126 その頃聖女エストは2
とりあえずは、パンすらもない。エストにとっては好物であり、必需品だ。故にまずはパン屋へと歩を進める。
「聖女様、いらっしゃい」
もう馴染みとなっているので、気さくに声をかけられる。
「どうも」
エストは軽く会釈した。変に距離を置かれるよりも良い。
(ラデンは小麦が美味しいから良いわぁ)
パンが好物のエストにとっては、嬉しい特産物なのであった。惣菜パンから甘い貸しパンまであらゆるパンが並ぶ。
「バールの方じゃさ、あまり食べ物の味に頓着しないから。あんまり美味しくないのよ。こっちはいいわよね」
誰にともなくエストは、告げる。一応、店主向けの言葉であった。
「最近はバールじゃ盗賊も出るって話だね。大変で味に頓着する余裕がないんじゃないかな」
初老の店主がのんびりとした口調で返す。
エストは惣菜パンや菓子パンにも心を揺らされつつ、結局は食パンを幾つか購入する。『美人さんだし聖女さまだし』と幾らかおまけしてもらえたのが嬉しい。
エストは意気揚々と次の店へと向かう。
(出来れば魚や野菜とかも買っておきたいけど)
頭の中では必要なものと欲しいものとを峻別していく。
聖女であろうとも生きているのだから物資は必要なのだ。
「エスト様?いえ、聖女様?」
上から声をかけられた。視界が翳っていたことに遅れてエストは気付く。
見上げると馬車の小窓からレニー・ティグリス侯爵令嬢が自分を見下ろしている。
「ティグリス侯爵令嬢、ごきげんよう。ごめんなさいね、お買い物中で」
会釈してから、エストは買い物かごを示す。パンしか入っていないのだが。
「聖女様自らですか?ティスさんはどうしたんです?」
かつてはカートとのことで、ティスをなじったこともあるが、その後、更に魔獣から助けられたことで逆に感謝するようになった。
「シュルーダー卿にくっついて、南へ行ってしまったんです」
肩をすくめてエストは答える。雇い主の自分よりも恋人をティスが優先した格好だ。
「それは寂しいですね」
レニーが気の毒がる顔をした。
「どうです?あの広い御屋敷にお一人では気が滅入るでしょうから。当家で滞在しては」
パンッと手を合わせてレニーが言う。『お嬢様、無断でそんなお誘いは』と侍女が小声でたしなめているのだが。
(悪くないかも?私、まだこっちじゃ知り合いが少ないし)
エストは思案する。
「確かに急に言い出して、私ったら、不躾だったかしら」
レニーが不安げだ。
(ティスの帰還までは別にいいかしら)
エストが誘いに乗ろうかと思ったところ。
「聖女様ー」
叫ぶ声がする。
面識のない、小柄な、いかにも文官という風情の男が駆けてきた。近づいてきて立ち止まる。顔が汗だくだ。
「どちら様?」
思わずエストは尋ねる。
「私は行政官のテスロと申します。女王リオナ陛下の留守を預かる身ですが」
思ったよりも高位の文官だった。
(確かに身なりは良いわね。汗のせいで台無しだけど)
エストはレニーと顔を見合わせる。
「行政官の御方が何の御用です?私が先に聖女様とお話しておりましたのに」
プンプンと腹を立ててレニーが言う。
「近衛の留守部隊の運用について、ご助言を賜りたく」
そして何の前触れもなく、行政官テスロが切り出す。
「はい?」
エストは正面から目の小さなテスロを見返す。
「近衛の留守部隊がおりますので、陛下がお留守の王都にて、もっと効率的に運用すべきではないかと。意見が出始めたのですが、うまくまとまらず」
困り顔で文官テスロが言う。
「聖女エスト様のご意見を、となったのです」
そして言い切ってからエストの言葉を待つ。
「だから、なんで私に聞くんですか?」
初対面の相手である。一応、エストは丁寧に訊き返す。
「そうですわ、エスト様は聖女様です。なぜ、近衛の留守部隊の運用など、相談するのです」
苛立ちのままレニーも口添えしてくれた。横で聞いていてもおかしな話なのだ、とエストは力を得る。
「ええっ、それは」
文官テスロが驚く。
わざとらしくない。本気で驚いている。
「女王陛下から、自分の留守中、重大事案の存念はエスト様にうかがうように、と」
とんでもない不意討ちを受けた。
(あの、陛下め)
エストは嘆息する。
「カート隊長はいない。パターガーさんもクイッドも、ヨギラス騎士団長も」
エストはとんとんと自分の右手の指で左腕を叩く。いつの間にか腕組みしていた。話が見えてはきたのだが。
「でもさ、ラデン王国にだって、高位貴族がいるでしょう?その人たちを差し置いて?私が?」
エストは一方で腑に落ちてもいた。
(あの女王様ならやりかねない。でも)
徹底的に自分を上手く使い、かつ箔付けもするつもりだ。
「そこの手回しもしてあるようで、諸侯の、皆様からの紛糾はございません」
貴族たちも貴族たちで、自分の手並みを見ようということだろう。
エストはもう一度、深々とため息をつく。
「私は確かにバールで皇妃教育も一通り受けた。たぶん、基本は分かるわよ。考えられる。でもさ、ラデン特有の云々かんぬんはさっぱりよ?助けてくれる気はあるの?」
代わりに政務を取れという無茶振りを、エストは受け入れるしかない。
(ま、望むところっちゃ望むところ?自分の力を出し切る場面は、なんであれ、大歓迎だから、国を出たんだし)
政務など母の大聖女では、間違いなく出来なかった芸当だ。
「そこはもちろんでございます」
勢い込んで文官テスロが頷く。
「エスト様、よろしいんですの?絶対、大変ですわ」
レニーが心配そうだ。
「困っている方々がいて、私に助けられるなら、労は惜しみません」
エストは微笑んで答えた。
「滞在はまたの機会に致しましょうね」




