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【第一章 】第二話:邂逅


   ■


 破裂しそうな心臓を押さえて保健室に足を踏み入れたが、中には誰もいなかった。窓が僅かに開いており、カーテンが静かに揺れ、加湿器の音だけが聞こえた。

 騙されたか?

 俺は廊下に顔を出し、左右を見渡したが、俺を肴に笑おうという生徒の姿はない。

「冬川君か? ベッドの方まで来てくれ」

 不意にパーテーションの向こうから、ぶっきらぼうな女の声がした。

 この先に何が待つのか。

 俺はパーテーションの脇を抜けて、ベッドの並ぶスペースに入り込んだ。

 三つあるベッドはカーテンで仕切られていた。

 真ん中のベッドに、カーテン越しに人影が見えた。

 白い手が生えるように出てきて、内側からカーテンをめくった。

 俺は驚いた。ベッドの上では、今朝見たプラカードの女が、体操座りしていた。タブレットをベッドの上に立て、それを眺めながらノートにペンを走らせている。

「悪いね。六限の板書がまだ終わってないんだ。ちょっと待っててくれ」

 板書? ここで授業を受けているのだろうか。長身を活かして上から覗き込むと、タブレットでは見知った教室で、見知った教師が教鞭を振るっている姿が一時停止されていた。

 保健室登校。リモートで授業を受けていたのだろうか。

 彼女は細く長い指で画面をピンチアウトさせ、大きくなった文字を、脇に置いたノートに書き写していく。

 俺はもちろん行ったことなどないが、遊郭の遊女を思い浮かべた。

 彼女の白い肌が、赤いリップを際立たせて、妖艶に光を放つ。

 彼女が真剣に板書をしているので、俺はしばらく黙ってその光景を眺めていた。練習を始めたサッカー部の掛け声に交じって、シャープペンシルがノートを引っ掻く音が聞こえる。バレー部はまだネットを組み立てている最中だろう。自由になった放課後、あり余った時間を、俺はずっと彼女の横顔を見下す事に費やしていた。


「よし、終わったぞ」

 彼女はそう言うと、手早く筆記用具とタブレットを学校指定の通学鞄にしまい込んだ。うーんと背伸びをして、あぐらに足を崩して俺の方を見た。俺が立っているからまだいいが、短いスカートでその姿勢はあまりに無防備すぎる。

「待たせたな。じゃあ、自己紹介だな」

 彼女の言葉選びは男のそれだったが、俺はそこに男らしさは微塵も感じなかった。少し枯れた高音の声は笛の音のように軽やかだったし、彼女の容姿は百人中百人が美女と呼ぶ代物だった。

「オレは3―Cの桂川蝶羽 (カツラガワ・アゲハ)。『学内ボランティアサークル部』の現部長だ。なんか質問あるか?」

 彼女は気怠そうに名乗った。

 突然の問いかけに俺は混乱しかけたが、すぐにポケットの中の手紙の存在を思い出した。

「この手紙な――」

「あー、突っ立ってないで座れよ。椅子あるだろ?」

 彼女は俺の言葉に割り込んだ。

 俺は言われるままベッドの下にあった丸椅子に座った。嫌でもあぐらをかいた彼女の太ももに目が行く。彼女の体はどこをとっても白く細く、そして艶めかしい。

「この手紙をよこしたのは桂川先輩ですか?」

「あーやめろやめろ」

 彼女は食い気味に言葉を発した。

「その苗字で呼ばれるの嫌いなんだ。アゲハ先輩と呼べ。そうだよ手紙はオレ」

 アゲハ先輩は、その薄く透き通った瞳で俺を見た。どこもかしこもか弱そうな体だったが、瞳だけは強い輝きを持っていた。俺は標本にされた蝶のように、彼女から目を離せなかった。

「保健室に来いとだけありましたが、何の御用ですか?」

「冬川来斗」

 不意にアゲハ先輩は俺の名を口にした。

「元バレーボール部。一年時にすでにレギュラー。ポジションはミドルブロッカー。威張らず雑用も進んでこなし、対人回りも良好。アグレッシブさがないのが欠点。まあ元だがな。今年の一月に退部済み」

「誰に聞いたんですか?」

「オレみたいに保健室に入り浸ってると、色んな情報が勝手に耳に入ってくるんだ。聞きたいことから聞きたくないことまでな」

 アゲハ先輩はクククと笑った。

「それで俺にどうしろと? 部に戻れと言いたいんですか?」

「怖い顔すんなよ。雑談だよこんなの、どうでもいい」

「じゃあ何の用で?」

「わかんねえか? その図体を帰宅部にしとくにはもったいないと思ったんだよ」

 そして、アゲハ先輩は俺の命運をたずなを引っ張り上げるように、その言葉を口にした。

「冬川来斗。お前『校内ボランティアサークル部』に入れよ」


『校内ボランティアサークル部』略称『KVC』。

 その夜、俺は自宅のベッドでアゲハ先輩の説明を反芻していた。

 なんでも、この部は教師や部活動、委員会、或いは生徒個人に至るまでの依頼を受け、その手伝いを行うというものらしい。そして、校内とうたっているが休日は校外での活動もあるとのこと。

「言葉のまんまボランティアだ。雑用とも言う」

 脳内でアゲハ先輩の特徴的な喋り方が再生される。

「だが諸先輩方が卒業しちまって、今はオレ一人なんだ。そのうえオレは御覧の通り貧弱で雑用なんて出来やしねえと来てる。安心しろ、二人きりってことはない。一応当てはある。新入生も入るかもしれねえしな」

 どうだ? とアゲハ先輩はその透き通った瞳で俺を覗き込む。

「お前のようなデクノボーにはうってつけだと思じゃねえか?」

 部員の数には不安があるが、確かに俺のような何の取り柄もない大男にはうってつけかもしれない。雑用なら力仕事も多いはずだ。

「別に今決めろとは言わねえよ。一晩でも一週間でも考えてくれ。オレは大抵保健室か部室にいるからさ。まあ新入部員の勧誘してぇから早いほうが助かるけどな」

 ――スカウトを受けるのは人生で三度目だ。一度目は中学の時にバレー部とバスケ部から、二度目は高校に入ってまたバレー部から。別にバレーに興味があるわけじゃなかった。求められることに応えようと思っただけだ。

 考えるまでもないことだった。KVCの活動は俺の求めていた人の役に立つことだ。それに、こんなただのデクノボーを拾ってくれようという人がいるなら、応えたいと思う。

 だが俺は決めきれず迷っていた。また流されて、期待されて、応えることに疲れやしないか。バレー部に入ったことを後悔しているわけじゃない。でも望まれるまま、望まれる姿を演じるのは、もうごめんだ。

 退部は俺が意思を持って生きるための意思だった。


 気付いたら眠りに落ちていたらしい。

 時刻は午前5時半。二度寝する時間は十分あるが、俺の目はどういうわけかぱっちりと冴えていた。朝練の習慣だろうか、早く起きることには慣れていた。

 階段を降りると、リビングはしんと静まり返っていた。母さんはいつも早起きして、俺に朝食を作ってくれた。感謝しているが、後ろめたくもあった。

 俺はテレビを付けて音量を下げた。漫然と朝のニュースを眺めていると、ドアの開く音がした。母さんだった。

「ごめん、母さん起こした?」

 俺はパジャマ姿の母さんに尋ねた。

 母さんは

「歳を取ると早く目が覚めるのよ」

 と笑った。

「アンタこそどうしたのこんな時間に?」

「たまたま早く目が覚めただけだよ」

「あらそう」

 母さんは「部活を再開したの?」とか「朝練してた頃を思い出すわね」とは言わなかった。俺が俺の意思で決めたことをとやかく言わず、気遣って触れないようにしている。自分が早く起きたのだって、朝練をしていた頃の習慣が、染みついているからだろうに。

 その日の朝食は、時間があるので少しだけ豪勢だった。

 家にいても暇なので、少しだけ早く家を出た。いつもより空いているバスに揺られ、部活もないのに早く学校に着いた。

 校門を過ぎると、すでに勧誘活動をしている部がいくつかあった。このために早く来ているのだろうか。頭が下がる。

 と、そこにアゲハ先輩の姿があった。

 今日はちゃんと立って、プラカードというにはお粗末な段ボールの板を胸の前に抱えている。しっかり二本の足で立っているのに、その姿にはどこか幽鬼のような空気が漂っていた。

「おはようございます」

 素知らぬ顔で通り過ぎるのも悪い気がしたので、俺は彼女に頭を下げた。

「おう、おはよう。お前は目立つな、入ってきた瞬間わかったぜ」

 アゲハ先輩は不敵に笑った。

「早いんですね」

「まあな。年寄りと一緒さ。病弱の朝は早いんだ」

 アゲハ先輩は胸を張って開き直ったように言い放った。

「新入部員は増えそうですか?」

 俺は尋ねた。

 アゲハ先輩はお手上げのポーズを取った。

「駄目だな。最近の若い奴には奉仕の精神ってものがない。それにしてもお前も野暮な奴だな。お前が入ってくれればなんて野暮なことオレに言わせたいのか?」

 アゲハ先輩は口角で二ッと笑った。

「別に説得なんてしねーよ。話すことは昨日全部話した」

「アゲハ先輩はどうして部を存続させたいんですか?」

 俺は尋ねた。

「あ? そりゃあお前、諸先輩方は間抜けなお人好しばっかりだったけど、一応世話にはなったし、オレの代で廃部にしたら夢見が悪いだろ。それにオレはこの体のおかげで単位がギリギリなんだ。せめて三年間ボランティア活動に勤しみましたって内申に書いて貰わねえと進学も危ういんだ」

「奉仕の精神ではないんですね」

「ねえよ。そんなもん、ねえ」

 アゲハ先輩は1ミリだけ照れたように突っぱねた。

「何人いれば部を存続できるんですか?」

「オレ一人でもいりゃあいいよ。部の設立には四人だか必要だけど、部員が一人になったって活動してる限りは学校は取り上げたりしねえよ」

「先輩は何か活動してるんですか?」

 俺が尋ねると先輩は俺の足を蹴った。遠慮の無い蹴りだが全く痛くはない。

「今やってるじゃねーか。目ぇ付いてんのか? それとも高すぎて見えねえか?」

 どうやらこれ以外の活動はしていなさそうだ。それもそうだ。この一見立っているのもやっとな女子に、頼み事など回ってくるはずがない。

「アゲハ先輩、それ俺に貸してもらえますか?」

 俺はプラカードを指差した。

 アゲハ先輩は一瞬驚いた目で俺を見上げ

「ほらよ」

 とプラカードを突き付けてきた。

「どういう風の吹き回しだ?」

「俺は目立つんでしょ?」

「違いねえ。じゃあオレはベンチで休ませてもらうよ」

「先輩も居てください。……美人がいた方が目立ちます」

「良いこと言うじゃねーか」

 先輩は俺の背中をバンバン叩いた。羽で叩かれているようだ。

「できればその口調もやめておしとやかに声を掛けてください」

「まかせろ」

 アゲハ先輩はニヤリと笑った。

「猫を被るのは得意なんだ」

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