【第一章】第一話:手紙
プロローグ
背の低い母の代わりに、タンスの上の物を取るようになったのは、俺が小学校高学年、もしかしたらそれよりも早かったかもしれない。何の取り柄も無い俺だが、成長の早さだけは人一倍だった。同級生や一部の大人と話す時、俺の視線は常に下を向いていて、その人の目鼻立ちよりもつむじの形で誰かを識別していた。
同級生が喧嘩をしていても、教師が説教をしていても、その光景は俺の視線の遥か下で行われる。物理的にだけではなく、精神的にも、俺はいつも物事を俯瞰し、何もかも遠い出来事のように感じていた。
中学に入学すると、バレー部とバスケ部の顧問が直々に俺をスカウトしに来た。俺は流されるままにバレー部に入部した。バスケ部を選ばなかった理由は、ラフプレーなどの人との接触が怖かったからだ。俺は背が高いだけで運動神経が良いわけじゃない。足も遅いし、バスケよりは動きの少ないバレーの方が向いていると思った。でも本当はもっと穏やかな文化部に入りたかった。
俺の背はこのまま伸び続けるかと思われたが、中学三年生を期に緩やかになった。どうやら早熟なだけだったらしい。それでも周りの人たちよりも背は高く、相変わらず人のつむじを眺める生活は続いていた。それはおそらくこのまま一生続く。
高校入学時、俺はまたバレー部から勧誘を受けた。バレーに特別な執着は無いが、求められているならそれに応えたいと思った。高校のバレー部は、中学よりもずっとスパルタで、顧問は俺に「闘争心が足りない」と毎度叱咤した。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』という詩が好きだった。特に「ミンナニデクノボートヨバレ」の部分。この詩のように、バレーよりも人の役に立つことがしたかった。
俺は一年時にはすでにレギュラーだったが、その年度最後の大会を最後に、退部届を出した。顧問やチームメイトは必死に俺を止めたが、俺の意思は固かった。
いざ部活を辞めてみるとそれなりの喪失感もあり、友人たちと遊んでいてもどこかむなしく、居場所の無さを覚えていた。
二年になり、各部活が新入部員の勧誘を始めたが、退部の後ろめたさもあるし、二年からの入部も気まずい。さて残りの高校生活をどう過ごそうか途方に暮れていた俺の前に、その女は春の稲妻のように突然現れた。
彼女の名は桂川蝶羽 (カツラガワ・アゲハ)。
彼女は俺に、家臣に命令する女王のように告げた。
「冬川来斗。お前『校内ボランティアサークル部』に入れよ」
第一章
バスは暖房が暑いくらいだったが、降りると心地よい春の陽気だった。暖房が切られるのも時間の問題だろう。俺は登校してくる他の生徒たちに紛れて、バス停から歩き出す。以前は朝練があったので、自然と部の仲間と合流していたが、現在は退部した身で肩を並べる相手はいない。代わりに雑踏が俺を包み込む。
早起きする必要がなくなって、母さんも朝食の支度が遅くなっていいわと喜んでいる。本当は部活を辞めた理由を問いただしたいはずだが、何も言ってこない。俺の良く言えば温厚な気性が、対人競技に向いていないことを知っているからだろう。
校門の周りではプラカードを持った生徒たちが、懸命に部活の勧誘をしていた。
二年生になった俺には関係のないことだ。
でも本当はどこかに所属したい。残りの高校生活を受験勉強だけに費やすのは物悲しい。友達がいないわけではないが、その大半はバレー部のチームメイトだ。部活が休みの日には、誰かが申し合わせるわけでもなく、みんなで集まって街へ繰り出していた。
「まあ、捨てたのは俺なんだけどな」
俺は鼻から息を吹いて、一人ごちる。
早く教室へ行こう。俺はそう思いつつも、使い慣れたゆっくりとした足取りで、校舎に向けて歩き出す。教室に行けば、数多のクラスメイトがいる。バレー部の人間とは気まずいが、前のクラスから同じだったクラスメイトもいるし、これから新しい関係を作っていく時期だ。2―Dの教室が、精々楽しく過ごせる新たな居場所になればいい。
校門から校舎へ向かうレンガ張りの通路を歩いていると、勧誘の列から少し外れた木陰のベンチに、一人の女子生徒が座っているのが目に入った。
彼女は一見横柄な態度で背もたれに大きくもたれかかり、形だけのポーズでプラカードを掲げている。
勧誘する気はあるのだろうか。
気になってよく見てみると、実にか弱そうな女子だった。ちょっと触れたら折れてしまいそうな細い手足。蒼ざめた真っ白な肌。その肌とは対照的な真っ黒な髪色。その毛先の整ったショートカットでさえ、華奢な首に乗っていると重たく感じる。木の影に隠れて、その瞳までは伺えない。
『校内ボランティアサークル部』
プラカードにはそう書かれていた。段ボールに黒いマジックで書きなぐった、ひどく簡素なものだ。本当に勧誘する気はあるのだろうか。
すると彼女は俺の視線に気付いた。足は止めていないものの、どうやらじっくり見過ぎていたらしい。
彼女は薄く赤い唇でニッと微笑むと、俺に向けて小さくプラカードを軽く左右に振ってみせた。
俺は妖怪にでも睨まれた気分で、小さく会釈して足を速めた。
彼女の脇を通り過ぎた後も、ずっと背中を見られている気がして、背筋がゾクゾクした。もちろん気のせいかもしれないが、振り返ったら今度は目が合いそうな予感がした。
俺は人混みに紛れ、彼女から姿を隠した。
「おはよっ!」
下駄箱に靴を入れていると、そんな声と共に背中を遠慮なく叩かれた。試合中にチームメイトに檄を入れるアレだ。
そして、この声とこの背中の痛みは阿佐美凛 (アサミ・リン)だろう。
下駄箱の蓋を閉めてから振り返ると、案の定彼女だった。
「おはよう阿佐美」
俺は彼女の運動部らしいポニーテールと、俺から見て右回りのつむじに挨拶を返した。阿佐美とは小学校のバレークラブで一緒だった。ずっと学校も一緒で付き合いも長い。女子にしては身長があり、見ていて気持ちのいい綺麗なフォームでサーブを打つ奴だった。
バレー部とバスケ部の体育館の使用権を求めた争いは中学でも高校でもあり、必然的に女子バレー部と合同で練習することもある。そのため、阿佐美とは昔から気軽に喋る間柄だ。そして、彼女は俺がバレー部を辞めた後でも、俺に気安く話しかけてくる唯一のバレー関係者でもある。
「ねえ、いつまで休んでる気? 新入生に顔が立たないよ?」
阿佐美は俺の顔をまっすぐ見上げ、朝から曇った顔で尋ねた。
「辞めたんだよ。休んでるんじゃないよ」
もう何度目のやり取りだろうか、俺は溜息を隠しながら答える。
「うんわかってる。でもね、私はまたアンタと練習したいし、みんな帰ってきてほしいって思ってるってことだけは覚えといてね」
阿佐美は真剣な顔でそれだけ言うと、パッ顔を切り替え、快活な笑顔を作った。
「はい、この話はこれで終わり。で、実際どーすんの? 急に部活辞めたら暇なんじゃない?」
阿佐美の変貌はいつものことだが、毎度少しわざとらしい。
「確かに暇だなー」
俺と阿佐美は並んで歩き出した。教室は違うがクラスは隣同士だ。
「まあアンタは大人しい文化部の方がお似合いなのかもね。お前には闘争心が足りない」
阿佐美は似てない顧問の物まねをする。
「でも部活はもういいかな。友達作って遊んでもいいし、早めに受験勉強に取り掛かってもいいし」
「確かに二年から部活入るのもねー」
阿佐美はまだ何か言いたげな顔をしている。きっと帰ってこればいいと言いたいんだろう。バレー部に戻る気はないが、彼女の気持ちは純粋に嬉しい。
「女子バレー部のマネージャーにならなってもいいかな」
俺は冗談半分で口を開いた。
「何それ、やらしー」
阿佐美はじとーっと俺を見上げてくる。そんな顔するな、冗談だ。
でも正直なところ男子バレー部もマネージャーという形なら残ってもよかった。でも周囲の期待と、俺の身長が、きっとそれを許さない。どのみち俺とバレーには、黒か白かしか残されていないのだ。
「一年生は入ったのか?」
俺は阿佐美に尋ねた。
「入った入った。女子も男子もたっぷり。アンタがいなくても安泰よ。……何かダジャレっぽくなっちゃったね」
阿佐美は一人でクスクス笑っていた。
「阿佐美は昔から後輩に好かれたもんな。念願の後輩じゃないか?」
「そうかもね。その代わり先輩にはあんまり可愛がられないけど」
阿佐美は無邪気に笑った。
「そうか? 上手くやってるように見えたけど」
「わからんかね、女子には色々あるのよ」
「それは専門外だな」
「アンタは誰とでも上手くやるよね」
「俺は広く浅くだからな」
実際、俺の高い視界には一度に大勢の人が映る。お互いが意識して見下ろしたり見上げたりしなければ、誰かと向かい合えないのだ。
「もっと熱くなれよぉ」
「時々はなってるつもりなんだけどな。わかりにくいか?」
「わかりにくいよ。こっちは見上げなきゃいけないんだから首が痛い」
そう言って阿佐美は俺をまっすぐ見上げる。ぱっちり開いた大きな目が俺を見つめた。
「そんなこと言われてもなあ」
俺は顔を反らした。
「高いところから見下ろしてないで、たまには下界に降りてきたら?」
「今度は俺の腰と膝が悪くなりそうだ」
「バレーで鍛えてたんだから大丈夫大丈夫」
阿佐美はまた俺の背中をバンバン叩いた。コミュニケーションは構わないが、少しは加減してくれると助かる。
「ねえ、私がバレー部引退したら、一緒に遊ぼうよ。バレーとか関係無しにさ、友達として」
阿佐美は唐突に呟くようにして言った。その表情は、前髪に隠され、俺の位置からでは伺えない。
「随分先の話だな。引退はインターハイ予選後だろ? 一年とちょっとか」
「一年なんてあっという間だよ。アンタもうかうかしてると、何もしないまま受験モードに入っちゃうよ」
「そうだな。高一もあっという間だった」
「でしょ? 下手すりゃ高二なんてもっと早いよ」
「そうかもな」
「部活辞めたからって、つまんない青春送ったら許さないから」
阿佐美は爬虫類のように目を見開いた。阿佐美は明るさの影に爪の長いとかげを飼っている。
「ん。気を付ける」
こういうとき背が高いと助かる、物理的な距離がある分、気圧されずに落ち着いて返せる。阿佐美は時々怖い。
そうこうしているうちに阿佐美の教室の前まで来た。
「じゃあね、また一年後!」
阿佐美は朗らかに笑いながら2―Eの教室の中へ消えた。俺の教室ももう目の前だ。俺は新たなクラスメイト達と良好な関係を築くため、気合を入れて教室に足を踏み入れた。
これはもしかして例のアレなのか!?
いや、しかし、この時代に、いやこの時代だから逆に、逆になのか?
教室に着き、机に教科書を突っ込もうとすると、引き出しの中の見覚えのない封筒に気付いた。飾り気のないシンプルな白い洋封筒で、シールではなく糊で止めてあった。
いや、焦るな。まだ誰かのいたずらという可能性もある。まだクラスメイト全員の性格は把握しきれていない。そういう悪戯な人物がいる可能性も否定できない。
いずれにせよここで手紙を開くのは早計だろう。
今からトイレで中身を確認する時間はない。俺は内心ドキドキしながら、クラスメイトとたわいない会話をして、ただ時間が経つのを待った。
永遠にも思える朝のHRが終わり、俺は素早く手紙をポケットにねじ込み、席を立った。速足で廊下を渡り、一直線にトイレへ駆け込む。
個室に入って素早く施錠し、大きく深呼吸する。心の準備は出来た。俺は封筒に手を掛けた。これまでのどんな試合よりも緊張が走る。
『冬川来斗様。放課後、保健室に来てください』
白い便箋に書かれた文面は、たったのそれだけだった。
手紙を送ったうえで、待ち合わせ場所を指定してくるとは、奥ゆかしいのか乱暴なのか判断に困る。だが、少なくとも俺宛の手紙ということは確定した。
保健室を指定してくるあたり、悪戯の線も薄い。悪戯なら体育館裏などもっと人目につかない場所を選ぶだろう。
それとも俺の健康状態に何か問題が? しかし今年度の健康診断はまだ先だ。
これはひょっとするとひょっとするのでは。
もしかしたら病弱な保健室登校の女子生徒が、ひょんなことから俺に恋心を抱き、慎ましい手段で俺に思いを伝えようとしているのではなかろうか。
生憎女子にモテたことなどはないが、背が高いことで少しだけちやほやされたことはある。
俺の青春が始まろうとしている!
教室に戻った俺は、高校入学以来最も長い一日を過ごした。
帰りのHRが終わると、俺は走り出したい気持ちを抑えて、教室でクラスメイトと少しのあいだ雑談した。直行するのは格好悪い、ここは余裕を持って挑むべきだろう。クラスメイトの言葉が右から左へ通り過ぎて行く。
時間にして10分、体感2時間。時間を潰した俺は、誰にも告げず保健室を目指した。保健室はバレー部の時代に来て以来だった。ボールが顔面を直撃して鼻血を出したのだ。それにしても、こんなに遠かったか? 俺は長身を生かして大股で廊下を歩いた。
そして、保健室に着いた。
俺はサーブを打つときのように、息を飲んでその戸を開けた。
結果から言って、俺の想像は40%くらい当たっていた。
だが重要なのは残り60%だ。
保健室に足を踏み入れた瞬間、俺の退屈な日常は消毒液の匂いと共に終わりを告げたのだった。




