溢れ話1 『難波の夏と、秘密の馬券』
溢れ話1 『難波の夏と、秘密の馬券』
昭和五十四年六月三日、日曜日。
朝、いつものように目を覚ます。
こっちの世界に戻ってきてから一か月ほどが経った。昨日も学校で文化祭の練習をしていたせいか、最近は四十五歳までの記憶の方がむしろ嘘みたいに思えてくる。
すっかり小学五年生の日常にどっぷり浸かっているな……と、妙な感覚に耽っていた時のことだ。
リビングのテーブルを見ると、親父が赤ペンを片手に、スポーツ新聞を真剣な顔で見つめて唸っていた。
何を見ているんだ? プロ野球か? 親父、この時代はクラウンライターズのファンやったっけ、それとももう西武ライオンズに変わってたっけ……。
そう思って背後からこっそり覗き込むと――なんと、競馬の出走表だった。
(おおっ、競馬か! 小学生当時は当然まったく興味なかったけど……。どれどれ、あ、宝塚記念や!)
脳内の前世データベースが瞬時に起動する。昭和五十四年の宝塚記念といえば、前年のダービー馬サクラショウリと、バンブトンコートの一番人気・二番人気が、そのまま一着・二着で決まったレースだ。ちなみに俺の好きだったグリーングラスは三着に敗れている。
(ってことは親父、これからウインズ難波に行くんやな。いや、当時は大阪球場の中にあった場外馬券場か! ええなぁ、俺も行きたい……!)
親父「おい、慶次。今日はひまけ?」
新聞から目を上げた親父が、独特の鹿児島弁で訊ねてきた。
親父「ひまなら、馬、いっどん行っが(競馬、一緒に行くか?)」
慶次「ほんま!? ええのん?」
すかさず台所からお袋が、少し呆れたように釘を刺してくる。
お袋「あんた、よかかげんにしちょきや(いい加減にしなさいよ)」
親父「だいじじゃっど(大丈夫だって)。なぁ、慶次?」
慶次「うん。多分、知らんけど」
(やったーー! まさかこっちに戻ってきて早々に競馬ができるなんて。まさに天にも昇る気持ちとはこのことや。よっしゃ、ちょっと小遣い増やさせてもらおう! ……あ、タイムパトロールとか来えへんよな? ほんのちょっとだけ、ちょっとだけやから……!)
ーー
独特の熱気とタバコの煙が立ち込める、大阪球場の場外馬券場に着いた。
親父「おい、宝塚は何が来っどち思う(何が来ると思う)?」
慶次「うーん、サクラショウリと、バンブトンコートかなぁ」
親父「一番人気じゃっどが。そげんガチガチじゃ、おもしろなかど(面白くない)。おいはグリーングラスとホクトボーイにすっど」
(おー、そういえばウチの親父、絵に描いたような穴党やったな……)
親父「慶次、たまにゃ勝負せんにゃ(勝負しなきゃな)」
慶次「はいはい。2ー4(枠連)が来ればいいね」
親父「ほいじゃ、十二時にこけ(ここに)集まっど」
慶次「うん、わかった!」
そう言い残し、親父は人混みの中へと消えていった。
(よくもまぁ、小学五年生をこんな鉄火場に一人で置いていくな……)と苦笑しつつ、親父に買ってもらった競馬新聞を広げる。
(どれどれ……。お、六番のグリーングラス、複勝310円もついてるやん。グリーングラス、今日で七番人気なんか。枠連の5ー7は270円やから、これ絶対に複勝一点買いの方が美味しいな。よし、今日持ってきた5,000円、ここに全額投入や!)
これくらいの金額なら、きっと歴史の修正力も目を瞑ってくれるはずだ。
意を決して馬券売り場の窓口へ向かう。売り子のおばちゃんがこちらをチラリと見た瞬間、「あ、子供だって注意されるか!?」とヒヤッとしたが、
慶次「複勝、6番を5,000円」
おばちゃんは何の疑問も持たずに馬券をプリントしてくれた。
なにしろ俺は、小学五年生にしてすでに身長百六十センチ、体重八十キロという堂々たるガッチリ体型だ。見た目は完全に少し小柄な大人、平成と違って大きな子供服なんてないから、親父とシェアできる大人の服装。 そして頭脳はおっさんである。ビワハヤヒデ並みに立派なその体格のおかげで、怪しまれることなく問題なく購入できた。
正午に親父と一度合流して昼飯を食べた後、親父は再び戦場へと消えていった。次の集合は午後四時半だ。
俺の手元には、見事に5,000円から15,500円へと化けた現金が残っていた。
ホクホク顔で四時半に集合場所へ行くと、少し遅れて親父が満面の笑みを浮かべて歩いてきた。どうやら本命の宝塚記念は外したものの、最終レースの特別戦でなかなかの馬券を当てたらしい。心の中で「よかったね、親父」と声をかける。
帰りは、機嫌のいい親父が「551蓬莱」に寄り、お土産の豚まんとシュウマイをこれでもかと買い込んでくれた。ついでに「北極」のアイスキャンディーまで持たせてくれる。
五感のすべてに突き刺さる、無茶苦茶懐かしい難波の味。今日は本当にいい一日だった。
それにしても、子供の頃に食べたあの551の豚まんは――なぜ、あんなにも美味しかったんだろう。
「親父、また連れてきてくれへんかなぁ……」
手元の豚まんの温もりを感じながら、俺は密かにそんなことを願っていた。




