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バンデドール・イデルローゼの奇襲

時間を巻き戻し12時間前と戻った小糸はすぐさま対策を打つことにした。戦争において時間とは資源である。だがそれを文字通り巻き戻せる者がいるとき、その資源は単なる量ではなく、運命そのものへと変質する。小糸はその例外であった。彼は知っていた。すでに一度、敗北へと向かう道筋を見てしまったという事実を。


夜であった。


バンデドールの野営地は、昼の地獄とは対照的に、奇妙な静寂に包まれていた。遠方では砲兵隊が陣地の再調整を行い、機関銃陣地では弾帯の装填音が規則的に響いている。兵士たちは疲労に沈み、ある者は泥にまみれた外套のまま眠り、ある者は黙って煙草をふかしていた。


その中を、小糸は歩いた。


「……さっき見た光景と同じだな」


彼は小さく呟いた。すべてが既視感であった。兵の配置、補給線の流れ、夜警の交代時間に至るまで、既に一度経験した現実であった。


だが、それを変えねばならぬ。


それが指揮官である。


ネム中将とリック少将には自分の魔法のことを話すか悩んだが言わないこととした。これもまた史実である。ここに小糸の政治的本能が見て取れる。いかに同僚とはいえ、軍において情報とは権力であり、同時に裏切りの種でもある。


「秘密は、腐る。だが晒せば爆ぜる」


小糸はかつてそう語ったといわれる。どこで漏れるかわからない。ならば持ち続けるしかない。彼の判断は冷酷であり、合理的であった。


この夜のうちに済ますのが一番だ。


夜戦。それは近代戦においてなお危険な賭けである。通信は混乱し、識別は困難となり、誤射は頻発する。だが同時に、準備された側にとっては圧倒的な奇襲の機会となる。


小糸は決断した。


「参謀、起こせ。今から動く」


幕舎に呼び集められた参謀たちは、疲労と困惑を隠せなかった。


「准将、夜間行動ですか? この状況で?」

「状況がこうだからやるんだよ。昼間は負ける。なら夜だ」


言葉は短く、だが断定的であった。迷いは見せない。それが指揮官の務めである。


小糸は軍の一部を動けるようにした。この「一部」という表現は慎重に選ばれている。全軍を動かせば露見する。夜戦の本質は秘匿にある。


彼が選んだのは、精鋭の歩兵大隊と機動力の高い軽機関銃部隊、そして炎魔法支援班であった。砲兵は動かさない。音が出るからである。戦車も同様だ。履帯の響きは夜の静寂を裂く。


静かに、しかし確実に殺す。

それがこの作戦の骨子であった。


そして、マルコス・ボツァリスに[闇撃]を使用させ夜間奇襲を仕掛けることとした。


「やれるだろ、ボツァリス」

「やれますよ准将。むしろ、こういうのが本業だ」


その声には笑いが含まれていた。


目標は敵軍左翼のゼナ・マルコス中将本隊であった。


ここに小糸の狙いがある。戦争において「均衡」は幻想である。どこか一箇所を崩せば、全体が歪む。ゼナは急遽指揮を任された将であり、指揮系統の結節点としては最も脆弱であった。


「頭を叩く。腕じゃない」

「大胆ですね、准将」

「臆病なんだよ。だから確実にいく」


大胆さと臆病さは、しばしば同義である。失敗を恐れるがゆえに、最も効果的な一点を狙う。


兵は動き出した。


夜の中を、影のように。


「足音殺せ。息もだ」

「くそ……こんな静かな戦場、気味が悪い」

「昼間の方がマシだってか? 頭吹っ飛ばされるぞ」


兵士たちは低く囁き合う。恐怖はある。だがそれを笑いで誤魔化す術を、彼らはすでに身につけていた。


戦場とは人間を変える。ある者は壊れ、ある者は適応する。そして適応した者だけが、生き残る。


小糸はその後方で、地図を睨んでいた。


「……ここで崩れるはずだ」


それは確信ではない。だが、過去に見た未来の記憶が、その判断を裏付けていた。


時間を巻き戻す者は、神ではない。ただ、より多くの失敗を知っている人間に過ぎない。


そしてその知識は、必ずしも救いにはならない。


むしろ、重荷となる。


この夜、小糸はその重荷を背負いながら、戦場を再び書き換えようとしていた。


それが成功するか否か歴史はまだ、沈黙している。


民国左翼の本隊への奇襲作戦は深夜2時に決行された。しかし、その一行の背後には、無数の人間の息遣いと、暗闇に沈む恐怖とが折り重なっていることを忘れてはならない。


夜は深かった。バンデドールの平原は昼の砲煙をまだ大地に残し、湿った土は血を吸い、鉄の匂いを孕んでいた。そこを、小糸の命によって編成された突撃部隊が、音を殺して進んでいたのである。


「静かにしろ。息の音まで殺せ」


先導する士官が囁く。声は刃のように短く、冷たい。


兵士たちは頷いた。彼らの顔には泥が塗られ、瞳だけが暗闇の中でかすかに光っている。誰もが知っていた。この夜の任務が成功すれば戦局は変わる。失敗すれば、自分たちは歴史に名も残さず消える。


小糸は後方からその動きを見ていた。彼自身は突撃には加わらない。指揮官とは、前線に立つことではなく、全体を動かすことである。それは頭では理解していた。だが、胸の奥にある何かがそれを拒む。


(……俺は、安全な場所にいる)


その認識は、彼の心をわずかに蝕んでいた。だが同時に、彼は知っている。ここで自分が死ねば、28師団は瓦解する。戦争とは、勇気と臆病の均衡で成り立つものだ。無謀な勇敢さは、しばしば国家を滅ぼす。


「准将、配置完了まで残り5分です」


参謀が囁く。


「……いい。予定通りだ」


小糸は短く答えた。その声は平静であったが、内心は張り詰めていたに違いない。


敵を側面から攻撃する位置。それは理論上、もっとも効果的な地点である。しかし戦場において「理論上」という言葉ほど危ういものはない。地形、気候、兵の質、そして偶然。それらすべてが計算を狂わせる。


だが今回、小糸には確信があった。時間を巻き戻して得た情報。それは単なる知識ではない。未来の記憶であった。


やがて、時計の針が2:00を指した。


「撃て」


低く、しかし明確な命令が下された。


次の瞬間、静寂は破壊された。


銃声。爆音。叫び。


闇の中から現れた弾丸が、民国兵の側面を食い破る。予期せぬ方向からの攻撃に、陣形は一瞬にして乱れた。


「敵襲だ! 左だ、左から来てるぞ!」


民国の下士官が怒鳴る。だが声には既に焦りが混じっていた。


奇襲とは、心理を叩く戦術である。最初の一撃で敵の思考を奪う。それができなければ意味がない。


しかし敵兵も馬鹿ではない。


混乱は、長くは続かなかった。


「落ち着け! 陣形を立て直せ! 前へ出ろ!」


別の声が響く。それは統率の声であった。兵士たちの動きが次第に整い始める。銃撃は無秩序な乱射から、狙いを持った反撃へと変わっていく。


歴史家はこう記すであろう。「奇襲は成功したが、決定打とはならなかった」と。


なぜなら、指揮官という存在は、混乱を秩序へと変えるために存在するからである。


「敵の数が少ないぞ! 押し返せ!」


民国兵が叫ぶ。奇襲部隊の規模が限られていることは、すぐに露見した。夜襲は奇襲性に依存するがゆえに、兵力を集中できないという弱点を持つ。


だが謀には謀を重ねるのが謀である。


小糸はそこまで読んでいた。


「第二波、投入しろ」


彼は静かに命じた。


潜伏していた別動隊が動き出す。最初の攻撃で敵の注意を引きつけ、その隙に別方向から叩く。単純でありながら、最も古典的な戦術の一つであった。


「くそったれ、まだいるのか!」


民国兵が罵声を上げる。


第二波の部隊が突入した瞬間、彼は別の命令を発している。


「発煙筒、全域に展開しろ。風向きは東だ、流せ」


 これは一見、単純な煙幕の展開に過ぎぬ。しかしその実、複合的な意味を持っていた。煙は視界を遮るだけでなく、敵に「包囲されつつある」という錯覚を与える。さらに、夜間においては方向感覚を狂わせる。


「准将、煙でこちらも見えなくなりますが」

「いいんだ。見えない方がいいんだ」


小糸の声は低く、冷ややかであった。


煙の中で戦うということは、個々の兵の技量を削ぐ代わりに、統率の優劣を際立たせる。つまり、指揮官同士の戦いへと戦場を変質させるのである。


同時に、小糸は擲弾兵を前面に押し出した。


「榴弾をばら撒け。音を増やせ。敵に“数”を錯覚させろ」


炸裂音が連続し、爆光が煙を照らす。実際の兵力以上の圧力を演出する。これは古典的な「威圧」の戦術であるが、夜間と煙幕という条件下では極めて有効であった。


この一連の動きによって、小糸は民国兵の注意を引いた。


敵は、混乱ではなく「過剰な認識」によって動かされる。敵が想定する戦力を膨張させることで、その行動は必然的に過剰防御、あるいは過剰反撃へと傾く。


そのとき、民国側でもまた動きがあった。


ゼナ中将は煙と爆音による攪乱を逆手に取り、「聴覚指揮網」を即席で構築したのである。伝令兵を連鎖的に配置し、視覚に頼らず音声と号令で部隊を統制する。


「灯りを消せ! 声で繋げ! 隊列を維持しろ!」


叫びが闇を走る。兵士たちは互いの肩を叩き、位置を確認し合う。近代戦においてここまで原始的ともいえる手法を採ったことは、むしろ革新であったと後世の軍事史家は評している。


さらに民国は、あえて一部部隊を突出させた。


「前に出ろ! 煙を割れ! 敵を引きずり出せ!」


突撃部隊が煙幕を突き破る。これは危険な賭けであった。だが、奇襲部隊の実数を測るには最も確実な方法でもある。


戦争とは、常に賭けである。


だがこの犠牲すら小糸は作戦に含んでいた。


彼は知っていた。敵が必ず反撃に出ることを。そしてその反撃は、煙を切り裂く「一本の線」となることを。


「来たな……」


小糸は呟いたという。


彼は事前に、その「線」の先に標的を定めていた。すなわち、弾薬庫である。


「迫撃班、座標C-17。風向き修正、右に2度。撃て」


 短い命令。だがそれは精密であった。


 同時に、潜入していた工兵隊が動く。


「導火線、設置完了……起爆まで11秒」


彼らは最初の奇襲時に、弾薬庫周辺へと侵入していたのである。これは小糸が時間を巻き戻した際に得た情報を基に、事前に組み込んだ「遅延型破壊工作」であった。


砲撃と内部爆破。二重の打撃。


それが合わさった瞬間爆発が起きた。夜が裂けた。


炎が噴き上がり、弾薬が誘爆し、衝撃波が周囲の兵を吹き飛ばす。煙幕の中で、光だけが異様に鮮明であった。


敵の弾薬庫の一部を爆破。この記述はあまりにも簡潔である。しかし実際には、それは戦場の一角を「無」に帰す現象であった。


「弾薬がやられたぞ! 後退しろ!」

「馬鹿野郎、退くな! 踏みとどまれ!」


民国軍の中で命令が錯綜する。指揮系統が揺らぎ始める。


だが、小糸はそれ以上を求めなかった。


目的の達成のため撤退を開始した。


「全隊、後退。深追いするな。撤収だ」


彼の命令は即座に下された。


「今だぞ准将! 押せば崩れます!」

「崩れないよ。あいつらは」


参謀の進言を、小糸は切り捨てた。


ここに彼の冷静さがある。戦術的成功に酔わない。敵の本質を見誤らない。民国軍は、この程度で瓦解するような相手ではない。


「欲張ると死ぬ」


その言葉は、後に28師団の兵士たちの間で語り継がれることになる。


撤退は迅速であった。煙幕の残滓と夜の闇が、それを助ける。負傷兵を担ぎ、装備を回収し、部隊は静かに戦場から離脱していった。


戦いは終わっていない。


だが、この夜、小糸は確かに「流れ」に楔を打ち込んだ。


戦争とは巨大な河である。個々の戦闘は、その流れに投じられる石に過ぎない。だが時に、その石は流れを変える。


この夜の爆発は、そのような石であったといわれる。


そして小糸は、その石を投げた男であった。

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