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バンデドール・イデルローゼの戦い

この戦いは、後の世において「バンデドール・イデルローゼの戦い」と呼ばれることとなる。


名称とは不思議なものである。戦場にいた者にとっては、ただの泥と血と鉄の記憶でしかないものが、後世の史書においては一つの言葉に凝縮される。そこに含まれる無数の叫びや逡巡は、しばしば削ぎ落とされる。


しかしその削ぎ落とされた部分にこそ目を向けたい。


バンデドール西側に布陣するのは公国軍であった。


中央にネム・ヨバン中将。


左翼にリック・ハウンド少将。


そして右翼にはコイト・メイ准将。


総兵力は5万2千。


数字だけを見れば劣勢である。


だが、彼らは「迎え撃つ側」であった。


防御とは、戦争における最も冷酷な選択の一つである。


なぜなら、退くことを前提としないからだ。


小糸はその右翼陣地に立っていた。


朝靄の中、塹壕の列が幾重にも伸びている。鉄条網が絡み合い、機関銃が据えられ、後方には重砲が沈黙している。


兵士たちは無言で銃を整備し、煙草を吸い、あるいは空を見上げていた。


「……静かですね」


モネ大尉が言った。


「嵐の前だ」


小糸は短く答えた。


その声には、奇妙な落ち着きがあった。


彼は知っている。


この静けさは、すぐに終わる。


そして一度始まれば、止まらない。


対する民国軍。


中央にハクサン・ガデーロ上級大将。


右翼にタカノブ・リュウゾウジ中将。


左翼には名誉大佐三人衆、そしてゼナ・マルコス中将。


総兵力は8万5千。


しかも精鋭。


数だけではない。


質においても、彼らは強大であった。


ゼナ・マルコス。


急遽三人衆が彼女に頼み代わりに指揮を執ることとなった。この女将軍は、冷静かつ迅速な判断力で知られていた。


「あいつら三人衆が前に出ると、戦線が歪むからな。」


彼女はそう言った。


「ならば私が整える」


戦争とは、個の力と集団の力の調和である。


突出した者がいるほど、全体は崩れやすい。


ゼナはその均衡を保つ役割を担っていた。


一方、民国兵の心理は複雑であった。


彼らは公国の重砲。28センチ榴弾砲の存在を知っていた。


その威力は、戦場において神話的に語られていた。


「地面が、ひっくり返るらしいぞ」


若い兵士が言う。


「人間なんて、跡形もねえって話だ」


別の兵が唾を飲み込む。


恐怖は、伝染する。


だがそれを打ち消すものもまた存在する。


名誉大佐三人衆の魔法「参諦」。


そしてもう一つ。


タカノブ・リュウゾウジ中将の魔法[豪圧]。


この魔法は極めて実用的であった。


兵数が多いほど移動速度が上昇し、正面衝突時には士気が高揚する。


さらに痛覚を麻痺させる。


言い換えれば、突撃のための魔法である。


「痛みを感じねえ? 最高じゃねえか」


兵士が笑う。


その笑みは、どこか歪んでいる。


痛みを感じないということは、死に近づいていることと同義である。


だが戦場では、それが利点となる。


リュウゾウジはそれを理解していた。


「人間なんざな、壊れてからが本番だ。俺が見本だ」


彼はそう言った。


このようにして、両軍は準備を整えた。


公国は防御。民国は突撃。


戦術は単純である。


だが、その単純さこそが、戦場を地獄へと変える。


やがて、時刻が訪れる。


最初に動いたのは、砲兵であった。


「撃て」


号令が下る。


次の瞬間、大地が吠えた。


民国軍の砲撃が、公国陣地を襲う。


着弾。


爆発。


土と鉄片と肉片が混ざり合う。


「伏せろォッ!!」


兵士が叫ぶ。


塹壕に身を沈める。


だが、それでも完全には防げない。


衝撃が身体を打ち、鼓膜が震える。


同時に、空では機影が交錯していた。


両軍の航空機が、空中で激突する。


機銃の閃光。


煙を引く機体。


「来やがったぞ、空の連中が!」


対空銃が火を吹く。


空と地が同時に戦場となる。


これが近代戦争である。


小糸は双眼鏡を構え、前線を見据えていた。


砲撃の中でも、その視線は揺らがない。


「……来るな」


彼は呟いた。


それは確信に近い予測であった。


敵は来る。


正面から。全力で。


近代戦は、組織的に行われていく。


弾薬は規定通りに補給され、砲弾は時間と座標に従って撃ち込まれ、伝令は決められた経路を走り、報告は書式に則って上官へ届けられる。


それは一種の機械である。


人間が歯車となり、命令が潤滑油となる。


しかし読者諸氏、ここに一つの疑問がある。


戦争は本当に、機械のように動くものだろうか。


答えは否である。


ルール通り、組織通り、それだけでは戦争は成立しない。


机上の空論、紙上に兵を談ずとは、まさにこのことを指すのであろう。


戦場とは、常に逸脱の場である。


計画は破られ、命令は遅れ、兵士は恐怖し、そして時に狂う。


さらにこの世界には、もう一つの要素がある。


魔法である。


それは科学の延長ではない。


体系化されつつあるとはいえ、本質的には「例外」を生み出す力であった。


ネム・ヨバン中将は、この例外を理解していた。


彼は中央陣地において、静かに命令を下した。


「エケイ名誉大佐に伝えろ。[西軍]を発動させる」


参謀が一瞬だけ眉を動かす。


「……今、ですか」


「今だ」


短い言葉であった。


だがその決断には、戦局を読み切った冷徹さがあった。


同時に、ネムはもう一つの手を打っていた。


機甲師団の投入である。


「前進開始」


低く唸るエンジン音。


鉄の塊が、土を踏みしめて進む。


戦車。


近代戦争の象徴ともいえる存在である。


これに対し、民国もまた戦車部隊を展開していた。


やがて、両軍の鋼鉄が激突する。


砲塔が回転し、砲口が火を噴く。


直撃。


爆発。


炎上。


「当てろォッ!! 外すな!!」


戦車長が怒鳴る。


内部は蒸し風呂のような熱気に包まれていた。


砲弾装填、照準、発射。


その一連の動作が、生死を分ける。


ロドリー大陸戦争。


その中でも、この局地戦は特異な様相を呈していた。


歩兵、砲兵、航空、そして機甲。


すべてが同時に衝突する。


それはまさに、地獄であった。


リック・ハウンド少将は、その左翼において機を見ていた。


彼は「先走る男」であったと記録されている。


それは短所でもあり、長所でもある。


機を逃さない。


だが、時に早すぎる。


「……今だな」


彼は空を見上げた。


公国側の航空機が、わずかに優勢を取っている。


ほんの一瞬の優位。


だが彼には、それで十分であった。


「左翼攻撃隊、前進!」


参謀が顔色を変える。


「まだ早いのでは」


「うるせえ。勝ち筋ってのはな、見えた瞬間に掴むもんだ」


命令は覆らない。


歩兵部隊が前進する。


機関銃を担ぎ、塹壕を飛び越え、敵陣へと向かう。


「突っ込めぇッ!!」


叫び声。


銃声。


爆発。


だが結果は失敗に終わる。


民国右翼は崩れなかった。


むしろ、反撃が迅速であった。


タカノブ・リュウゾウジ中将の[豪圧]が、そこにあった。


「止まるなァ!! 前だ前!!」


痛みを感じぬ兵士たちが、狂気じみた勢いで押し返す。


「なんだこいつら……!」


公国兵が叫ぶ。


撃っても、倒れても、進んでくる。


それは人間というより、現象であった。


リックの攻勢は、逆に損害を増やす結果となる。


「……クソが」


彼は舌打ちした。


だが後悔はしない。


それが彼の戦い方であった。


そして右翼。


小糸の戦場である。


ここでは、さらに苛烈な戦闘が繰り広げられていた。


民国の主攻。


それがこの正面であった。


砲撃は途切れず、歩兵は波のように押し寄せる。


「弾、足りてるか!」


と小糸が怒鳴る。


「あと2箱です!」


「上等だ。足りないなら奪うしかない」


その言葉に、兵士が笑う。


乾いた笑いであった。


「了解です、准将」


小糸は前線を歩く。


弾丸が掠め、土が跳ねる。


だが彼は止まらない。


兵士たちはその背中を見る。


それだけで、持ちこたえる理由になる。


だが現実は厳しい。


民国の圧力は増していた。


数。士気。魔法。


すべてが重なり、公国右翼を押し潰そうとしていた。


「……押されているな」


小糸は静かに認識した。


恐怖はない。


だが、理解はある。


このままでは崩れる。


戦場とは、崩壊の連鎖である。


一箇所が崩れれば、全体が崩れる。


それを止める者が必要である。


小糸は、その役割を自覚していた。


「まだだ」


彼は呟く。


「まだ、終わらせない」


その言葉は、誰に向けたものでもない。


だが確かに、戦場に刻まれた。


戦術は崩れ始めていた。


そして中央も少し押され始めていた。


この「少し」という言葉は、戦史において往々にして過小評価される表現であるが、実際には戦線崩壊の前兆であることが多い、と後世の軍学者は記している。すなわち、兵站が滞り、砲弾の供給が一瞬遅れ、あるいは士気がわずかに陰る。その微細な歪みが、やがて全体を裂く亀裂へと変貌するのである。


バンデドール平原の中央、ネム中将の指揮する戦線においても、それは例外ではなかった。敵、民国軍は一歩ずつ、しかし確実に前進していた。


そしてなにより恐ろしいのが、民国の総大将ハクサン上級大将であった。


彼は奇策を用いない。


奇抜な包囲も、奇襲も、欺瞞もない。


ただ真正面から、正々堂々と、兵力と統制と士気をもって押し潰す。


それは一見、愚直に見える。しかし歴史家は言うだろう。「愚直とは、最も高度な合理の仮面である」と。


彼の軍は無駄がなかった。歩兵は一定の距離を保ち、機関銃は無慈悲に火線を維持し、砲兵は分刻みで弾着修正を行う。そのすべてが一つの巨大な歯車として機能し、ただ前進する。


「押せ。止まるな。敵は崩れる」


ハクサンの声は低く、しかし確信に満ちていたといわれる。


この単純さこそが恐怖であった。対策がないのである。奇策には対策がある。しかし正攻法の極致には、正面から対抗するしかない。


小糸は焦っていた。


いや、焦りという言葉では足りぬ。むしろそれは、恐怖によって思考が鈍っていた状態であったに違いない。


彼は准将となり、そして指揮官として初めての大規模な会戦に臨んでいた。これまでの戦いでは、常に背後にコロイス大将という絶対的な判断者がいた。戦術の最終判断も、魔法の使用許可も、すべて彼に委ねられていた。


だが今、小糸は判断する側であった。


右翼戦線。第28師団。彼の判断ひとつで、数千の命が消える。


「准将、右翼第3連隊が後退を開始しています!」


伝令兵が泥と血にまみれた姿で駆け込む。


「勝手に下がらせるな! 踏みとどまらせろ!」


ギン大尉が怒鳴る。


「踏みとどまれだぁ? 弾もねえ、指揮官も死んでる、あいつらに何で踏みとどまれって言うんだよ!」


別の参謀が吐き捨てるように言った。


小糸はそのやり取りを聞きながら、ただ地図を見つめていた。


線が、崩れている。


それはただの紙の上の線ではない。人間の列であり、命の連なりであり、国家の防壁である。その線が、今まさにほどけかけていた。


どうする。


思考が重い。粘つくように動かない。


彼の脳裏に浮かぶのは、ひとつの選択肢のみであった。


[時巻]


この魔法は、敵の作戦や行動パターンを観測し、把握した上で時間を巻き戻し、再度作戦を練ることを可能とする。いわば戦場における「やり直し」である。


しかし万能ではない。


むしろ、その制約こそがこの魔法の本質であった。


使用回数は有限。


この世界に来た時から、その回数は20〜30程度と極めて少なかった。既に小糸は6回使用している。


残りは、多く見積もっても20回前後。


「あと何回だ、何回死ねる?」


小糸は心の中で呟いた。


戦争とは何か。後世の歴史家は言う。「戦争とは、選択の連続であり、その選択は常に不可逆である」と。


だが小糸は違う。


彼だけは、その不可逆を、ねじ曲げることができる。


しかしそれは同時に、選択の重みを倍加させる。なぜなら彼は知っているのだ。どの選択がどのような死を招くかを。


「准将!」


モネ大尉の声が鋭く響く。


「民国右翼、こちらに圧力を集中させています! このままでは」


崩れる。


その言葉を、誰も口にしなかった。


だが全員が理解していた。


小糸は目を閉じた。


奇襲しかない。


正面で勝てない以上、戦場の構造そのものを変えるしかない。だが奇襲はリスクが大きい。失敗すれば、その時点で戦線は崩壊する。


「……ふざけるな」


小糸は小さく呟いた。


「失敗しても、やり直せばいい。そう思ってる時点で、もう負けてるだろ」


その言葉は、誰にも聞こえなかった。


だが彼自身には、はっきりと響いていた。


だが、死ねば終わりだ。


それもまた真実であった。


どれほど未来を見ようと、どれほどやり直そうと、今この瞬間に死ねばすべては無に帰す。


戦争とは、結局のところ、生存競争である。理念も名誉も、その上に乗る飾りに過ぎない。


小糸はゆっくりと目を開いた。


「……[時巻]を、使う」


誰にともなく呟いた。


参謀たちは顔を見合わせたが、その意味を理解する者はいなかった。


だが小糸だけは知っている。


この決断が、未来を変えることを。


そして同時に、未来を削ることを。


彼は手をかざした。


戦場の轟音が、遠ざかる。


砲声が歪み、銃声が引き伸ばされ、兵士たちの叫びが低く沈んでいく。


時間が、軋む。


「……もう一度だ」


小糸は静かに言った。


そして魔法を発動した。

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