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静寂と乱

戦争というものは、終結したその日から次の火種を内包する。


ウエノハラ丘陵の戦いより1年半。大陸は表面的には平穏を取り戻していた。鉄道は再び走り、都市には煙が立ち上り、兵士たちは故郷へと戻っていった。だが、その静けさは、戦場を知る者にとってはあまりにも脆いものであったに違いない。


小糸は、その静寂の中にいた。


軍人としての任務は続いていた。訓練、演習、参謀会議。そのすべてにおいて、小糸は抜かりなく準備を整えていた。戦争が再び始まる可能性を、誰よりも現実的に理解していたからである。


しかし、その一方で、小糸の内面には別の戦いが存在していた。


それは「帰還」という、きわめて個人的な戦争である。


この世界に召喚された以上、元の世界へ戻る手段があるはずだ。そう考えるのは自然であった。召喚という現象が存在するならば、その逆、すなわち帰還もまた理論上は成立する。これは魔法学の初歩的な対称性の概念に基づく推論であったといわれる。


「呼べるなら、帰せるはずだ」


小糸はそう考え、時間の許す限り書庫に籠もった。古い魔導書、戦時記録、異端とされた禁書に至るまで、あらゆる文献を漁ったのである。


紙の匂いと埃に包まれた空間で、彼は戦場とは異なる孤独と向き合っていた。


「大佐殿、またですかい」


書庫の管理兵が、呆れ半分に声をかける。


「戦争が終わっても、頭ン中は戦争中ってわけだ」


小糸は顔を上げることなく、淡々と頁をめくった。


「戦争より厄介だ。答えがどこにも書いていない」


その声音には、戦場で見せる冷徹さとは異なる、わずかな苛立ちが混じっていたと伝えられる。


かつての戦友であるカイトにも、この探索への同行を打診した。しかし彼はこれを断った。


「戻る? なんでだよ」


カイトは笑ったという。


「こっちの方が面白ぇじゃねえか。銃も魔法もある。退屈しねぇ」


その言葉は、ある種の真理を突いていた。この世界は残酷であると同時に、力を持つ者にとっては限りなく自由でもあった。


小糸は何も言わなかった。価値観の差異は、戦場ではしばしば致命的な亀裂となる。だがこのとき、それはただの分岐に過ぎなかった。


そして、その分岐が歴史に影響を及ぼすのは、さらに後のことである。


書庫に埋もれる日々の中で、それは突如として起きた。


北部メニュー地方。そこは古くから民族的緊張を孕んだ地域であり、帝国と公国と民国の緩衝地帯として微妙な均衡を保っていた場所である。


その均衡が、破られた。


エルメス王の妹、セルメス妹殿下が、ベルト公国からの独立を宣言したのである。


「……独立、だと?」


報告を受けた士官の一人が、思わず声を荒げたとし記録にある。


新たに樹立された国家は『ベルメス宗国』と名乗り、北部一帯に勢力を広げた。この事件は後に「セルメスの乱」と呼ばれ、大陸史における重大な転換点と位置付けられることになる。


国家の分裂とは、単なる領土の問題ではない。それは正統性の分裂であり、権威の分裂であり、そして戦争の不可避性を意味する。


宗国は迅速であった。即座にフライル帝国と同盟を締結し、ベルト公国に対して宣戦を布告したのである。


この一連の動きは、あまりにも整いすぎていた。偶発ではない。周到に準備された政治的爆発であったに違いない。


だが、公国側にとって真に衝撃的であったのは、別の事実であった。


「……嘘だろ」


参謀室に沈黙が落ちたとき、その言葉が誰の口から出たのかは記録に残っていない。


独立に加担した将軍の中に、あのコロイス大将の名があったのである。


コロイス大将。かつて公国軍を率い、多くの戦場で勝利をもたらした名将。その離反は、単なる戦力の喪失ではなかった。軍の精神的支柱が崩れたに等しい衝撃であった。


「ふざけやがって……あの野郎、どこまで知ってやがる」


ある参謀が吐き捨てるように言った。


問題は明白であった。コロイスは公国側の異世界転生者数や特別な魔法。また小糸の魔法[時巻]の存在を知る数少ない人物である。


この魔法は、時間という戦争の根幹に干渉しうる異質な力であった。もし敵対勢力にその存在が知られれば、小糸は単なる将校ではなく、「標的」となる。


国家が個人を守るとき、それは善意ではない。必要だから守るのである。


公国首脳部は即座に決断した。


小糸は公王庁に匿われることとなった。


「悪いが、大佐殿は前線には出せん」


小糸の護衛任務に任命された公王の親衛隊が、半ば命令口調で言う。


「今やあんたは兵器だ。しかも替えの利かねぇ類のな」


小糸はわずかに目を細めた。


「……兵器、か」


その言葉を否定することはなかった。戦争の中で人間が役割に還元されることを、彼はすでに理解していたからである。


公王庁の奥深く、厚い石壁に囲まれた一室。そこが新たな居場所となった。


外では再び戦争の気配が濃くなっていた。国家は再編され、同盟は組み替えられ、火薬と鉄が再び意味を持ち始めている。


小糸は、その中心にいながら、動けぬ位置に置かれた。


戦場に立つこともできず、帰る方法も見つからない。


それは、戦場とは別種の閉塞であったに違いない。


戦争は、常に外で起こるとは限らない。


時にそれは、人の内側で静かに進行する。


小糸という男は、その両方を背負うことになったのである。

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