第五節 班の自由研究 第一項 市民公園の約束
第五節 班の自由研究
第一項 市民公園の約束
夏休み二日目の朝。
心地よい朝の光の中、いつもの聞き慣れた声で目が覚めた。
慶次の母「慶ちゃん、起きや。休みでもちゃんと早よ起きて、さっさとご飯食べてや。いつまでも片付けられへんからなあー」
「ん〜……」と、猫みたいに大きく背伸びをする。
昨日の病院での出来事が、一夜明けるとなんだか遠い夢だったような気がして、「よし、起きるか」と気合を入れて布団を跳ね上げた。
ダイニングで朝食を取りながら、つくづく思う。
“夏休み”……ああ、なんて甘美な響きだろう。毎日身を粉にして働いていた元・社会人の精神からすれば、これほど素晴らしいボーナスステージはない。
(宿題? そんなもの、今はどうでもいい)
そんな最高な気分に浸っていると、リビングの黒電話がけたたましく鳴り響いた。
ジリリリリリン……!
今となってはこの耳を突き刺すようなベル音すら、猛烈に懐かしい。
慶次の母「慶ちゃん、さゆちゃんから電話やでー」
受話器を持ったお袋が振り返る。
(——ん? 今、さゆちゃんって言ったか?)
それにしても、この時代の母親同士の連絡ネットワークの凄さには本当に頭が下がる。昨日の今日で、もう全部バレバレだ。小学生の男女が仲良くしていることなんて、母親たちの間では完全に「公然の秘密」というやつである。
気恥ずかしさを隠しながら受話器を取ると、「今日、時間ある?」と、宮下の少しすました声が聞こえた。
「あるというか……うん、暇」
「じゃ、市民公園で会わない?」
なんとも素朴で、小学生らしい誘い方だった。
「うん。ええよ。何時にする?」
「じゃ、十時で」
“ガシャリ”と通話が切れる。受話器を置くと同時に、俺は自分の愛車であるスーパーカー自転車(フラッシャー付きの、あのやたらと重たいやつだ)にまたがり、一気に市民公園へと向かった。
ペダルを漕ぐ足が軽い。夏の朝の風が、なんだかいつもより少しだけ心地よく感じられた。
ーー
宮下が待ち合わせ場所に市民公園を指定した理由は、すぐに分かった。
市民公園は俺たちの家から少し離れた場所にあり、同じ学校の友達に滅多に会うこともない。
(——宮下も、周りの奴らに冷やかされたりからかわれたりするのは嫌なんやな)
そんな健気な配慮に納得しながら自転車を走らせ、公園に到着すると、なんと宮下はすでにベンチに座って待っていた。
(早っ!)
さすがに早すぎると思いつつも、自転車を停めて「おはよう」と声をかける。
すると宮下は、ぷいっとそっぽを向くように言った。
「もう十時よ。『こんにちは』でしょ」
(いや、まだ九時四十分やけどな……。
『もう十時』って、どういう基準なんや……)
白百合(何よ⁉ 約束の二十分前に来て、その気の抜けた「おはよう」って! ここは五分前くらいに来て、「ごめん、待った?」でしょ! そしたら私が「うううん、全然」って、言うところじゃないの? ……なのに、何、その「どうしたの?」って顔は!)
俺は宮下の隣のベンチに腰を下ろした。
少しの沈黙の後、宮下が先に口を開いた。
「もう、大丈夫なん?」
「うん、もう大丈夫や。ありがとな」
「よかった……。松野くん」
そう言った宮下は、何か言いたげな、少し探るような表情を見せた。
「ん、何?」
「あのね、……万博公園のチケットが家にあるんだけど……今度、一緒に行かない?」
(——オッ!?)
まさかの宮下からのデート(?)の誘いだった。
大人の精神を持っているはずなのに、なぜか俺の方が完全に後手に回っている。おかしいなあ、リードしているつもりだったのに。
「うん。ええよ。どうせ夏休み、暇やしな」
(ああ、また照れ隠しで『暇やし』なんて可愛げのない誤魔化し方をしてしもた。俺、中身はおっさんのくせに、いつまで経ってもこういうところ成長せえへんねんな……)
心の中で激しく反省していると、宮下は少し間を置いて、真剣な目をこちらに向けてきた。
「えーとね、松野くん。ちょっと聞いてもいい?」
「ん? なに?」
「班替えのあと、のんちゃん(斉藤班長)にこっそり聞いたんだけど……。一番最初の班員に私を推してくれたのは、松野くんだって言ってた。……どうして?」
「それは……宮下は足早いし……」
そこまで言って、俺はハッと息を詰めた。
次の言葉が、完全に喉に引っかかって出てこない。
「えっ? 私が足早いこと、なぜ知ってんの? 運動会は秋だし、五年生になってから体育の授業でも、まだ一回も走ってないのに。……どうしてなの?」
宮下が一歩、ぐいっと顔を近づけてくる。
完全に墓穴を掘った。前世の記憶をうっかり今の時間軸に持ち込んでしまったのだ。
「それは……その、なんや……そんな気がしたんよ!」
苦しい。自分でも引くくらい、めちゃくちゃに苦しい言い訳だった。
二人の間に、なんとも言えない気まずい沈黙が落ちた。
宮下はすっとベンチから立ち上がると、帽子を直しながら言った。
「じゃ、私帰るね。宿題もあるし」
「あっ……うん。またな」
小さく手を振って去っていく宮下の背中は、夏の陽炎の中で、いつもより少しだけ遠く見えた。
ーー
自業自得の失敗を頭の中でリフレインしながら過ごした、その日の夕方。
今度は班長の「のんちゃん」こと斉藤乃梨子から、突然の招集連絡が入った。
用件は、夏休みの宿題である「各班の自由研究」の検討会。
翌日の午前十時に、斉藤班長の家に集まって実施することになった。
とはいえ、当時はスマホのナビどころか、ネットの地図すらない。友達の家へ行くにしても、まずは誰もが知っている場所――学校の正門前や、いつもの駅前など――に一度全員が集まり、そこからみんなでゾロゾロと移動するのが普通だった。




