【第六章 】第一話:学園祭前日
第六章
草むしり、段ボール切り、石膏像の移動、ベニヤ板の運搬、買い出し補助、冊子のホチキス止め、他。アゲハ先輩がいない三日間、クラスや部活、学園祭実行委員会、果てや教師に至るまで、依頼は徐々に舞い込むようになり、俺たちは西へ東へ奔走していた。
体が大きく力のあるタダノデクノボーの俺は時に重宝され、学祭前日である今日もすでに暗幕張りの予約が前以って入っている。クラスなどより、少人数或いは女子の多い部活から声を掛けられることが多い。大きな体で、あまり得意ではないアピール活動を精力的に行った成果だろう。
俺はグループチャットに依頼完了の報告をしながら、アゲハ先輩の素直じゃない誉め言葉を欲していた。人の役に立つこと、それそのものが喜びではあるが、俺はわがままになった。今は彼女の声が欲しい。沈黙するチャット画面を眺めながら、俺はエサを待つ犬のように、彼女のまだ見ぬせりふに身を焦がしていた。
『昼休み、保健室。』
簡素なメッセージが、俺の毛の生えた心臓をシェイクした。
彼女は今日、学校に来ている。
色彩が、スマホを中心に学校全体を波及するような錯覚を覚えた。
俺は休み時間毎に、アゲハ先輩のいる3―Cに向かって走り出しそうな自分を必死に抑えた。彼女が昼休みと指定したのだ、ならば俺はそれに従うまでだ。
昼休み。俺は走った。校則など知ったことかと、人気が出てくる前の昼休みの廊下を疾走した。
保健室の戸を開く。弁当箱を開きかけていた養護教諭が驚いたような顔をする。俺は失礼しますと一礼して、彼女の指定席――真ん中のベッドのカーテンを開ける。
「はえーよ」
アゲハ先輩は顔も上げず呟いた。ベッドの上にはまだタブレットが立てられており、彼女はノートにペンを走らせていた。
「まだ板書中だ、ちょっと待――」
俺は彼女を両腕ごと抱きしめていた。細い、なんて細い。俺は彼女がへし折れてしまうほど力を込めた。
「お前は本当に犬のような奴だな」
胸の下から優しい声がした。アゲハ先輩は首を横に向けて、俺の心臓に耳を合わせた。
「会いたかったです」
「わかったわかった」
「アゲハ先輩がいないあいだもちゃんと部活やりました」
「わかってる。グループチャット見てるよ」
「好きです」
ややあって
「ああ、オレもだ」
消毒液の匂いがする。アゲハ先輩の匂いだ。
俺は弁当を掻き込むとアゲハ先輩にこの三日間の業務を話した。白羽は巡回には参加させずギターの練習をさせ、依頼があった時だけ呼び出したことも伝えた。それから瀬戸顧問が呆れながらもとても心配していたことも。
アゲハ先輩はゆっくり弁当を食べながら、静かにオレの話を聞いた。
「失礼します」
そのとき、保健室の戸が開く音がして、聞き慣れた声が聞こえた。
「桂川ー。おっと、邪魔したか?」
瀬戸顧問はカーテンを開けると、俺がいるのを見てニヤッと笑った。
「瀬戸先生。お疲れ様です」
アゲハ先輩はあぐらをかくのを止め、女の子座りになった。
「お疲れお疲れ。もういいのか?」
「……はい。たっぷり休ませてもらいました」
「聞いたぞ? 具合悪いのに無理したんだってな」
「……はい。学園祭準備初日でしたので部長として休めませんでした」
「アター」
瀬戸顧問のチョップがアゲハ先輩の綺麗なつむじに直撃した。
「無理するなって、私がこれを言うのは何度目だ?」
「返す言葉もないです」
「わかればいい。病み上がりだから今日もあんまり動くなよ。それで明日はちゃんと楽しめ。いいな?」
「わかりました」
「頼むぞー彼氏君」
瀬戸顧問はオレの肩を叩いた。
「じゃあ、邪魔しちゃ悪いし私はもう行くわ。ご飯も食べてないし。じゃあね」
それだけ言うと瀬戸顧問は風のように保健室を出て行った。アゲハ先輩は落ち込んでいるのか、しばらく弁当にも手を付けず俯いていた。
放課後、アゲハ先輩は瀬戸顧問の言いつけ通り保健室で司令塔に留まり、俺たちは彼女の指示のもと動いた。学園祭実行委員会から、緊急の冊子のホチキス止めの依頼が入り、コノハ先輩と白羽はそちらへ向かった。
「明日、本番だけど練習に集中しなくていいのか?」
俺は白羽の背中に尋ねた。
「前日に焦るのは、にりゅー。テストといっしょ―」
だそうだ。頼もしい限りだ。俺は二人と別れ、3―Fのお化け屋敷に暗幕を張るため階段を登った。
ついでに机の運搬も手伝い、そのままプラカードを持って各クラスに営業を掛けた。俺の図体を見て、急遽暗幕の設置を依頼されたりもしたが、依頼はあまりない。準備最終日はどこも人が増員しているので、わざわざ俺たちが出る幕も少ないのだろう。俺はやはり人の少ない部活を狙って営業を掛けて歩いた。
ここ数日で一生分の表情筋と背筋を使ったと思うくらい、俺は腰を曲げ朗らかに喋るのが癖になっていた。阿佐美は俺を高いところから物を見ていると言うが、その意味が少しわかった気がする。俺はそれを仕方のないことだとさぼっていた。人と目線を合わせれば、物事は驚くほど円滑に進む。きっと分かり合えることだってある。俺と阿佐美が上手くいかなかったのも、きっとそういう事なんだろう。俺は背が高いことを言い訳にして、あらゆることを他人事にしていた。アゲハ先輩のように、ネクタイを引っ張ってくれる人を待っているばかりではいけないのだ。
文化祭実行委員会の体育館の椅子並べを最後に、下校時刻を知らせる放送が流れ始めた。アゲハ先輩を除く三人は部室に戻った。部室戻ると、それまで保健室にいたアゲハ先輩の姿があった。いつものように、窓際の席で窓枠に肘を突きながら、石像のように佇んでいる。
「ご苦労。オレは楽させてもらったぜ」
「ホントよ。こんなことならずっと楽しててもらいたいわ」
コノハ先輩は少しお怒りのようだ。
「わかった。悪かったよ。反省してる」
瀬戸顧問のチョップがまだ効いているのか、アゲハ先輩は珍しく素直に謝った。
「ならいいわよ」
コノハ先輩は矛を収めた。
白羽は無言で突進して、アゲハ先輩に抱き着いた。俺も同じようなことをしたので何も言えない。
「反省してー」
白羽はアゲハ先輩の制服に埋もれながら訴えた。
「してるよ。ごめんな」
アゲハ先輩は子犬をあやすように、白羽の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
「一番忙しいときにいないんだもの。部長失格よね。ね、冬川君」
え、俺? 確かに居て欲しかったが、居ても馬力がないので困らないと言えば困らない。俺が心を強く持てばいい話だ。
「はい、もう無理しないでください」
「ねー。あんな無鉄砲ほっといて私に乗り換えてもいいんだよ」
コノハ先輩は時々心臓に悪い冗談を言う。
「おい、それは私のだ」
「だってー。おーこわ」
コノハ先輩は朗らかに笑った。
「白羽、明日楽しみにしてるぞ」
俺は強引に話題を変える。
「まかせろー」
白羽はアゲハ先輩の胸から顔を放すと、いつものような眠たい声で意気込んだ。
「白羽ちゃん明日はさすがに朝から練習よね」
「うんー。依頼がなければ―」
「安心しろ、当日の依頼は滅多にねえよ。去年もゼロ件だった。それにお前のライブも依頼なんだから、お前は練習してろ」
「了解ー」
「そっか。じゃあ、私どうしようかな?」
「三人で回りましょうよ」
「それはルミちゃんに悪いわよ。それにアゲハと冬川君は二人で回るんでしょ?」
「ええっと……?」
俺はアゲハ先輩を見た。
「オレはどっちでも構わねえよ」
「私が構うわよ。いいわ、私は友達と遊んでるから。二時に体育館で合流しましょ。ライブは二時からで合ってたわよね」
「あってるー。私の出番遅いけどー」
「そうなの?」
「最後からさんばんめー」
「そうなんだ、でも早く行って良い席とらないとね」
「ステージのプログラムありますよ」
俺はポケットでくしゃくしゃになっていたパンフレットを出した。学園祭実行委員会を手伝ったときに貰ったものだ。
「どれどれー?」
俺がパンフレットを広げると、コノハ先輩は俺の傍らについて覗き込んでくる。石鹸のやさしい香りがする。
「12時からチアリーディングで、1時から演劇部、2時に軽音があって、3時からは映画かあ」
「席取りも兼ねて演劇から観ていってもいいかもしれないですね」
俺が提案すると、コノハ先輩はちょっと苦い顔になった。
「うちの演劇部は独特だから、私はちょっと遠慮しておこうかな……」
「そうなんですか? アゲハ先輩はどうします?」
俺は尋ねた。
「予定なんてどうでもいいだろ。こういうのは行き当たりばったりが醍醐味だ。二時に体育館、それだけ決めときゃいいだろ」
「それもそうですね。アゲハ先輩の体調もありますし」
「余計なお世話だと言いたいが……まあ昨日の今日だしな」
瀬戸チョップの効果はなかなか持続するようだ。毎日して欲しい。
「ライブ終わったらー、みんなで回ろー」
白羽が提案する。
「いいのか? 片付けとか、打ち上げとかあるんじゃないのか?」
「私はお手伝いだからーかんけーなーい」
確かに、あの喧嘩を見た後で、白羽を軽音部に残しておくのは俺としても気が引ける。
「決まりだな。二時に体育館集合。それまでは各自」
アゲハ先輩が統括して、その日は解散となった。
しばらく喋っていたせいで、下校時刻はとっくに過ぎている。ぼちぼち見回りの先生がやってくる頃合いだろう。
俺たちは鞄を手にし、白羽はギターケースを背負い、部室を後にした。
夕焼けが学園祭に向けて飾られた校舎をオレンジ色に照らし、まるで季節外れのハロウィンのようだった。
学園祭が始まる。去年とは違う。明日俺の隣には大切な人がいるだろう。そして大切な仲間も。それだけで何もかもが違う。断言していい。俺は今夜、きっとろくに眠れない。胸が騒いでたまらないのだ。




