第八話 霊魂の籠る壺(11)
目をあけたとき、眼前にあったのは、心配そうにのぞきこむ銀縁眼鏡の男の顔。
意識するより先に手が動き、あらん限りの力で、右の正拳を鼻っ柱めがけて叩きこんだ。
なにかが潰れる鈍い音、鼻骨がめり込む感触を手の甲に感じながら、もんどりうって倒れこむキョージュの動きがスローモーションのように見えた。
ベッドからゆっくり上半身を起こす。
両手で顔を覆って床に突っ伏し、小刻みにヒクつくキョージュを見下ろして、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。
我に返ってあたりを見回すと、どうやらここはホテルの一室らしい。窓からの日差しをさえぎるレースのカーテンごしに、たゆとうナイルの岸部が見えた。
キョージュは床に這いつくばったまま、「ヒドイ、ヒドイ」とすすり泣いている。ウザいことこの上ない。
相手にするのも嫌なので放っておいたら、泣きやむ気配がまったくない。いいかげん腹も立ってきたので「とっとと鼻戻して立て」と怒鳴りつけた。
キョージュは、ちら、とのぞき見るようにこちらに視線を泳がせていたが、やがて「ちぇ」と軽く舌打ちして立ち上がると、鼻を右手でつまんで形を整えた。ポケットからハンカチを出して口の周りの血糊をぬぐう。
キョージュの鼻を折るのはこれで二度目だし、この程度のことは、コイツにとって、文字通り痛くもかゆくもないらしいことはわかっている。もう、だまされるもんか。
「いきなりヒドイじゃないですかぁ」キョージュがしょげた目つきで訴える「僕、なんにもしてないのに…」
したじゃないかぁ、あ~んなこととか、こ~んなこととかぁ、と言いかけたのだが、ここで、ハタと気がついた。いったい私、何されたんだっけ?
じーっとキョージュの目を見る。眼鏡の奥の瞳には何も映ってはいない。不本意ながら、しばし、キョージュと見つめあってしまったのだが、うまく思い出せない。シュンコウさんとサンタとシモンと、一緒にナイルを遡ったあたりは覚えているのだが、その後が、霞がかかったように記憶が曖昧になる。
なんか、ものすご~く嫌なことがあったような気がするのだけど。
口をあけて何か言おうとした瞬間に、おなかが、ぐぅ、と鳴った。
一瞬、あっけにとられたキョージュだったが、すぐさま得心した顔になり、うんうん、と一人で勝手にうなづきだした。
「そうですよね。ずっと寝てたんだから、おなか減りますよね。そうです。そうです…」
こちらから口をはさむ隙もあたえず、キョージュは、かしわ手を、ぽん、ぽん、とふたつ鳴らす。それを合図に部屋の扉が開いて、スチュワード達が料理の乗ったワゴンを数珠つなぎで押してきた。
「あ、あのね、別に…、そういうわけじゃ…、いや、別に…」
うやむやにされそうで、それは嫌だったから抗弁を試みたのだが、切り分けられたミートローフの香りに心地よく小鼻をくすぐられると、まあ、とりあえず食べてからでも、と思うようになって…
私の真向かいに椅子を動かして坐するキョージュ。私は体を少しずらしてベッドの縁に腰かけるように座った。少し変な感じだし、お行儀が良いとはお世辞にもいえないが、このほうが楽でいい。給仕が巨大なスープポットから滑らかな淡黄色のスープを注ぐ。スプーンで一匙、あたたかくて濃厚なポタージュが咽喉をとおして胃にしみわたると、だんだん気持もほぐれてきた。
一品口に入れると、思いのほか空腹だったのがはっきりわかって、クラッシュチーズの風味が効いたサラダ、貝とフォアグラの前菜、煮こごりをふんだんに盛ったパテ、と勧められるままにコースを平らげていくことになってしまった。
鴨のローストの一切れを呑み込んでようやくひとごこちついた時、ちらとキョージュを見やると、ブランデーグラスをかたむけながら、意味もなくニコニコしている。
「少し食べたら?」
なんだか私だけ食べてると、意地汚いみたいで嫌だったので、キョージュにも勧めてみた。
「あ、あ、はあ…」
キョージュは私に言われてやっと気付いたのかクラッカーの上にキャビアをよそってもらい、端っこをかじりだした「おいしいですね、これ」
見ていてあんまりおいしそうな顔には見えない、半分ほどかじって、またブランデーに戻してしまう。
「また、お酒ばっかりで…、きちんと食べないと体に悪いですよ」
「あ、はぁ…」
「ちゃんと聞いてる?」
「ん、んぐ…、ちゃんと、聞いてますとも…」少し語尾を上げて問いただしたら、キョージュは慌てて残りをいっきに呑み込んだ。
まあ、クラッカー一枚くらい食べたところで、なんの足しにもならないとは思うけど。
それにしてもキョージュ、どこに行っても外食だとほとんど食べない。家でなら野菜以外ならそこそこ食べるのに。
こいつ、どうやって体力維持してるんだろう? おなか減らないのかな?
しばし手をとめてキョージュを見つめていると、何をかん違いしたのか私に話しかけてきた。
「エジプトももう少しゆっくりまわれば良いところなんですが、今回はずいぶんあわただしかったですからねぇ」
「いや、そんなでもないですよ」オマエが出てくるまではそこそこ良い旅だったよ、少なくとも前半は。後半はなんだか、よくわからなかったけど「アジア以外に出たのは初めてだったから、わりと楽しかったし…」
え? とキョージュが意外そうな顔をする「アキハさん、ヨーロッパは? 行ったことは…、ない?」
「行ったことないですよ」あたりまえじゃないか、どこにそんな金があるんだよ。
「ふーん」と、めずらしくキョージュは何か考えている風である「じゃあ、帰りに少し寄ってみますか、すぐそばだし」
え?
「い、いいの?」たぶん、少し声が震えていたと思う。
「ええ、アキハさんさえ、良ければ」キョージュは何のためらいもなく、さらりと言った「パリでも、ミラノでも、ニースでも、ああ、バルセロナとかもいいかな」
「行こう」私はベッドから飛び降りて、キョージュの前に突き進んだ。キョージュの両腕をわしづかみにして前後にゆさぶる「そこ行こう、全部行こう」
「ぜ、ぜんぶ…、です、か?」キョージュは怯んで、少し引き気味に私を見つめる。
しまった、焦りすぎたかも。
「い、いや、その…」私はひかえめに微笑んでみせた。なんか笑いがひきつっているのが自分でもわかる「ぜんぶ、でなくても、いいけど…、そのっ」
「あっ、そ、そう…」
「…そう、パリ、とか?」
「…パリ、とか?」
「…そう、パリ、とか…」
「…はは」
「…は、はは」
キョージュと二人、力なく笑った。二人ともに、ひきつった顔で。
間が持たないので、 あらためて席につく。ここでやっとパジャマのままだったのに気がついた。
もう、なんか料理のほうはどうでも良くなったので、デザートのプディングをスプーンでひとすくい口にはこんだ。バニラの香りが口いっぱいにひろがる。
パリかぁ、
自然と口許がゆるむ。キョージュも私につられたのかニマニマしだした「パリ、いいですよねぇ。楽しみですねぇ」
あれ? こいつも来るのか?
一瞬、顔に出そうになったが、プディングをほおばってごまかした。
ちらちらと上目づかいにキョージュの顔をのぞき見る。さすがに、私だけ、ってわけには、いかないよなあ。歩くお財布とでも思っておけばいいのかな。そもそも、そばにいるだけならほとんど害はないし、それになんて言ったって…
パリだし。
私の視線に気づいたらしいキョージュが微笑み返してきたので、こっちも愛想笑いを返した。
ま、よくわからないけど、なんとかなるだろう。
<霊魂の籠る壺 − 了>