第三項 心残り
第三項 心残り
夏休み初日の朝。
空気はすでに朝から湿った熱気を孕んでいて、遠くの街路樹からはセミが賑やかに鳴き始めている。
学年主任の磯山先生とは、桜橋駅で直接待ち合わせることになっていた。
だから俺は、駅へ向かう途中のいつもの角を曲がったところで、宮下と合流する予定だった。
ーー
角を曲がると、白い夏物の帽子が風に飛ばされないよう手で押さえながら、小走りでこちらに向かってくる宮下の姿が見えた。
「松野くん、おはよう!」
「おはよう」
いつもより少しだけ高めの、明るい声。
そして、昨日彼女の家に行って距離が縮まったせいか、並んだときの距離がいつもより近い気がした。
「私、遅れてない?」
「ううん、ちょうどやで」
そう言って駅に向かって並んで歩き出す。
学校以外で、こうして二人きりで歩くのはなんだか不思議な感じだった。でも、決して嫌じゃない。むしろ、じんわりと胸の奥が温かくなるのを感じていた。
(昨日のあの砂場の夢、なんやったんやろな……)
そんなことをぼんやり思いながら歩いていると、宮下がふと横目でこちらを覗き込んできた。
「松野くん、緊張してる?」
「まあ、ちょっとはな」
「私も」
その『私も』という飾らない一言が、なんだか俺の肩の力をすっと軽くしてくれた。
桜橋駅が近づくにつれ、通勤を急ぐ大人たちの足音とざわめきが増していく。
駅前の時計台の下には、すでに学年主任の磯山先生が腕を組んで立っていた。
学年主任「おはよう、二人とも。暑い中すまんな。じゃあ、行こか」
先生のその声に、今日という日が俺にとって“特別な一日”になるような、そんな予感が肌を突き刺した。
ーー
大阪市内の大きな病院に着くと、磯山先生は腕時計をちらりと見てから言った。
学年主任「ほな、俺はここで待ってるから、二人で行っといで」
俺と宮下はお互いに小さく頷き合い、重い自動ドアをくぐって病院の中へ入った。
ドアが開いた瞬間、ひんやりとした空気と、特有の消毒液の匂いが一気に押し寄せてくる。
宮下が小さく息をのんだ。
「……なんか、急に緊張してきたね」
「まあな」
俺も生唾を飲み込んだ。大人の中身を持ってしても、この白々とした廊下は落ち着かない。教頭先生から預かった紹介状を受付で見せ、案内された病棟へ向かう。
白い床の廊下が、やけに長く、どこまでも続いているように感じられた。
ーー
「ここやな」
病室の前に立つと、宮下はクラス全員の手紙が入った封筒を大事そうに胸に抱えたまま、俺を見上げてきた。
「松野くん……先にノックして?」
「え、俺が?」
「だって……クラスの代表でしょ?」
そう言って、悪戯っぽく少しだけ微笑んだ。そのいつもの笑顔に、俺の強張っていた胸が少しだけ軽くなる。
コンコン。
「……どうぞ」
中から、少し弱々しいけれど、確かに聞き覚えのある雨宮先生の声がした。
病室に入ると、ベッドの横に付き添っていた優しそうな女性が、俺たちを見てパッと表情を和らげた。
「あら、かわいいお客さんやね。こんにちは。あなた、私ちょっとお茶淹れてくるからね」
雨宮「おう、頼むわ」
奥さんが病室を出ていくと、ベッドの上に上半身を起こした雨宮先生は、少し険しい、けれどどこか複雑な顔で俺たちを見た。
雨宮「松野……わざわざ来てくれたんやな。宮下も、ありがとう」
松野「元気そうで安心しました。これ、クラスのみんなから預かってきた手紙です」
俺が封筒を差し出すと、雨宮先生はそれを両手で恭しく受け取り——そのまま、ベッドの上で深く深く頭を下げた。
雨宮「松野……悪かった。このとおりや、本当にすまんかった」
松野「いや、先生。私が悪かったんです」
俺にとっては、もう前世も含めれば三十五年以上も前のこと。とっくに折り合いをつけて、ほとんど忘れていたはずのことだった。
だが、たった数か月の間、ここで一人で病魔と闘いながら後悔を反芻していたであろう雨宮先生は違った。先生はポロポロと涙を流しながら、震える声で言葉を絞り出した。
雨宮「ほんまに悪かった……。子どもは、思ったことをその場でパッと口に出してしまうもんや。それなのに俺は……お前の体の大きさを見て、つい同じ大人の目線で怒りをぶつけてしもた。先生として失格や。どれだけ大きく見えても、児童は児童や。体の大きさなんて関係あらへんのに……。辛い思い、させてしもて、本当に堪忍な……」
先生の手の中で、みんなの書いてくれた手紙の封筒がクシャクシャになるほど強く握りしめられていた。
その大きな肩が、子どものように小刻みに震えている。
——そうだ。思い出した。
あの四月の始業式のあと、ホームルームで自己紹介が終わった直後のことだった。
雨宮先生が、「ほんまは今日、一緒に新学期を迎えるはずやった〇〇くんのことやけどな」と、病気で長期入院中の児童の話を切り出した瞬間。
俺は咄嗟に、その場に全くふさわしくない冷ややかな言葉を発してしまったのだ。
なぜあんなことを言ったのか、今考えても分からない。
でも、その瞬間に教室の空気が凍りついたことと、その後に味わった猛烈な“嫌な気持ち”だけは、今、目の前の光景と共に鮮明に蘇ってきた。
ーー
雨宮先生にとっては、たった四か月前の生々しい記憶だ。
あの日——俺が不適切な言葉を発した瞬間、雨宮先生の顔が怒りでみるみる般若のように険しくなった。
雨宮「松野、お前、今なんて言った! もういっぺん言うてみい! おい、そこに立て!」
先生が地響きを立てるようにこちらに向かってくる。
俺はすぐに立ち上がり、「すみません」と頭を下げた。
——その瞬間だった。
バシッ!
激しい平手打ちが、俺の頬に飛んできた。
乾いた音が教室中に響き渡り、火を吹いたような痛みに視界が一瞬ぐにゃりと揺れた。
「すみません……すみません……」
俺はそれ以上何も言えず、机に顔を埋めて、ただ何度も何度も謝り続けた。
雨宮先生は険しい顔のまま、「そこにそのまま立っとけ!」と言い放ち、学活が終わっても、一時限目の授業中も、俺はずっとクラスの晒し者にされたまま立たされていた。
一時限目が終わりのチャイムが鳴ると同時に、俺は堪えきれずに泣きながらトイレの個室に駆け込んだ。
どれくらい声を殺して泣いていたか分からない。
ようやく個室から出ると、クラスメイトの男子が心配そうな顔で待っていて、黙って冷たく濡らしたタオルを差し出してくれた。
トイレの鏡を覗き込むと、俺の左頬は痛々しいほど真っ赤に腫れ上がっていた。
教室の机に戻っても、俺はただ小さくなって、ずっとうずくまっていることしかできなかった。
——あのときの耳がキーンとするような痛みも、クラス全員に見られた恥ずかしさも、理不尽な悔しさも、すべてが今、昨日のことのように蘇ってくる。
でも、それでも俺は知っている。きっかけを作ったのは、間違いなく俺の不条理な一言だった。
ただ、あのとき植え付けられた強烈な“嫌な気持ち”だけは、どれだけ時が流れても胸の奥の澱として残り続けていたのだ。
ーー
そういえば——子どもの頃から、体が大きいということは、俺にとってずっと「コンプレックスの塊」でしかなかった。
未熟児で小さく生まれたはずなのに、気がつけば幼稚園の頃には周りより一回りも二回りも大きくなっていた。
小学一年の家庭訪問のとき、担任の先生が親にこう言ったのを覚えている。
「松野くんは皆より体が大きいですからね。本人がちょっと小突いたつもりでも、周りの小さな子にとっては大怪我になるかもしれない。だから、絶対に手は出さないように厳しく言って聞かせてください」
親からも、耳にタコができるほど同じことを言われた。
——俺はまだ、何も悪いことをしていないのに。
その『やってもいないことで、最初から加害者扱いされて責められる感覚』は、幼い俺の心にとって強烈なストレスだった。
だから、学校で友達に理不尽に叩かれても、ふざけてプロレス技をかけられても、どんなにいじめられても、俺は絶対に手を出し返さなかった。出せなかった。
周りの奴らも、俺が絶対に反撃してこないことを知っていた。だから、殴られた側の痛みも知らないまま、平気で俺を踏みにじってきた。
先生たちだって同じだ。
他の男子が俺と同じ悪さをしても、あるいは俺が何もせず、ただそこに突っ立っていただけでも、たまたま体が大きくて目立つという理由だけで、俺だけが蹴られ、頭を小突かれ、スケープゴートのように厳しく叱られてきた。
——あの頃の俺は、ただひたすら、唇を噛み切るほど我慢するしかなかったんだ。
だからこそ。
雨宮先生の病室で、かつてあれほど絶対的な恐怖だった「大人の先生」が、弱り果てて涙を流しながら俺に頭を下げている姿を見た瞬間。
俺の中で、何かがプツンと静かに切れた。
「……じゃ、先生。みんな、先生が早く治って学校に帰ってくるのを待ってます。早く病気治してください」
一気にそれだけをまくしたてると、俺はまるで何かから逃げるように、踵を返して病室を飛び出した。
廊下に出たところで、ちょうどお盆を抱えた雨宮先生の奥さんが戻ってきた。
「あら、もう帰るの? せっかくお茶淹れてきたのに」
「失礼します」
俺は足早にそれだけ言って頭を下げ、振り返りもせず玄関へ向かって歩いた。
病院のロビーで待っていた磯山先生が、俺の尋常じゃない気配を察したのか、少し驚いた顔で立ち上がった。
磯山「あれ? ずいぶん早かったな。もうちょっとゆっくり話してきてもよかったんやで」
松野「あっ、いえ、もう用事は終わりましたんで……帰ります」
そう言って、俺は先生を置いて駅の方へと歩き出した。
胸の奥が、冷たい泥をかき混ぜられたように、ずっと激しくざわざわと波立っていた。
ーー
帰りの電車。
俺は窓の外を流れる景色を見つめたまま、一言も発さずに座っていた。
さっきまでの病室の熱気と、ドス黒い記憶が、胸の奥に重く重く沈殿している。
宮下は、そんな俺のすぐ横に、そっとぴったり寄り添うように座っていた。
「何があったの?」とも、「大丈夫?」とも聞かない。ただ静かに、そこにいてくれる。その何も言わない沈黙が、今の俺にはたまらなく優しかった。
ふいに、目の奥が熱くなり、涙が込み上げてきた。
大人の男が、小学生の女の子の前で泣くなんてみっともない。体がガタガタと震えそうになる。
——絶対に悟られたくない。
そう思って、歯を食いしばって必死にこらえた、その瞬間だった。
隣にいた宮下が、そっと俺の頭に手を添え、自分の胸元に優しく抱き寄せた。
「……こうすると、落ち着くんだよ」
その声は、電車のガタゴトという走行音の中で、驚くほど静かに、でもどこまでも温かく鼓膜に届いた。
お母さんのような、でも昨日確かに嗅いだ、彼女の家の柔軟剤の匂い。
俺は抵抗できなかった。いや、抵抗する理由なんて、どこにも見つけられなかった。
それはまるであの夢の砂場で、俺にぎゅっと抱きついてきた小さな温もりと、どこかで確かに『交差』しているかのような感覚だった。
そのまま、俺たちはどちらも言葉を発しないまま、目的の桜橋駅まで移動した。
反対側の席に座っていた磯山先生は、何かが起きたかと察してか、気まずそうにずっと窓の外へそっぽを向いていてくれた。
桜橋駅の改札を出ると、宮下は俺の手をそっと握りしめた。
やっぱり、何も言わない。
ただ、小さな手をしっかりと握ったまま、俺の家があるところまで、夏の強い日差しの中を一緒に歩いてくれた。
家の玄関の前に着くと、宮下は名残惜しそうに、でもスッと手を離し、いつもの眩しい笑顔に戻って言った。
「じゃ、またね。バイバイ」
去っていく彼女の背中を見送りながら、俺の胸の奥には、今までに味わったことのない切なくて甘酸っぱい感覚がふっと去来していた。
——ああ、これはきっと。
俺の人生にとって、生涯忘れられない夏になる。




