。




