第二項 あじさいの咲く帰り道
第二項 あじさいの咲く帰り道
班替え、席替えから二十一日目。
学校は終業式を迎えた。
明日から、いよいよ待ちに待った夏休みだ。
講堂で終業式を終えたあと、教室で教頭先生から通知表を手渡され、さらに「夏の友」「日記」「個人課題(読書感想文、図工、書写、研究など)から一点」「班ごとの自由研究」……と、机の上には盛りだくさんの宿題リストが配られた。
教頭「皆さん、一学期は色々ありましたが、また二学期に向けて、勉強はもちろんやけどな、家でゴロゴロするだけやのうて、さまざまな体験や親孝行など、充実した夏休みを過ごしてください」
日直「起立、礼」
クラス全員「ありがとうございました。さようなら」
終礼後、みんなが机の片付けを始める中、教頭先生が俺たちの席へ歩み寄ってきた。
教頭「松野くん、宮下さん。明日、学年主任の磯山先生が雨宮先生のお見舞いに同行します。午前九時に桜橋駅で待っててください」
松野・宮下「「はい!」」
教頭先生が去り、教室が一気に放課後のざわめきに包まれる中、隣の宮下がスッとこちらを向いた。
「松野くん、今日このあと予定ある?」
「いや、特にないけど」
「家に帰ったあと、うちに来ない? 松野くん家でもいいけど」
「えっ」
「明日の打ち合わせ、したいんやけど」
「あー、うん。そうやね。そうしよっか」
(……あれ? なんだか調子が狂うなぁ。
宮下って、こんなにぐいぐい来る感じのタイプやったっけ?
まあ、せっかく同じ班で隣の席になったというのに、教室では周りの目が気になってまともに話せていなかったからな)
「私の家、知ってる? 松野くんの家に一回寄ってから、一緒に行く?」
(もちろん知ってるけどな。ここは知らんフリした方がええやろな)
「うん、頼むわ」
カバンや習字道具といった重い荷物を一度置くために、まずは俺の家へ宮下を伴って帰ることになった。
ーー
家に帰ってドサリと荷物を置き、冷蔵庫の麦茶を一杯あおったあと、俺は心を落ち着けるように深呼吸を一つした。
——宮下の家に行く。ただそれだけのことなのに、胸の奥が妙にそわそわして落ち着かない。
いや、別に変な下心があるわけじゃない。ただ、今までほとんど話したことのなかった『好きな子』と、放課後に二人きりで会うなんて、前世も含めて初めての経験だったからだ。
俺の家の前で待っていた宮下は、いつもより少しだけ表情が柔らかく、明るく見えた。
「じゃ、行こっか」
「う、うん」
俺の返事が少し上ずったのを、宮下は気づいたのか気づいていないのか、ただ前を向いて歩き出した。
夏休み前の昼下がり。
道端のあじさいが、夏の日差しの中で色を濃くしている。遠くからは、いよいよ本格的な夏を告げるセミの鳴き声が響いていた。
そんな中、俺と宮下は適度な距離を保ちながら、並んで歩いた。
「松野くん、明日さ……緊張する?」
「まあ、ちょっとはな」
「だよね。私も」
その「私も」の一言が、なぜか胸の奥にすっと温かく染み込んできた。
ーー
「ここだよ」
宮下が立ち止まって指差したのは、白い壁に赤いポストがついた、どこか温かみのある二階建ての一軒家だった。
玄関の扉を開けると、ふわっと柔軟剤の香りと、昼食の支度をしていたのだろう、どこか温かい匂いが混ざった、いかにも“よそのお家”の匂いが鼻腔をくすぐった。
「ただいまー」
宮下が靴を脱ぎながら声をかけると、奥からパタパタと足音がして、エプロン姿の女性が現れた。宮下の母親だ。
白百合の母「あら?」
「同じクラスの松野くん」
「こんにちは、松野といいます。おじゃまします」
俺が丁寧にお辞儀をすると、宮下の母親はパッと顔を輝かせた。
白百合の母「いらっしゃい。慶ちゃん、大きくなったねぇ!」
「お母さん、もう……」
——ん?
(俺のこと、知ってる……?)
宮下の母親と会うのは、今世ではこれが初めてのはずだ。なのに「慶ちゃん」と、まるで昔から俺の成長を見守ってきたかのような呼び方をされた。
俺は一瞬、戸惑って返事が遅れてしまった。
「あ、はい……」
宮下の母親はにこやかに笑って、「ゆっくりしていってね」と言い、楽しそうに台所へ戻っていった。
宮下は少し決まり悪そうに、恥ずかしそうな顔で俺を振り返った。
「……ごめんね。うちのお母さん、昔から人の名前覚えるの、妙に早いんよ」
「あ、うん。気にせんといて……」
宮下はそう誤魔化したけれど、俺の胸の奥には、「なぜ俺の名前だけでなく、あんな親しげな呼び方まで知っているんだ?」という、小さな違和感の棘が刺さっていた。
「こっち」
宮下に案内され、リビングのテーブルに向かい合って座った。
「松野くん、お昼ご飯、まだでしょ?」
「うん。家に帰って、麦茶を飲んだだけやから」
「じゃ、お昼、一緒に食べよ。お母さん、何かある?」
宮下が台所に声をかけると、すぐに母親の返事が返ってきた。
白百合の母「もうすぐできるから、ちょっと待っててな」
松野「えっ、いいんですか?」
白百合の母「ええよ、ええよ。慶ちゃんも遠慮せんと食べていき」
(いや、だから、なんでそんなに親しげなんや……)
俺は少し戸惑いながらも、お言葉に甘えることにした。
やがて運ばれてきた昼食を、宮下と向かい合って食べる。いつもの家族との食事とは違い、目の前に好きな子がいるというだけで、どうにも落ち着かなかった。
白百合の母「そういえば、慶ちゃんとさゆちゃん、同じ班になったんやって?」
松野「はい。席も隣なんです」
白百合の母「あら、そうなん。学校でも仲良うしてくれてる?」
松野「はい。まあ、いろいろと」
(いろいろ、か。実際には、俺のほうが宮下のことを気にしすぎて、教室ではなかなか話しかけられへんのやけどな)
宮下「お母さん、松野くんとは、まだそんなに話してへんよ」
白百合の母「そうなん? せっかく隣の席になったんやから、これから仲良うしたらええやん」
宮下「もう……」
宮下は少し困ったように笑った。
昼食を終えると、宮下の母親が紅茶とケーキを出してくれた。
それをいただきながら、クラスの様子や雨宮先生のこと、班替えのことなど、学校生活の話に花が咲いた。宮下の母親から学校での様子を尋ねられ、俺も答えられる範囲で話をした。
テレビから微かに流れるニュースの音を聞きながら、彼女の家の匂い、彼女の声、そして宮下の母親の温かさに包まれているうちに、先ほどの違和感はいつの間にか薄れていった。
「明日のことなんだけど……」
宮下は、学校で教頭先生から預かったクラスメートの手紙が入った封筒をそっとテーブルに置いた。
「みんなからの手紙、ちゃんと渡せるかなって思って。ちょっと不安で」
「大丈夫やろ。俺も一緒やし」
「……うん」
その「うん」は、心細さが消えて、どこかホッとしたような優しい響きだった。
それから俺たちは、明日の集合時間、持ち物、そして先生への手紙の渡し方などを確認し合った。大人の俺からすればなんてことのない事務的な“打ち合わせ”のはずなのに、小学生の体での宮下との時間は、どこかぎこちなくて、でもひどく心地よかった。
ーー
「じゃあ、明日、桜橋駅でな」
「うん。気をつけて帰ってね」
玄関で靴を履きながら、俺はふと振り返った。
玄関の明かりに照らされた宮下は、学校で見るときよりも、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「……じゃあね、松野くん」
「うん。また明日」
カチャリと玄関の扉が閉まる音が、夕暮れの静けさの中に響き、なぜかいつまでも胸の奥に残っていた。
家に帰ると、ちょうど夕飯の時間だった。
「ただいま。お母ちゃん、今日な……」
宮下の家で過ごした時間を思い返しながら、俺は母ちゃんと少し話をし、夕飯を済ませた。
「ほな、行ってくるわ!」
「はいはい、気ぃつけてな」
いつものように剣道の道場へ向かった。
稽古で思いきり汗を流して家に戻ると、すぐに風呂に入り、明日の準備を万端に整えて、いつもより早く布団に潜り込んだ。
昼間の宮下の家での出来事を頭の中でリフレインしているうちに、心地よい疲労感と共にいつの間にか深い眠りへと落ちていった。
ーー
——ん?
やけに太陽の光が眩しい。
ここはどこだ? 視界の上から、大きな女性が優しい眼差しでこちらを覗き込んでいる。
あっ……お母ちゃんだ。しかも、やけに若い。
周りを見回すと、大きな滑り台、ブランコ、鉄棒、そして……今ではすっかり見かけなくなった、懐かしい回転式の地球儀(UFO)の遊具。
視線を落とせば、一面の砂場。
俺の右手にはプラスチックの黄色いスコップ、左手には小さな青いバケツ。
——俺、幼児になってるのか……?
すると、背後から聞き覚えのある、あの優しい女性の声が響いた。
「慶ちゃん、また遊んでねぇ」
……宮下のお母さん、か?
ん? 体の右肩がやけに重い。
見ると、小さな幼児が俺の体にぎゅっと抱きついていた。
白百合の母「さゆちゃんは、ほんま慶ちゃんのこと大好きやもんなぁ!」
え……?
(俺、宮下のこと……昔から知ってたのか?
というか、俺が忘れていただけなのか?
あんなに、一緒に泥だらけになって遊んだのに……)
そこで、意識がふっと白く途切れた。
目を覚ますと、すっかり朝になっていた。
窓の外からはセミの大合唱が聞こえる。夢のあとの続きをどれだけ手繰り寄せようとしても、どうしても思い出せなかった。
「……まあ、いいか」
頭を振って布団から出ると、朝食を素早く済ませ、俺は宮下との待ち合わせ場所である桜橋駅へと急いだ。




