【第四章 】第一話:告白
第四章
部室に来る順番は大体決まっている。まず教室の近い俺が一番乗りして鍵を開けることが多い。教室でクラスメイトと駄弁っている時はその限りではないが、それはみんな同じだろう。
次にコノハ先輩。彼女は部室の鍵が開いているのがわかると涼やかな声で「お疲れ様」と言って入ってくる。コノハ先輩との二人きりの部室は、一日の疲れをすっかり癒してくれる。
そして、白羽。教室が遠いのもあるだろうが、彼女は基本的な動作がスローだ。そうでなくても、クラスでおしゃべりをしたり、軽音部を冷やかしたりしていることが多いと聞く。
二人ともすぐには来ない。予め依頼が入っていなければ、依頼が入るのを待っているだけだし、依頼は飛び込みよりSNSから入ることが多い。依頼が舞い込んで来ればグループチャットに連絡が来る。急ぐ必要などない。だから各々が各々で付き合いを消化した後にやってくる。
最後にアゲハ先輩。アゲハ先輩はまさに重役出勤といった具合で現れると、ふらふらとした足取りで何も言わずに定位置の窓際の椅子に腰を下ろす。だがアゲハ先輩は時々誰よりも早く部室にいる。保健室でリモートで六限を受けた後、HRをさぼって直接部室に来るからだ。
おそらく、その日もそうだったのだろう。
HRが終わり、俺はささやかなクラスメイトとの雑談の後、いつものように部室を目指した。赤錆にまみれた部室棟の階段に足を掛けたところでスマホが鳴った。
『今日は閉店だ。全員帰れ。』
部のグループチャットに、アゲハ先輩からの書き込みがあった。
アゲハ先輩の気まぐれだろうか。少しガッカリしつつ、足を地面に下ろすと、またスマホが鳴った。今度は個人チャットだった。
『お前は来い。』
意図がわからなかった。二人で話したいことがあるなら別の場所に、例えば保健室にでも呼び出せばいい。他の二人を帰す必要はない。
俺は首をひねりながら、再び階段に足を掛けた。
外壁の通路は、もうじき五月になろうとしている暖かい陽気に包まれていた。校庭の桜の木はすっかり緑に染まり、少量の暖かさを含んだ風にそよいでいる。下では軽音部が練習を始めたようで、かすかにエレキギターの音色が聴こえてきた。
「お疲れ様です」
部室に入ると、正面の定位置にアゲハ先輩の姿があった。珍しく窓を閉め切っている。
「よお、早かったな。お客さんだぜ」
俺は彼女の視線の先を見た。そこには所在なさげにパイプ椅子に座る阿佐美凛の姿があった。
阿佐美は力のない瞳で、俺のことを無言で見上げた。
「阿佐美? どうして?」
俺はアゲハ先輩の方に向き直った。刺すような瞳が俺を見ていた。
アゲハ先輩は口を開いた。
「部室の前でうろうろしてるから拾ってきたぜ」
「オレはこの場では一応先輩みてえだけど、司会者をやるのはごめんだぜ」
沈黙に耐えかねたのか、アゲハ先輩は気怠そうに呟いた。
俺は机を挟んでアゲハ先輩の正面に座っていた。阿佐美はいつも白羽が座っている俺から見て右側の位置だ。
「来斗、お前が聞けよ。オレとは口を利きたくないのかもしれねえ」
アゲハ先輩の言葉に、俺は瞬く間に乾いてしまった喉をなんとかこじ開けて、阿佐美に尋ねた。
「阿佐美、どうしてここに来たんだ?」
静寂の中、下の軽音部からギターの音色がかすかに聴こえる。この音色はアコースティックギターだ。ひょっとしたら暇を持て余した白羽が軽音部にお邪魔しているのかもしれない。
「……ごめん」
阿佐美は下を向いたまま、今にも消え入りそうな声を絞り出した。
「ごめん。ごめんなさい。……私、酷いことした」
「それは俺じゃなくてあの人に言ってくれ」
俺は優しく慎重に阿佐美に語り掛けた。彼女の火薬庫はまたいつ爆発するかわからない。
「……ごめんなさい」
阿佐美は頭を少しだけアゲハ先輩の方に向けて呟いた。
「オレはいいよ。だが今度からはもっと方法を変えてくれ。口喧嘩ならいくらでも付き合うぜ」
アゲハ先輩はどうでもよさそうに手をひらひらと振った。
「口喧嘩もやめてくださいね」
俺は口を挟んだ。
「まあいいや。来斗、一応確認しておくが、こいつがオレをかび臭せえ体育倉庫に閉じ込めた犯人って事でいいんだな?」
俺は頷いた。
「そうか。阿佐美とか言ったか? 別にオレは怒っちゃいねえし、大人に言いつける腹もねえよ。謝罪も別にいらねえが、まあ受け取っておく。それで? 他に何か言いたいことでもあるのか? 今日はもう部活を解散させたんだ、いくらでも時間はある」
「……冬川と二人で話させてください」
阿佐美は重々しく口を開いた。
「それはよそでやりな。ここはオレの部屋だ」
「アゲハ先輩そんな言い方は」
俺は阿佐美の前に腕を伸ばして、アゲハ先輩を見た。アゲハ先輩は知らない。阿佐美の内に秘めた衝動的な一面を。アゲハ先輩の挑発的な言動がいつそれを引き起こすかわからない。遺恨が残ればまたこの前のような……いや、それ以上の行動を阿佐美は起こすかもしれない。
「来斗、そいつをかばうのか?」
アゲハ先輩は不敵な笑みを浮かべた。
「かばいますよ。大事な友達なんです」
「そりゃご苦労」
アゲハ先輩は退屈そうに爪を眺めた。
「冬川。ここがアンタの居場所なの?」
阿佐美は素早くこちらを振り向いた。大きな瞳がまっすぐに俺に向けられていた。
俺は彼女から目を逸らして、アゲハ先輩を見た。
「来斗、黙ってるから、勝手にやってな」
アゲハ先輩は窓の鍵を開けて、掌で引きずるように窓を開けた。軽音部の演奏がわずかに近くなる。
「そうだよ。バレーは嫌いだって言ったろ? 今はここが俺の居場所だ」
「ここじゃなきゃダメなの?」
阿佐美は口調こそ穏やかだが間髪入れずに俺を問い詰める。
「そうだよ」
俺は少し躊躇って、しかしはっきりした口調で答える。
「人の役に立てて俺は今すごく幸せだ。学内だけじゃない、児童養護施設に行ったりもするんだ。それに部員のみんなもみんないい人だ。コノハ先輩は優しく勉強を教えてくれるし、白羽はいつも眠そうだけどギターを弾いてくれる。アゲハ先輩も口は悪いけど、この部のことを誰よりも思ってる。それに俺、副部長なんだ。もうどこにも行けないよ」
「……そうなんだ。バレーにもう未練はないんだね」
阿佐美は俯いて、ぼそぼそと呟いた。
「ないよ」
俺ははっきり答える。
「私のことは?」
阿佐美は顔を上げた。俺が答える前から、彼女は見開いた目に涙を流していた。
「阿佐美のこと?」
「うん。小学校からずっと一緒で、ずっと一緒にバレーをしてきて……。私のことも置いていっちゃうの?」
うるんだ瞳が俺を射貫く。
アゲハ先輩は俺のことをニブいと言うが、俺だって人形じゃない。阿佐美の気持ちには気付いている。気付かない振りを、長年してきた。それが阿佐美を追い込んだのかもしれない。俺は両手を握りしめた。俺はこれから俺の意思で阿佐美に残酷な事を言う。俺はアゲハ先輩の方を向きたい気持ちをぐっと抑えて、阿佐美の目をまっすぐに見返した。
「阿佐美、俺は――」
「待って!」
阿佐美は俺の言葉を遮った。俺と同じように両手を握りしめ、激しく首を横に振る。必死な目が俺を捕まえようと追ってくる。
決めた覚悟が揺らぎそうになる。だが俺は逃げずにその目を捉える。
「阿佐美」
「お願い……」
阿佐美は縋り付くように俺の両腕を握った。
俺は阿佐美の両肩に手を置いて、彼女を優しく引き剥がした。耳を澄ましても、アゲハ先輩の軽口は聞こえない。
「阿佐美。お前は俺の大切な友達だ。だから、いつもじゃなくていい、明るい阿佐美でいてくれ」
阿佐美は崩れ落ちて静かに泣いた。
俺に彼女の肩を抱く権利はない。俺はいつものように高いところから阿佐美を見下ろすことしかできなかった。
鼻をすすりながら立ち上がった阿佐美は、腫れた目でアゲハ先輩を指差した。
「あの人と付き合ってるの?」
俺は慌てて首を横に振る。
「違うよ。あの人は尊敬する先輩で……」
「近々その予定だがな」
黙していたアゲハ先輩が口を開いた。
ちょっと待ってくれ。どういう意味だ? 理解が追い付かない。
「ふーん、そう」
阿佐美はもう興味はないといった様子でスカートを払った。
「冬川」
阿佐美は俺の名を呼んだ。その目は赤く腫れながらも綺麗に澄み渡っていた。
「バイバイ。またね」
そう言い残して、阿佐美は部室から出て行った。
「したたかな女だな。オレの前で見せつけやがって」
後ろからアゲハ先輩のいつもの憎まれ口が聞こえた。
「どういう意味です?」
「そのままさ、あの女はもう上手くいかないことをわかってて、それにオレを巻き込んで派手に散ろうとしたのさ。ま、八つ当たりだな」
「そうじゃないです。その……近々というのは……」
「ああ、それか」
アゲハ先輩は思い出したように笑った。
「意趣返しだよ。やられたまんまってのも性に合わねえだろ」
アゲハ先輩は大きく背伸びをした。
「そうですか。少しホッとしました」
「なんだあ? 気に入らねえな」
大口を開けてアゲハ先輩は言った。
「ま、でもそうだな、時期尚早だがじれってえのもだりぃ」
アゲハ先輩はまっすぐに俺の目を見た。黄み掛かったその双眸は、透明でありながら力強い輝きを放つ。
俺はその瞳に射貫かれ身じろぎもできなかった。軽音部の放つ喧騒がどんどん遠ざかっていく。
そして、アゲハ先輩はいつも俺に命じるように告げた。
「来斗、お前オレの男になれよ」




