【第三章 】第二話:犬、吠える
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放課後の体育館の割り振りは、女子バレー部・女子バスケ部と女子で固まることもあるが、女子バレー部・男子バレー部とバレー部で固まることもある。だが退部した俺に、現在のローテーションがわかるはずもなかった。
ただ女子バレー部が今日活動していることには、確信めいた予感があった。おそらく彼女はアゲハ先輩を体育倉庫に閉じ込めた後、部活に出て、部活が終わったころを見計らい先輩を解放するつもりなのだろう。
そのまま鍵をどこかに捨ててしまうような真似はしないはずだ。そこまでするならアゲハ先輩のスマホを奪ってから閉じ込めたはずだし、現役バレー部の彼女が病弱なアゲハ先輩からそうするのは難しくないだろう。
「全部想像だがな」
俺は吐き捨てるように一人ごちた。
廊下を走ってはいけないという名目で歩きながら、俺はこの期に及んで、男子バレー部との接触に恐怖していた。頼むからいないでくれと祈っていた。
大事の前の小事なのは百も承知だが、後ろめたさで胃がせり上がり、今にも吐きそうになる。
気が付くと足が止まっていた。
アゲハ先輩が酷い目に合っているのに……! 俺は自分を奮い立たせてまた歩き出した。忠犬でも何でもいい。俺はあの青白い肌が、暑さで真っ赤に染まっている姿なんて見たくない。
体育館の前まで来ると、バレーボールが床を叩く音や、シューズが立てる甲高い音が、耳がいっぱいになるほど聞こえてきた。この音の量なら、今日は両面バレー部が使用しているだろう。
足が動かない。俺は今頃体育倉庫にいるはずのアゲハ先輩を探した。彼女なら部活の雑踏の中をまっすぐと切り裂くように歩き、目的に向かって一直線に進んでいくはずだ。
俺は彼女になりたい。アゲハの名の通り儚く、しかし美しい、強い存在感を放つまぶしい光。俺はそんな彼女に憧れKVCに入った。その強固な魂を真似るつもりで、俺は右足を出した。一度持ち上げてみると、俺の足は拍子抜けするほど羽のように軽かった。
体育館に一歩足を踏み入れると、まるで透明な壁を通過したかのように、音が大きくなった。めまいがしそうな頭を、頬を両手でパシンと叩いて俺は進んだ。
中では男子バレー部と女子バレー部が、体育館の中央をネットで区切ってそれぞれ練習していた。女子バレー部は俺から見てネットの奥だった。
渦巻く熱気の中を、俺はただ一人制服姿で、男子バレー部の練習しているコートの脇を歩いた。
目立つデクノボーの俺を見て、見知った男子バレー部の部員が一人、また一人と動きを止めていった。事情を知らない一年生と思われる生徒も不思議そうに俺を見ている。針のむしろだ。恥と、申し訳ない気持ちで、血が沸騰しそうになる。喉の奥が熱い。吐きそうだ。
男子バレー部から音と熱気が消える。だが、悪いが男子バレー部に用事はない。俺は唾を飲み込みまっすぐ前だけを向いた。男子バレー部を素通りして、仕切りのネットを潜り、女子バレー部へ。
男子バレー部の異変を感じ取り、女子バレー部もにわかに動きを止めていた。
俺はコートの右端に居た阿佐美の手を掴んで、無言でコートの外へ引っ張り出した。練習が完全に中断し、体育館は静寂に包まれ、誰かのシューズのゴム製の靴底が床を鳴らす音がやけに大きく聞こえる。体育館中の視線が俺たちに集中する。
俺は阿佐美の大きな瞳を見た。その目は怯えているようだった。俺はせりあがってくる怒りを抑えて、彼女をまっすぐに見つめた。
「阿佐美、鍵を渡してくれ」
「ちょっとどうしたの冬川? 練習中だよ? 鍵って何?」
阿佐美が戸惑いながら俺を見上げてくる。
「頼む、阿佐美、鍵を渡してくれ。お前を責めたいわけじゃない」
「なんのこと? ちょっとアンタおかしいよ? ねえほらみんな見てるよ」
「阿佐美、あの人は体が弱いんだ。あんな場所に置いておけない」
「そんなに大事なの?」
その瞬間、阿佐美の目の色が変わった。
「頼む阿佐美、鍵を渡してくれ」
「アンタでもそんなに余裕のない顔するんだね」
阿佐美は歪に口角を釣り上げて笑った。
「するさ。わかりにくいだけで俺はいつもいっぱいいっぱいだよ」
「そんなことない。アンタはいつも雲の上にいる」
「頼むよ阿佐美。何がお前にこんなことさせるんだ」
「アンタがバレー辞めるからでしょ?」
俺を見上げるその瞳から涙が零れ落ちた。
「認めるんだな」
「ほら、そうやって高いところから……。たまには私に目線を合わせてよ」
「阿佐美。俺はお前のことをまだ嫌いじゃない。覚えてるか? 小学校のバレークラブ。男子も女子もごっちゃで、背の高い俺とお前がそれぞれのチームのキャプテンをやってた」
「……覚えてるよ。あの時の思い出があったから私はまだバレーをやってる。本当に楽しかった」
「ああ、楽しかった。俺も同じだ。あの時の思い出が無かったらスカウトされたってバレーなんてやってない。バレーをやってて一番楽しかったのは間違いなくあの頃だ」
「やめてよ! どうせもう何もかも終わりなんでしょ!?」
阿佐美は突如悲鳴のような声を上げた。
「何も変わらないよ。阿佐美が鍵を渡してくれれば、先生にも言わないし、他の誰にも言わない。だから頼むよ。あの人は弱音を吐かないんだ。もしかしたら今もとても苦しい思いをしているかもしれない」
「好きなの?」
爬虫類の瞳が牙をむき、俺を見上げた。
「わからない。でも尊敬してる。体がでかいことに甘えてる俺と違って、弱い体でそれでも自分を通してる」
「それは好きだよ。好きって言うんだよ」
「そんなことはどっちだっていいんだよ。俺は阿佐美にこんなことをしてほしくないし、あの人を助けたい。だから鍵を渡してくれ阿佐美頼むよ」
「嫌。そうしたらアンタは二度とバレー部に戻って来なくなる気がする」
「バレー部には戻らないよ。あの人は関係ない、俺がそう決めたんだ」
「どうして? レギュラーじゃん。エースじゃん。あんなに楽しかったじゃん」
「楽しかったよ。でもそれは小学校のクラブだけだ。あの時が特別楽しかっただけなんだ」
「これから楽しくなるかもしれないじゃん。まだ二年になったばっかりだよ。後輩だっていっぱい入って来たじゃん。全部全部これからじゃん!」
「違うんだよ阿佐美そういうことじゃないんだ」
「じゃあ、どういうこと!? 私にはわからない。背だってそんなに高いのに、バレーやらなきゃもったいないじゃん。バスケ部に行くなら私だって少しは理解できるよ。でも草むしりなんかしてもったいないよ」
「もったいないなんて言わないでくれよ。俺は今とっても充実しているんだ。俺は人の役に立ちたいんだ。中学でバレーをやったのも人の役に立ちたかったからなんだ。勝負より、人に奉仕することでこの体を活かしたいんだ」
「わからない。わからないよ。そんな理由でどうしてバレーを捨てられるの?」
「俺にとっては重要なことなんだよ」
「アンタはまだ望まれてるよ。男バレのみんなだって、アンタに帰ってきてほしいと思ってる。それに応えるのじゃだめなの?」
「ああ、それじゃ駄目なんだ」
「どうして! 何が違うの!?」
「阿佐美」
脳裏でアゲハ先輩が二ッと笑った。
「俺はバレーなんか大っ嫌いなんだ! もううんざりなんだよ! ボールも見たくない! いいか阿佐美。俺はバレーが嫌いだ! バレーなんか大っ嫌いなんだ! 頼まれたって二度とやってやるもんか!」
俺のヘイトスピーチは体育館中に響き渡り、水を打ったような静寂が訪れた。
背中の男子バレー部は、今頃俺のことをどんな目で見ているだろう。女子バレー部の面々は一様にただ目を丸めている様子だった。
その渦中で、俺は風呂上がりのようにすがすがしい気分だった。長年溜め込んだ膿を絞り出したのだ。さっぱりして、体中の力が抜ける。思ったことをそのまま口にするというのはこんなにも、痛快で気持ちのいいものだったのか。
「じゃあいい」
阿佐美はポケットから小さなカギを引っ張り出して、地面に叩きつけた。
「もう、話すことなんて無い。ここからいなくなって!」
俺は鍵を拾った。
「阿佐美。俺はまだお前と話すことがいっぱいあるよ。だからまた今度話そう。俺たちまだ二年生になったばかりだろ」
俺は阿佐美にそう告げると、男子バレー部にはわき目も振らず、急いでグラウンドの体育倉庫を目指した。未練がましく後ろを振り向くと、阿佐美が立ち尽くして何もない壁をじっと眺めていた。
「アゲハ先輩!」
絡まる指で南京錠に鍵を差し込み、入り口を開けると、アゲハ先輩はマットの上で仰向けに横たわっていた。
「先輩無事ですか!?」
「うるせーなー」
体育倉庫の中は、夏を封じ込めたような熱がこもっていた。入り口を開いた衝撃で埃が舞い、その臭いが鼻を刺す。
俺はアゲハ先輩の元へ駆け寄った。横たわるアゲハ先輩は制服の上着を脱ぎ捨て、シャツのボタンをはだけさせており、汗で黒い下着が透けて見えた。その白い肌は熱を帯び、いつもの青白さを隠すと、ほのかに赤く発色していた。
「ありがとよ。やっぱりお前の身から出た錆だったか」
不敵に笑いながらも、アゲハ先輩はぐったりしていた。
「すいません。どうお詫びしていいか」
「バカ言うんじゃねえ俺が感謝してるんだからそれでいいじゃねえか。そんなことよりすることがあるだろ」
「なんですか!? 何でも言ってください」
アゲハ先輩は二ッと笑った。
「お姫様抱っこしろよ。この場合お姫様はオレな」
俺は戸惑ったが、人命救助のためなら仕方ない。
「失礼します」
「おう」
俺はそっと先輩の膝の裏と、脇の下に腕を伸ばした。アゲハ先輩は驚くほど簡単に持ち上がった。こんな軽い体に、強烈な個性を忍ばせていることが感動的だった。
「運転手さん。保健室まで頼むぜ。帰るにしても、クーラーの効いた部屋で横になりてえ」
俺はアゲハ先輩を抱えたまま、グラウンドを横断し、校舎の中に入った。放課後とはいえ俺は目立った。だが俺の腕の中でぐったりしているアゲハ先輩を見れば、誰も冷やかす気にはならなかっただろう。
俺は足で保健室の戸を開けた。養護教諭は外しているようだった。俺は供え物をするかのように、彼女をベッドに寝かせた。
「手間掛けさせたな。礼は今度してやる」
それだけ言うとアゲハ先輩は喋らなくなった。抱き上げているときから呼吸が荒いのがわかった。
しばらくして荒い呼吸は寝息へと変わり、俺もようやく少し落ち着くことができた。俺は阿佐美のことを思った。あれから彼女はどうなっただろう。体育館はどうなっただろう。これは俺が引き起こしたことなのだろうか。わからない。だが事の経緯を説明したら、きっとアゲハ先輩は俺を責めず一言「バカ言うんじゃねえ」と吐き捨てるのだ。




