ウエノハラの戦い
戦場において、士気というものは風のごときものである、と古来より言われる。目には見えぬが、ひとたび吹けば軍を押し流し、また逆巻けば自壊を招く。ウエノハラ丘陵において発動されたエミリア上級大将の魔法[義燃]は、まさにその風を一変させたのであった。
民国軍の戦線は、まるで息を吹き返した巨獣のように蠢き始める。
疲労で鈍っていた足取りは軽くなり、銃剣は再び鋭さを取り戻した。兵士たちの顔には血の気が戻り、眼差しには先ほどまでなかった「生」が宿っていた。
「まだやれる……まだ殺れるぞォ!!」
「立て!! 義は我らにありだァ!!」
怒号は丘陵を震わせた。国家という抽象が、個々の肉体に直接燃料として注がれた状態。そう呼ぶべきであろう。
このときイチ・ロ大将の率いる左翼戦線においても、変化が起きていた。
イチ・ロは戦況を一瞥し、短く命じた。
「クノヘ。やれ」
呼ばれた男、マサザネ・クノヘ中佐は、泥に汚れた軍帽を押し上げ、口の端を歪めた。
「はっ……ようやく出番かよ」
その声には、待ちかねた獣のような飢えがあったといわれる。
彼の魔法[叛炎]。
発動条件は二つ。第一に、自軍が敵より兵力で劣ること。第二に、自軍が他の魔法の影響下にあること。
戦史的に見れば、これは極めて限定的な条件である。だが、条件が揃ったとき、その効果は凶悪である。
すなわち既存の強化効果を倍加する。
この瞬間、ウエノハラ丘陵はまさにその条件を満たしていた。
民国軍は数で劣り、かつ[義燃]の影響下にあった。
クノヘは低く呟いた。
「燃え上がれよ……裏切りの炎でなァ」
次の瞬間、戦場の熱が一段階引き上げられたかのように感じられた。
兵士の一人が叫ぶ。
「なんだ……力が……溢れる……!」
「ははッ! 軽い!! 体が羽みてぇだ!!」
それは錯覚ではない。数値で言えば、戦意と体力の回復は実に40%にも及んだと推定されている。
読者よ、この40%という数値を軽んじてはならない。銃を持つ腕がわずかに速く動き、塹壕を越える足がわずかに高く上がる。その積み重ねが、戦線を押し動かすのである。
民国軍は突き進んだ。
それはもはや前進というより、雪崩に近かった。
しかし戦争とは常に均衡の破壊に対して、もう一つの破壊が用意される場である。
公国軍中央に位置する第1師団。その司令部において、アグニス・フォン・グスタフ元帥は静かに戦況を見ていた。
彼は特異な存在であった。
異世界転生者ではない。だがこの世界において、0.01%といわれる確率で発現する「特別な魔法」を持つ者。その一人であった。
彼は呟いた。
「……来たな。ならば、こちらも応じよう」
参謀が息を呑む。
「元帥……まさか」
「そうだ」
アグニスはわずかに口元を歪めた。その笑みは冷徹でありながら、どこか愉悦を含んでいたと伝えられる。
「反転させる」
彼の魔法[反律]。
それは戦場において、極めて異質な概念であった。敵軍に付与された強化効果を、文字通り「逆転」させる。
強化は弱化へ、鼓舞は絶望へ。
発動は、静かであった。
だが結果は、あまりに劇的であった。
突撃していた民国兵の一人が、突如として足をもつれさせる。
「……あ?」
次の瞬間、膝が崩れた。
「な、なんだ……急に……重……っ」
別の兵士が銃を落とす。
「腕が……動かねぇ……さっきまで……あんなに……!」
その混乱は瞬時に広がった。
先ほどまで40%の回復を得ていた身体は、突撃の最中にして、逆に40%の能力を失ったのである。
これは単なる数値の問題ではない。上昇の頂点から、一気に奈落へ叩き落とされる。その心理的衝撃は、肉体的疲労をはるかに凌駕する。
クノヘが舌打ちする。
「……クソが。反転かよ……ッ!」
イチ・ロもまた、戦線の異変を即座に察知した。
「止まるな!! 押せ!! 止まれば終わりだ!!」
だが、戦場というものは、命令だけで動くほど単純ではない。
勢いを得た軍が、その勢いのまま崩れる。それは歴史において幾度も繰り返された現象である。
コロイス大将はその光景を見て、静かに言った。
「……戦とは、均衡の連鎖だね」
小糸が問い返す。
「均衡、ですか」
「一方が強まれば、他方もまた強まる。勝敗は、その揺れの中で決まる」
それは戦争観の核心であったに違いない。
ウエノハラ丘陵において、民国軍の攻勢は一度、確かに頂点に達した。だがその頂点こそが、崩落の起点でもあった。
かくして戦場は、再び混沌へと沈んでいく。
強化と反転、信仰と理性、意志と疲労。それらすべてが絡み合い、もはや誰にも完全には制御できぬ領域へと踏み込んでいた。
均衡が戻るとき、それを見逃さず、さらに押し崩す者こそが勝者となるのである。
公国軍右翼ネム・ヨバン少将の指揮下にあった第9師団は、その機を待っていた。
ネムは戦場を睨み、わずかに顎を引いた。
「……今だ」
短い言葉であったが、その意味は明確であった。
彼女の背後に控えていた一人の士官が、一歩前へ出る。
ピエール・テライユ・ド・バヤール名誉大佐。
この男はその異様な気配によって知られていた。彼の周囲には常に、説明し難い圧迫感が漂っていたと記録されている。
ネムは振り返らずに命じた。
「バヤール。潰せ」
男は静かに笑った。
「御意。では、地獄の蓋でも開けましょうか」
その声音は軽い。だが、その軽さこそが不気味であった。
彼の魔法[畏圧]。
それは敵に対し、極度の精神的圧迫と恐怖を与えるというものである。
読者よ、ここで一つ理解しておくべきは、戦争において「恐怖」は単なる感情ではないということだ。それは兵の行動を拘束し、判断を歪め、やがて組織そのものを崩壊させる「戦術的要素」である。
発動は、目に見えるものではなかった。
しかし、民国軍の前線にいた兵士たちは、確かに感じた。
「……なんだ……?」
誰かが呟く。
空気が重い。肺に入る空気が、鉄のように冷たく、重い。
「足が……すくむ……」
「やめろ……来るな……来るなァ!!」
敵が迫っているわけではない。だが、見えぬ何かに押し潰されるような感覚が、兵士たちを襲った。
身体能力はさらに低下する。だがそれ以上に致命的であったのは、精神の崩壊である。
しかし。ここに、民国軍特有の「呪縛」があった。
三人衆の魔法[参諦]。
それは兵に「死ぬまで戦う」意思を強制する。
すなわち、恐怖によって逃げることも、撤退することも許されない。
ある兵士が叫ぶ。
「逃げたい……逃げたいのに……足が……動くなって……ッ!!」
「前に行けって……頭が……命令してやがる……ッ!!」
これこそが、地獄であった。
恐怖に支配されながら、なお前進を強制される。精神は逃げを求め、肉体は進撃を命じられる。その矛盾は、兵士を内側から引き裂く。
戦史家の中には、この瞬間を「精神的潰走が物理的前進と同時に発生した稀有な例」と評する者もいる。
小糸は、その光景を遠望しながら、静かに目を細めた。
「……終わりますね」
それは確信であった。
参謀が息を呑む。
「総攻撃、来ますか」
「いやすでに始まっています」
小糸の視線の先で、公国軍は動いていた。
号令は簡潔であった。
「撃てぇッ!! 今だ、全部吐き出せ!!」
「弾なんざケチるなァ!! ここで終わらせんだよ!!」
砲兵隊は残弾を惜しまず撃ち尽くし、機関銃は銃身が焼けるのも構わず連射を続ける。歩兵は銃剣を構え、崩れかけた敵陣へ雪崩れ込んだ。
火力の集中。それは近代戦における勝利の要諦である。限られた時間、限られた地点に、最大の破壊力を叩き込む。その一点において、公国軍は完璧であった。
民国軍は耐えきれなかった。
いや、耐えたのである。だが、耐えたまま崩れた。
恐怖と強制の狭間で引き裂かれた戦線は、ついに組織としての形を失った。
翌日民国軍は、ついに撤退を開始した。
それは秩序ある後退ではなかったが、完全な潰走でもなかった。三人衆およびエミリア上級大将の統制が、辛うじて軍の骨格を保っていたといわれる。
こうして、ウエノハラ丘陵の戦いは終結した。
結果は、公国軍の勝利。
だが、勝利とは常に代償の上に築かれる。
丘陵には無数の死体が横たわり、砲弾で抉られた大地は、もはや元の姿を留めてはいなかった。ここがかつて戦略要地として整備された場所であったことを思えば、それは文明そのものが自らを食い潰した光景であったといえよう。




