【第三章 】第三話:上等な礼
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阿佐美のことは一旦脇に置いておいて、体育館での大立ち回りのことを思い出すと、俺は思春期の女子のようにベッドで転げまわってしまった。
「バレーなんか大っ嫌いなんだ!」
その言葉に嘘はない、むしろ俺は長年自分を騙してきた。アゲハ先輩の言った通り溜まっていたものを吐き出せた。正直、気持ちがよかった。
問題は、この発言を聞いていたのが阿佐美だけではなく、体育館に居た全員だということだ。バレーを青春に汗を流している彼らにとって、それは侮辱以外の何物でもないだろう。場所を選ぶべきだった。
しかし、バレー部のいる中で叫ぶことに意味があったとも思う。良くないことだが俺は聞かせてやりたかったんだと思う。俺の背負った重責の歴史を。
問題は明日だ、バレー部員は同じ教室にもいる。ただでさえバレー部関係者と気まずかったのに。これからは一層そうなるだろう。
俺は暗澹たる気持ちで夜を過ごした。
翌朝、教室へ行くと、早速バレー部員と目が合った。何も見なかったことにして席に着こうとすると、
「なあ冬川ちょっといい?」
そのバレー部員から声を掛けられた。以前はよく遊んだが、声を掛けられるのは本当に久しぶりだった。
俺は廊下に連れ出された。殴られるぐらいは覚悟しておいた方がいいだろう。
「阿佐美と何かあったの?」
彼は昔と変わらぬ距離で俺に尋ねた。
「まあ色々と。ごめん。阿佐美に悪いから言えない」
「ふーん。ま、そっか」
てっきり問い詰められるかと思ったが、彼は意外にもすんなり引き下がった。
「俺もさー。バレー嫌いだわ」
不意に彼は呟いた。俺は目を丸めた。
「え?」
「正直惰性でやってるし、コーチも嫌い。でも辞めるまではいかないし、多分好きなところもあるんだわ」
廊下の窓にもたれながら、彼は上を向いて独白する。
「だから、昨日のお前のアレ。何かスッキリした。だから俺は俺でやってみるつーか多分来年のインハイまで辞めねーわ」
「そうか」
「だからお前のことももういいや。辞めるの大変だっただろ?」
そんだけ。と言って元チームメイトは教室に戻った。
俺は彼の背中が教室に飲み込まれ、見えなくなるまで見つめていた。
「また遊ぼうな」
そんな言葉を言いそびれたが、言葉にする必要なないと思った。
『昼休み保健室まで来い。飯食ってからでいい』
俺は弁当を素早く掻き込み、足早に保健室へ向かった。
保健室では養護教諭が、二人の女子生徒と昼食を取っていた。俺は「桂川さんに呼ばれて」と養護教諭に告げると、パーテーションを避けて、ベッドの方に回り込んだ。
アゲハ先輩はまた無防備にあぐらをかきながら、ベッドの上で弁当を食べていた。
「はえーよ」
小さな口で卵焼きをかじりながら、アゲハ先輩は俺を見上げた。小学生が使うような小さな弁当箱には、まだ多種多様な具材が残ったままだ。
「なんだ、そんなにオレに会いたかったか?」
不敵に笑う彼女の顔を俺は覗き込んだ。
「会いたかったに決まってるじゃないですか。当たり前ですよ」
昨日の今日だ。体調のことも気になるし、謝っても謝りきれない。
「お、おお、そうか。忠誠心が育ってきたな」
アゲハ先輩はわずかにたじろいだ。
俺はベッドの下の丸椅子を引っ張り出して、そこに腰を下ろした。
「あのあとコノハと白羽にはなんて言ったんだ?」
アゲハ先輩は箸の先の白米を飲み込むと尋ねた。
「アゲハ先輩に呼び出されて、引っ張り回されてた、と」
彼女はハハハと声を出して笑った。
「間違っちゃいねえな、来斗、お前噓つきの才能あるぜ」
「体の方は大丈夫なんですか?」
俺は尋ねた。他のどんな問題よりも、そこが気になっていた。
「無事だよ。おかげさまでな。あのまま居たらどうなってたかわかんねえけどな」
「でも、保健室に」
「オレは大抵いつもここで食ってるよ。真面目に登校した日も昼休みくらい横になりて―からな」
「強がってませんか? アゲハ先輩は弱音を吐かないので心配です」
「コノハみたいな事を言うんじゃねーよ。見てみろ、顔色だって悪くねーだろ?」
俺の基準からしたらアゲハ先輩の白い肌は十分心配だったが、本当に具合が悪いときの真っ青、あるいは真っ赤な顔色でないのはわかる。俺はひとまず安心することにした。
「そのようですね」
「生意気に保護者面すんじゃねーよ」
そう言ってアゲハ先輩はアスパラの先端を口の中に放りこんだ。
「そういうお前の方こそ、大丈夫なのか? それなりに揉めたんだろ?」
大丈夫かと言われたら、まだ大丈夫じゃないだろう。阿佐美とはいつかちゃんと話さないといけない。鍵は返してもらえたが、何も解決はしていない。今回のような凶行をしないという保証もない。これはオレがキチンと向き合って解決しないといけない問題だ。
それと、さっきのクラスメイトとはこれから上手くやっていけそうな予感がするが、バレー部とは依然気まずいままだ。
「まあいいや、私は食ってるから、昨日何があったか教えろ。細々聞き出すのは趣味じゃねーが、一応被害者だからな。聞いとかなきゃいけねえ」
その通りだ。加害者がいる以上、アゲハ先輩には聞く権利がある。正直話したくないこともあるが、真相を伝えるのは俺の義務だ。
俺は阿佐美のことを話した。
「それはえれえとばっちりだ。刺されなくて良かったぜ」
アゲハ先輩はクックックと笑い、咳き込んだ。
「まあ、美人の税金みたいなもんだ。お前は気にすんな」
「本当に問題にしなくていいんですか?」
「オレは教師に話すつもりはねえ。お前が大事にしたいなら止めやしねえけどな」
アゲハ先輩ははっきり言い切った。アゲハ先輩がそういうなら、俺は阿佐美のためにも事を大事にするつもりはない。
「もう四月も終わりだな」
ふとアゲハ先輩が呟いた。外を見るような仕草をしたが、ベッドを囲むカーテンに阻まれて外の様子は見えない。
「窓際のベッドは使わないんですか?」
俺は尋ねた。保健室で会う時、アゲハ先輩はいつもこの真ん中のベッドを使っている。
「別に外なんか見たかねえよ。そういうのは病気慣れしてねえ、気の弱ったやつにくれてやれ。ここが私の指定席だ」
アゲハ先輩は真っ白な天井を見上げた。白く伸びた綺麗な喉が、俺をドキリとさせる。
「別に死にゃあしねえけどさ、死ぬならこういう何もない全面真っ白な部屋がいい。オレもそこで白くなって溶けるみてえに死にたい。窓の外の葉っぱを数えるような真似ごめんだね」
彼女の死生観がそっと肩に触れる。今は大分マシになったと聞くが、幼いころは本当にその狭間にいたのだろう。彼女は死について語るとき、ほんの少しだが幼い表情になる。
「もうゴールデンウィークだ。また施設に行くぞ、日付が決まった。昨日はその話をするつもりだったんだ」
「アゲハ先輩はあの施設のこと好きですよね」
俺は言った。彼女は施設の話になると、いつも顔を明るくする。
「好きっつーか。頭が下がるよ。あんな大量のガキども相手にしてる職員さんにはな。それに私はこんな体だから、ちっせえ頃は特に家族に甘やかされて育ったからな。孤立無縁で生きてる奴らを尊敬するよ」
「この間行ったとき、来年うちのサークルに入りたいって子がいましたよ」
「みはるのことか。明るいいい子だ。手ぇ出すなよ」
「出しませんよ」
「せっかく部員がいるんだしゴールデンウィークくれぇは遊んでやりてえけど、オレは悪いが家でゆっくり寝かせてもらうよ。単位を気にせず惰眠をむさぼれるいい機会だ」
「ゆっくり休んでください。俺も似たようなもんですけど」
バレー部の練習がない初めてのゴールデンウィークだ。俺も惰眠をむさぼるのに賛成だ。
「それが終わればお前、6月はもう学園祭だろ? 何でこの学校は梅雨の時期に学園祭なんかやるんだろうね。どうかしてる」
「学園祭では何かするんですか?」
「おう、大変だぞ。学園祭一週間前からプラカードを持って校内を練り歩くんだ。クラスや部活で出し物やる連中の手伝いを買って出るんだ。段ボール切ったり、買い出しに行ったり、力仕事ももちろんある。繫盛期だな」
アゲハ先輩は楽しそうに語った。バレー部は学園祭準備期間中でも練習練習で、当日も何もしなかったので、俺も今から楽しみになってきた。
「一年あっという間とかよく言う奴がいるけどよ、くたばってると案外時間が長く感じるんだ。オレは歩きもだけど他の奴らよりスローに生きてる。だからガキみてえにイベントごとが待ち遠しいんだ」
きっと体のせいで参加できなかったイベントも数知れないのだろう。彼女はたとえ張り切りすぎて熱を出すことがわかっていても、全力で取り組む。俺は少しでも彼女を負担を減らす手伝いをしたいと思った。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。阿佐美のことを事細かに話していたので気付けば時間が経っていた。
アゲハ先輩は大きく背伸びをした。
「さて、教室に戻ってやるか」
「アゲハ先輩。今回の件は俺が阿佐美に対して曖昧な態度を取り続けていたことが原因です」
俺は強引に話を戻した。
「そう思うならスパッと振ってやりな。ま、刺されても知らねえけどな」
弁当箱を鞄にしまいながら、アゲハ先輩は笑った。
「よく笑っていられますね。また昨日みたいなことがあるかもしれないのに」
「女の喧嘩には女の喧嘩の妙味があるのさ。次は返り討ちだよ」
そんなことより、とアゲハ先輩は膝に手を着いて俺に向き直った。
「まあ発端はお前かもしれねえが、助かったもんは助かった。礼をさせてくれ、借りを作ったままは嫌なんだ。何がいい?」
「お礼なんて……そんな気分じゃないです」
「そうか? じゃあお前ちょっとこっち寄れ」
俺が言われた通り身を乗り出すと、アゲハ先輩はハイハイをするように、こちらに近づいてきた。そして、俺のネクタイを手に取り、手繰り寄せた。涼し気な透明な双眸が、至近距離で俺を鏡のようにそのまま映し返す。
俺は身じろぎもできず、その場でゴクリと息を飲んだ。
どのくらい時間が経っただろう、ほんの数舜だったかもしれない。不意に彼女は細い首をぬっと伸ばして、ゆっくりとした動作で俺の頬に唇を押し当てた。
俺は目を丸めたまま硬直し、それから慌ててアゲハ先輩の体を引き剥がすと、勢いあまって椅子から転げ落ちた。
転げ落ちる瞬間、こちらを見下ろすアゲハ先輩の冷たい顔が見えた。彼女のことを下から見るのなんて初めてだった。長く上に跳ねたまつげと、朱色の薄い唇が妙に目に焼き付いた。
アゲハ先輩は高笑いで、ベッドの上から俺のことを覗き込んだ。
「とりあえずこれでいいか? 美人のキスより上等な礼なんて他にないだろう?」
俺は彼女の赤いリップが、頬に残っちゃいないか気が気でなかった。




